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ふらつく足で向かうのは、町のはずれにある廃教会。長年手入れがされていないせいであちこち崩れてしまっているが、精緻なステンドグラスが美しく、その場所はアリステルのよりどころだった。
蝶番が錆び、斜めに閉ざされた木製のドアを開く。ぶわりと埃が全身を襲い、たまらず咳き込む。痩せた体は咳き込むたび、骨の浮かんだ胸が軋んで痛み出す。それでも引き返す気持ちにはならず、アリステルの足はそのまま夕日に反射して煌く家屋へと進んでいった。
一歩、また一歩、積もった埃を踏みしめ、花園に囲まれた神を描いたステンドグラスへと近づいていく。よろめく足取りで。光を背に見下ろす神に縋るように。アリステルは眩しさに目を眇めながらも距離を縮めていく。
数歩の道程を這うようにして神の御元までたどり着くと、アリステルはステンドグラスを見上げる。暮れゆく太陽は赤く色づき、まるで血染めのようだと感じながらも、霞んだ目で記憶に刻むようにして眺めている。
金色の髪と蒼天の瞳の神は、優しい微笑みを浮かべてアリステルを見つめている。
(……ああ、やはりあの方によく似ている)
脳裏に数年前の姿のまま止まった最愛の人の姿が浮かぶ。きっと、神のように美しい青年になっているだろう。
(会いたい……でも、もう二度と会えないし、多分、そこまで生きていけないだろう)
思い出すのは微笑む姿ではなく、厳しい顔で激高する姿。かたわらに美しい男爵令嬢を侍らせて。春の空の瞳は凍てつく氷の瞳となって、アリステルを鋭く睨む。長い間、何度も見続けてきた冷たい目。
きっと、彼はアリステルを嫌っていた。だけど。
(しあわせを願うなら自由だよね)
弱った体を叱咤し、床に這い蹲る体を起こして、祈りの形を作る。煤けた額を組んだ指に押し当て、ただただ彼の人の永遠のしあわせを祈り続ける。もしかしたら、アリステルの願いなど不要だと吐き捨てるかもしれない。
彼の人の愛する人を傷つけ、何度も仲を引き裂いたと言われたアリステルは、貴族子息から平民へと落とされた。両親から渡された金貨数枚も、一ヶ月もしない内に盗まれ、アリステルの生活はどん底へと突き落とされた。
草を食べては下痢に苦しみ、家のない体は雨に打たれ弱っていった。彼の人や男爵令嬢を慕う民からは、彼らを傷つけたアリステルに憎しみを募らせ、石を投げられたりもした。
白銀の美しかった髪は艶もなくボサボサで、頭を洗う機会も少なく、血と脂に塗れたまま。白磁の肌も垢の浅黒さに変わり、栄養のない腕は枯れ木のように細い。
たった数年で美貌の侯爵子息は浮浪者に変わり果て、昔の自分を知る人が見ても、アリステルとは気づかないだろう。
(きっと、あの方も僕の今の姿に気づかないだろう)
彼の人がアリステルを見かけても、路肩の石を見るような視線しか投げてこない。それでいい。それだけのことを、アリステルは犯したのだから。
好きだから。彼の人の婚約者だから。侯爵子息だから。
男爵令嬢ではなく、侯爵子息の自分のほうが、彼の人に相応しい。故に排除するべきだ。
高慢だった頃の自分は、ひとつの疑問すらなく、それを当然と思っていた。
間違っていないと、自分は正しいと勘違いして、彼の人の周りから人を排除していった。
だって自分は彼の人の婚約者なのだから。そうするべきだと疑っていなかった。
何度彼の人がアリステルを諭しても、小さな箱庭で生きてきたアリステルの耳には届かなかった。
(それが今の僕なのだけど)
断罪され、実家からも追い出され、身分も奪われ。地獄に堕ちてはじめて、アリステルは自身の罪に気づいた。だから廃した教会で祈るのだ。自らの罪と、彼の人のしあわせを願う。いつか彼の人が王となり、男爵令嬢は王妃となり、正しく美しい国にあればいいと希う。
それが何もなくなったアリステルに許されたことだった。
ふわり、と頭を撫でられる感じがして、閉じていた目を開く。目の前は夕日が沈む間際だというのに、なぜか赤く、朱く染まっている。つう、と頬が濡れた気がして枝のような指で拭うと、べったりと赤がまとわりついている。そこで思い出す。教会に来る直前、男爵令嬢を崇拝する浮浪者がアリステルと知って、投げた石が頭にいくつかぶつかったのを。その一つが頭皮を切り、血が溢れたのだろう。
アリステルは構わず美しくアリステルを見下ろす神を見上げる。血が目に入り、その姿はどんどん霞んでいくけども、彼の人を思い無心に祈り続ける。
(ああ……目が暗くなってきた。だけど、最後まで彼に似た神の姿を見ていたい)
肩や背中が冷たく濡れた感触と共に、体の熱が薄れていくと分かっても。
もう起きていることもできず、埃の積もる床に這うように倒れても。
赤く染まる目が全てを歪め、見えなくなってきても。
アリステルは願う。
もう二度と会うことのできない、かつての婚約者の多幸を。
願う。望む。希う。念ずる。祈る。
どうか、どうか、しあわせであれ、と。
命の灯火が消えていくその時まで、アリステルは愛する人の幸福を哀願し続けた。
「アリステル!」
今、まさにアリステルの命が消えかけようとした刹那。床に倒れ臥し、それでも濁った目で神を見るアリステルの名を叫ぶ気配を感じた。
それはまさにアリステルが聞きたかった彼の人の声で。
「アリステル! ああ、なんてことだ……!」
数歩の足音と、悲嘆に暮れる懐かしい声と、抱き上げる力強さと温もりに。
「……ゆ……り、う……す、さ」
「アリス! 逝かないでくれ、アリス!」
濡れたような声で、むかし彼が呼んでくれたあだ名が途切れて聞こえ、なんて都合の良い夢だと乾いた唇が笑みに歪む。
(だけど……夢だとしても、こんなに嬉しい夢はない)
これまで熱のこもった声でアリステルの名を、彼の人から呼ばれた記憶なんてなかった。だけどアリステルは、感情のある声で自分の名前を呼んで欲しかった。それが夢とはいえ、こうして呼びかけてくれるとは。なんてしあわせなんだろうと、アリステルの骨の浮かんだ胸は温かくなった。
「かみ……さ……ま、あ、りが……と。ゆり、う、す、さま……」
愛しています、と唇を動かしたが、果たして、彼の人に届いたのだろうか。
落ち窪んだ目尻から、透明で美しい涙がコロリと頬を流れていった。
蝶番が錆び、斜めに閉ざされた木製のドアを開く。ぶわりと埃が全身を襲い、たまらず咳き込む。痩せた体は咳き込むたび、骨の浮かんだ胸が軋んで痛み出す。それでも引き返す気持ちにはならず、アリステルの足はそのまま夕日に反射して煌く家屋へと進んでいった。
一歩、また一歩、積もった埃を踏みしめ、花園に囲まれた神を描いたステンドグラスへと近づいていく。よろめく足取りで。光を背に見下ろす神に縋るように。アリステルは眩しさに目を眇めながらも距離を縮めていく。
数歩の道程を這うようにして神の御元までたどり着くと、アリステルはステンドグラスを見上げる。暮れゆく太陽は赤く色づき、まるで血染めのようだと感じながらも、霞んだ目で記憶に刻むようにして眺めている。
金色の髪と蒼天の瞳の神は、優しい微笑みを浮かべてアリステルを見つめている。
(……ああ、やはりあの方によく似ている)
脳裏に数年前の姿のまま止まった最愛の人の姿が浮かぶ。きっと、神のように美しい青年になっているだろう。
(会いたい……でも、もう二度と会えないし、多分、そこまで生きていけないだろう)
思い出すのは微笑む姿ではなく、厳しい顔で激高する姿。かたわらに美しい男爵令嬢を侍らせて。春の空の瞳は凍てつく氷の瞳となって、アリステルを鋭く睨む。長い間、何度も見続けてきた冷たい目。
きっと、彼はアリステルを嫌っていた。だけど。
(しあわせを願うなら自由だよね)
弱った体を叱咤し、床に這い蹲る体を起こして、祈りの形を作る。煤けた額を組んだ指に押し当て、ただただ彼の人の永遠のしあわせを祈り続ける。もしかしたら、アリステルの願いなど不要だと吐き捨てるかもしれない。
彼の人の愛する人を傷つけ、何度も仲を引き裂いたと言われたアリステルは、貴族子息から平民へと落とされた。両親から渡された金貨数枚も、一ヶ月もしない内に盗まれ、アリステルの生活はどん底へと突き落とされた。
草を食べては下痢に苦しみ、家のない体は雨に打たれ弱っていった。彼の人や男爵令嬢を慕う民からは、彼らを傷つけたアリステルに憎しみを募らせ、石を投げられたりもした。
白銀の美しかった髪は艶もなくボサボサで、頭を洗う機会も少なく、血と脂に塗れたまま。白磁の肌も垢の浅黒さに変わり、栄養のない腕は枯れ木のように細い。
たった数年で美貌の侯爵子息は浮浪者に変わり果て、昔の自分を知る人が見ても、アリステルとは気づかないだろう。
(きっと、あの方も僕の今の姿に気づかないだろう)
彼の人がアリステルを見かけても、路肩の石を見るような視線しか投げてこない。それでいい。それだけのことを、アリステルは犯したのだから。
好きだから。彼の人の婚約者だから。侯爵子息だから。
男爵令嬢ではなく、侯爵子息の自分のほうが、彼の人に相応しい。故に排除するべきだ。
高慢だった頃の自分は、ひとつの疑問すらなく、それを当然と思っていた。
間違っていないと、自分は正しいと勘違いして、彼の人の周りから人を排除していった。
だって自分は彼の人の婚約者なのだから。そうするべきだと疑っていなかった。
何度彼の人がアリステルを諭しても、小さな箱庭で生きてきたアリステルの耳には届かなかった。
(それが今の僕なのだけど)
断罪され、実家からも追い出され、身分も奪われ。地獄に堕ちてはじめて、アリステルは自身の罪に気づいた。だから廃した教会で祈るのだ。自らの罪と、彼の人のしあわせを願う。いつか彼の人が王となり、男爵令嬢は王妃となり、正しく美しい国にあればいいと希う。
それが何もなくなったアリステルに許されたことだった。
ふわり、と頭を撫でられる感じがして、閉じていた目を開く。目の前は夕日が沈む間際だというのに、なぜか赤く、朱く染まっている。つう、と頬が濡れた気がして枝のような指で拭うと、べったりと赤がまとわりついている。そこで思い出す。教会に来る直前、男爵令嬢を崇拝する浮浪者がアリステルと知って、投げた石が頭にいくつかぶつかったのを。その一つが頭皮を切り、血が溢れたのだろう。
アリステルは構わず美しくアリステルを見下ろす神を見上げる。血が目に入り、その姿はどんどん霞んでいくけども、彼の人を思い無心に祈り続ける。
(ああ……目が暗くなってきた。だけど、最後まで彼に似た神の姿を見ていたい)
肩や背中が冷たく濡れた感触と共に、体の熱が薄れていくと分かっても。
もう起きていることもできず、埃の積もる床に這うように倒れても。
赤く染まる目が全てを歪め、見えなくなってきても。
アリステルは願う。
もう二度と会うことのできない、かつての婚約者の多幸を。
願う。望む。希う。念ずる。祈る。
どうか、どうか、しあわせであれ、と。
命の灯火が消えていくその時まで、アリステルは愛する人の幸福を哀願し続けた。
「アリステル!」
今、まさにアリステルの命が消えかけようとした刹那。床に倒れ臥し、それでも濁った目で神を見るアリステルの名を叫ぶ気配を感じた。
それはまさにアリステルが聞きたかった彼の人の声で。
「アリステル! ああ、なんてことだ……!」
数歩の足音と、悲嘆に暮れる懐かしい声と、抱き上げる力強さと温もりに。
「……ゆ……り、う……す、さ」
「アリス! 逝かないでくれ、アリス!」
濡れたような声で、むかし彼が呼んでくれたあだ名が途切れて聞こえ、なんて都合の良い夢だと乾いた唇が笑みに歪む。
(だけど……夢だとしても、こんなに嬉しい夢はない)
これまで熱のこもった声でアリステルの名を、彼の人から呼ばれた記憶なんてなかった。だけどアリステルは、感情のある声で自分の名前を呼んで欲しかった。それが夢とはいえ、こうして呼びかけてくれるとは。なんてしあわせなんだろうと、アリステルの骨の浮かんだ胸は温かくなった。
「かみ……さ……ま、あ、りが……と。ゆり、う、す、さま……」
愛しています、と唇を動かしたが、果たして、彼の人に届いたのだろうか。
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