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happy2

0:追憶

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 生まれた時から父は居なかった。
 ただ『私の運命の番なの』と繰り返す言葉と。

『あなたは愛されて希《のぞ》まれて生まれたのよ』

 そう微笑んで告げた母はゆっくりと、でも確実に壊れていった。



 子どもの誕生と共に引越ししたアパートは築年数も不明なほど、外壁は水垢と埃で煤けており、今では殆ど見なくなった鉄製の外階段も錆が浮き、触れる度にボロボロとクズが手に付く。
 それでも母がこの場に住居を構えたのは、彼女の実家から投げつけるように与えられたお金を少しでもやりくりし、子どもにちゃんとした教育をしてあげたいからという親心だった。更に大家の老婆が、元は身なりの良いであろう若いオメガの女性が一人、子どもを抱えて育てる決意に胸を打たれたのもあった。家賃も滞ることなく支払っていたのも大きい。
 当初は母が階下に住む大家に家賃を支払っていた。それもいつからか薄汚れ痩せた子どもが代わりに持ってくるようになった。
 大家は家庭環境に眉をひそめながらも、払うべきものをちゃんと払っているのだからと、なにも言わずに受け取った。
 だが、さすがに良心の呵責に耐えかねたのか、小袋に入った豆菓子や煎餅などを与えてくれた。
 子どもは自分でそれを食べることなく、寝たきりの母が少しでも元気になれば、と枕元に並べた。
 番から離れたオメガは、定期的に訪れる発情ヒートの燻り続ける欲情の熱に炙られ続けていく内に、肉体だけでなく精神も焼き切れ、常識や観念といった人間としての尊厳すら燃え尽き壊れていってしまう。
 美しかったオメガの女は日を追うごとに疲弊し、やつれ果て、ついぞ寝たきりのまま起きることはなかった。

 子どもはその光景を、淡々と目の当たりにしてきたのである。



 冬。前触れもなく母が死んだ。

 薄っぺらい布団の上で、まるで眠っているかのように。母は静かに横たわっていた。
 痩せこけても少女のような笑みを口元に浮かべて、まるで絵本に出てきた眠り姫のような死に顔で。
 子どもは虚ろな眼差しを母に向けながらも、手の中にある二つの異物の形を確かめるようになぞる。いつの頃からか母は殆ど寝たきりとなり、ある日薄っぺらい手帳と、本革の硬いケースに入った小さな何かを子ども手渡し、こう言った。

『ごめんね。もう、何かしてあげれる事ができないから。この銀行の通帳からお金を下ろして、あなただけでも一人で生きて……』

 淡く微笑む母は、メガバンクと母の名前が入った手帳と、多分印鑑だろう物を手渡し告げた。当時、五歳になったばかりの子どもに、こんな物を渡されて使える訳がないだろう。しかし、そんな事すら思い浮かばないまま、ひとえに母を安心させる為だけに、それを受け取り頷いたのだった。

『……さむい』

 暖房もない狭く古いアパート。すきま風が入り、途方にくれた子どもは、死体となった母に温もりを求めて布団に入るも、既に死後硬直も解けた母はただただ冷たいだけで、布団の中に居るのに外よりも寒く感じた。
 時折カビの生えたパンを食べ、そして母の横で眠る日々。預かった手帳と革のケースは常に目のつく場所に置いて、使い道もわからぬまま眺めていた。

 何度かこの家の大家が訪ねてきた。家賃を払ってくれという。
 子どもは母は眠っていると告げると、忌々しそうに顔をしかめて、起きたらすぐに来てくれと吐き捨てた。
 子どもは母は何度起こしても起きてくれない、と言葉にすることができなかった。
 言ってしまえば、静かに時が流れる今の生活が終わってしまうような気がしていたから。

 春。母はまだ眠ったままだった。この時にはうっすらと母が生きてない事に気づいていたが、外へ誰かに救いを求める事も生前に渡された通帳を使う事も億劫で、冷蔵庫に残っていた賞味期限の切れた食べ物や、止まる気配のない水を飲んで、夜には母の横で眠り、いつかやって来るだろう『死』を待ち続けていた。

 大家がまたやってきた。これ以上不払いを待つことはできないから、出て行って欲しいと。真面目な店子だと思っていたのにこれだからシングルの子持ちオメガは、とブツブツ文句を言いながら、早々に退去の準備をしてくれと言い放ち立ち去った。
 子どもは眉と目を吊り上げ、言いたいことだけ喚いて行った大家を、何度も擦り切れるまで読んだ絵本にあった鬼のようだと感じた。
 家賃を持っていった時には優しい人だと思っていたのに、お金というもので人はあんなに変わってしまうのかと、落胆していた。
 人はお金がなによりも大切らしい。子どもは『お金』という概念がわからぬまま、心に刻みつけていた。



 彼女・・がやって来たのは、春も終わり、窓の外から僅かに見える桜の花が散り、枝には濃い緑の葉が生い茂った頃。
 いつまでも退去しない子どもに、あからさまに早く出て行けと騒ぐ大家がやってきたのかと、子どもが身構えていると。
 バン、と合板の端が剥がれた扉が勢いよく開かれ、蝶番がギシリと悲鳴を上げる中、彼女は息を乱し、綺麗な栗色の髪がぐちゃぐちゃになって、鮮やかに化粧した額には汗が大量に浮かんでいて、それでも毅然とした佇まいで入口に立っていた。
 子どもは初めて見るかつての母のような美しい人の登場に呆けていた。誰だろう、この人は。

『──!』

 艶やかなワインレッドの唇から、母の名を叫んでいる。母の知り合いなのだろうか。
 しかし、すでに屍になった彼女は当然ながら反応する事はなく、子どもはゆっくりと母の隣から起き上がり『だれ』と呟いた。
 この頃には、動く事も声を出すことも億劫で、日がな一日ひたすら寝ていた。ずっと干からびていく母の姿を眺めて過ごす日々。子どもの普通で日常だった。
 久々に出した声は空気が漏れたようなもので彼女に届いたのか分からない。
 彼女は部屋の状況の異様さに息を飲んで、それから弾けたように靴を脱ぎ捨て入ってきた。

『あなたは……玲司れいじね?』

 何故彼女が自分の名前を知っているのか不思議に思ったものの、こくりと首肯する。
 子どもの頬に細く白い手を当てながら『こんなに痩せて……』と声を震わせて言う。ずっと冷たい母と一緒に居たからだろうか。頬に触れる体温が熱い。
 正直、初めて会う人にこんなに心配される理由が分からなかった。この人は誰なんだろう。

『もう……大丈夫だからね』

 お風呂にも数ヶ月入らず、フケや垢だらけの子どもをぎゅっと抱き締めた彼女からは、とても良い匂いがした。なんだか、その声と匂いで、子どもは死ねなかった・・・・・・と自覚したのだった。



 夏。助け出された死に損ないの子どもは、真っ白で薬の匂いに包まれた部屋でベッドに横たわっていた。

 随分大きくなってから聞かされたのだが、当時は栄養失調に加え、数ヶ月遺体と過ごしていたせいで、精神鑑定やカウセリングを受けていたらしい。思考が曖昧で当時の記憶は朧気だった。聞かされた話も他人事のように今も感じている。
 警察も事情を訊きに来ていたようだが、ずっと母に囲われ外にほぼ出る事のなかった子どもの知能は同年代の子どもに比べ低く、死の概念もなかった為に通報できなかったのだろうと判断されたのもあるし、寒川家の圧力もあって、早々に捜査は打ち切られたようだった。
 そういった理由もあり、体の改善は比較的早かったものの、精神的治療により子どもが病院の外に出れるようになったのは、くすんだ枯葉が落ち、空は灰色の重苦しい雲に覆われた季節──母が死んでから一年が経とうという冬の日だった。
 子どもは六歳になっていた。

 翌年、小学校に入るからと、病院には何人かの人間が出入りしていた。
 ある人は子どもにパズルを解かせ、ある人は四角く仕切られた線の中に文字を書けと言ったり。ある人は不思議な音で話し、子どもに真似をするように言ったり。
 それが勉強だと知ったのは、子どもが学校に入った時だった。
 今まで知らなかったことを知るのは心が沸き立つ。だけど同時に、どうして自分は母と引き離されて、こんなことをしているのだろうという疑問も持っていた。
 自覚すればかなりの高待遇だったが、それも寒川が経営している病院の、特別室だったからだろう。
 子どもは乾いた大地に水を吸収するように、ぐんぐんと知識を吸い込んでいった。おかげで入学には間に合うそうで、周囲の人間達が胸を撫で下ろしていた。

『きっと、この子はアルファの確率が高そうですね』
『ほぼアルファで確実かと。運命の番となったアルファとオメガの間に生まれた子の殆どがアルファでしたから』

 部屋の外で話す声が静かな部屋に流れ込んできたが、子どもにはそれが何を意味するのか理解できなかった。

 窓の外から見える木々が、鮮やかな緑からくすんだ茶色に変化しだした頃。白く長いシャツを着た大人が「そろそろ退院だね」と言った。
 子どもは彼の言う意味を、これまでの勉強でぼんやりと理解した。もう自分はここに居てはいけないという意味だ。

 退院したその日は、綺麗な女性だけでなく、彼女の子どもも一緒だった。ふわふわの毛皮のコートを着た女性の隣の子どもより少し年上だと分かる少年は、キャメルのピーコートをまとっていた。

『おれは、さむかわそういちろうだ。おまえは?』
『ぼくは……れいじ』

 居丈高に言い放った彼女の子どもは、彼女から盛大に頭を叩かれていたが。何故、子どもが叩かれる理由も、彼女が叩いた理由も、子どもには理解できなかったのである。
 子どもの母は子どもを溺愛していた。ドロドロのズブズブに甘やかし、母以外に目を向けないようにしていた。だからこそ、子どもは母から叩かれた事もなければ、叱られた事もなかったのだ。

『玲司』

 彼女は唐突に子どもの名を呼び、子どもに目線を合わせて屈んでくる。ふわりと香る薔薇と呼ばれる花の匂いがした。本で白やピンクや赤や黄色があると知った。匂いは病院をふらついている時に、色んな花をまとめた中にピンク色のそれがあって、華やかな香りを記憶していたからだ。
 彼女から香るその匂いは、あの時に感じたものよりも強く香った。のちに、それが彼女のフェロモンの香りだと知ったが。
 当時の子どもにはなんとなく怖い香りに感じたものだった。

『はい』
『今日から、玲司は寒川玲司と名乗りなさい』
『……どうして?』
『あなたが、今日から私の子どもになるからよ』
『ぼくにはおかあさんいるよ?』
『薔子《しょうこ》様!』

 意味が分からなくて首を傾げる子どもの言葉を遮るように、固い声音の男性の声がかぶさってくる。彼女は自分の子どもを傍に置き、すっと立ち上がると男性と向き合う。
 その姿は戦女神と呼ばれた神話の話を思い出す。その女神は自身の父の頭から生まれたそうだ。彼女の立ち姿はそれ程に毅然と、強さが滲み出ていた。

『貴方達の言い分も分かるわよ。でもね、この子は母を亡くし、身寄りがどこにもないの。それなら、玲司も寒川の血を引いているんだし、総一朗の弟にすればいいんじゃない?』
『ですが……』
『総一朗が継ぐまでとはいえども、私が現寒川の当主よ。もし、私をねじ伏せれる者が居るのなら連れてらっしゃいな』

 子どもの目の前で、彼女は年上だろう男性を言葉で言い負かし、子どもへと向き直す。

『だから、今日から貴方は寒川玲司よ。分かった? すぐに私をお母さんだって思わなくてもいいの。ただ、私達と家族になりましょう』
『かぞく……?』
『そう、家族。貴方に何かあれば、私や総一朗達が貴方を助けてくれる。逆に、私達が困った事があれば、貴方が助けてね?』
『うん。わからないけどわかった』
『うふふ。今はそれでいいの。でも、憶えていてね』

 コクリと子ども──玲司が頷くと、彼女は薔薇の花が開くように笑っていた。
 彼らは玲司を傷つける事はないだろう。そう雰囲気から感じ取っていたものの、周囲の玲司に向ける視線は色んな感情を孕んでいて、少なくとも全ての人間が歓迎していないのだと悟ったのだった。

 早く、一日も早く大人になって、座り心地の悪いこの場所から離れたい。そして、母のいる場所へと行かなくては。
 その意味をちゃんと理解していた玲司は、ぎこちない笑みを浮かべながらも、心は違う方向へと歩き出していたのだった。


 ◇

 夏は避暑に訪れる人間が多いが、冬は雪に覆われるせいで過疎化した繁華街の一角にある小さなバーの扉がカランとカウベルの音色共に開かれる。
 外はまた雪が降っているのだろうか。細身の体が入ってくると同時に、肌に刺さるような冷気が忍び込んでくる。

「いらっしゃいませ」

 若いバーテンダーの声が、肩に乗った雪を払う仕草を見せる客へと投げられる。緩やかに巻かれた栗色の髪をふわりと靡かせ、グロスで濡れた唇を笑みの形にした艶やかな客は、バーテンダーへと、マスカラとアイライナーで縁どられた大きな瞳を細めて口を開く。
 ベータにしては容貌が整っており、店内の男性客達の注目を集めている。

「ランキュヌというカクテルをひとつ」
「……ご準備に少々お時間がかかりますが、よろしいでしょうか」
「ええ。構わないわ」
「数はどれほど」
「そうね……これくらいは欲しいわ」

 艶やかな容姿の客は、綺麗に磨かれた爪を見せるように片手を広げて見せる。

「五、ですか。お値段はそれなりになりますが、問題ありませんか?」
「大丈夫よ。もし不安なら、先に手付けでも出しましょうか」

 バーテンダーの言葉にベータの艶やかな女は、クラッチバッグからシンプルな茶封筒を取り出し、彼に見せつけるように振ってみせる。見た目とは違う下品な女と評価したバーテンダーは、小さく嘆息して女をカウンター席へと促す。
 何も知らない客もいるというのに、と内心はイラつきながらもバーテンダーは女の前におしぼりを出し、注文のあったバーテンダーオリジナルカクテルを作るため準備に手を動かす。

 ランキュヌはアペロールというイタリア産のリキュールをシャンパンで割ってオレンジを添えたカクテルだ。
 赤い液体の中で弾ける炭酸が、店のライティングでキラキラと光り、女性客には比較的好まれる。しかし、このカクテルはメニューには掲載されおらず、ある意味暗喩として利用されていた。

 ランキュヌとはフランス語で「恨み」を意味する。
 つまりは、害したい相手を雇いたい、といった時に使われるオーダーである。

 バーテンダーは女がどこでその情報を知ったか知らないが、面倒な人間が来てしまったな、と再び小さなため息が零れていた。
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