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14:祝福

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 紫村による桔梗への恫喝手紙事件から一週間後、桔梗と玲司は寒川家お抱えの弁護士のもとへと来ていた。

「この度はおめでとうございます」

 事務所の若き所長である弁護士は、目の端にうっすらと皺を刻み笑みに目を細めて告げた。彼は桔梗が不当解雇された時に直接Y商事の葛川親子の交渉にあたってくれた人だった。

「ありがとうございます。先だっての件では、大変お世話になりました」

 桔梗は持参した玲司製の菓子詰め合わせを渡し、ぺこりと頭を下げて感謝を告げると。

「いえ。寒川兄弟初の奥様のお手伝いが出来て、こちらも光栄ですよ」
「お、奥様!?」
「桔梗君は、僕の奥さんになるんじゃないんですか?」

 奥様という仰々しい呼称と、隣から囁く甘い声を受けた桔梗は顔を真っ赤にし、ワタワタと挙動不審に弁護士と玲司へと目線を往復させる。
 玲司に背中を撫ぜられ落ち着きを取り戻したものの、まだ顔は湯気が出そうに赤いままだ。

(確かに僕は玲司さんの奥さんになるけど! なるけども! 実際言われるのは本気で照れるんですが!)

 表面上は落ち着いた桔梗の頭の中では、盛大に床を転げ回って暴れていた。
 玲司は桔梗が本当は物凄い照れ屋なのに気づいていて、恥ずかしがってる姿が可愛く思い目を細める。さながら小動物を愛でるかのような眼差しだ。
 弁護士は新しく夫夫ふうふとなる初々しいカップルを、微笑ましい気持ちで眺めていた。

「ところで、結婚式はされないのでしょうか?」

 ふと、話題の一つとして弁護士が口にした途端、それまでの甘い空気が一変し、桔梗からどんよりとした空気が滲み出る。同時に玲司からは冷気が溢れ、弁護士はゾクリと身を震わせる。同じアルファ同士でも、上下関係が存在する。それは家格に関係なく血で決まるものだった。

「したいのは山々なんですけどねぇ。桔梗君の花嫁姿は可愛いでしょうから」

 そう。当初は結婚式の事についても二人は話し合ったりしたのだ。
 しかし、養子とはいえども『四神ししん』の寒川家次男と、断絶しているとはいえども『扇合おうぎあわせ』の香月家次男の結婚式ともなると二人の問題だけではなくなるのが実情だった。

「ただ、香月の現当主に知られるのはマズイので……」
「ああ……」

 玲司が言わんとしている事が分かったのだろうか。弁護士はどこか遠い目をして嘆息しているのが見えた。

 香月当主の父は、上位アルファの中でも特にアルファ至上主義で有名だった。だからこそ桔梗がオメガだと発覚した時には半ば隔離状態を家でも学校でも強いられたのだ。
 寝食を離れの小部屋で過ごし、学校の授業も一人別で受け、家を出されてから高校入学してしばらくの間は、監視の人間を付けていたようで、桔梗がオメガとしての恥を家に齎さないよう見張っていた。
 流石に大学に入る頃には監視の手は緩んだものの、数年そのような生活をしている内に反抗すら起きず、ただ生きた屍のような日々を過ごしていたのだった。

 だから、婚姻は家と家を結ぶもの、とは理解していても、父に報告すらしないで玲司と一緒になる件も大々的に公言できなかったのである。
 例え結婚式を挙げるにしても招待客全員の口には戸は立てられず、いずれはどこからか漏れて知られる事になるだろう。桔梗は玲司と話し合い、翌年にふたりだけで海外で挙式と新婚旅行をすると決めた。今回は身内だけで『la maison』で食事会をしようと決めたばかりだ。

「その方がいいでしょうね。寒川家と香月家両方とも付き合いのある家もあるでしょうし、招待客全員がお二人を祝福するとは限らないですから」
「そうでしょうね。政略でない限り、上位アルファ名家の婚姻は、色んな意味でバランスが崩れますから」
「力が集約した弊害ですね」

 玲司と弁護士が悟ったかのように深い溜息を漏らす。
 桔梗は二人の沈痛な様子に、居た堪れない気持ちとなっていた。

「ですが」
「……え?」

 不意に、それまでの重い空気を払うように玲司の強い言葉が聞こえ、隣に居た桔梗は俯く顔を上げて彼を見る。

「結婚は家でする訳ではありませんからね。寒川の母にも言われてますが、僕はどっちみち愛人の子で養子ですし、僕には自由に生きてくれて問題ないからと。酷い言いようだとは思いましたけど、あれは寒川の母なりに僕が家に縛られなくても良いようにしてくれたのだと思います。寒川には義弟も総一朗兄さんも居ますし、桔梗君もお兄さんの朔音君が今回証人として届けにも記入して戴けましたし、僕も桔梗君もこれで十分だと思っていますよ」
「……玲司さん」

 寒川家の方には報告済で、年末年始に改めてご挨拶に向かう約束が取り付けられているものの、香月の両親には一切何も伝えていなかった。
 小さな理由は諸々あったが、一番の大きな理由としては確実に猛反対にあい、無理矢理引き離されてしまう可能性があったから。
 通常、番となったアルファとオメガは一定の距離を物理的に引き離されてしまった場合、アルファのフェロモンを感じ取れなくなったオメガは激しいヒートに耐え切れず狂うか、最悪自殺してしまう。そして運命となった番は、オメガの症状は普通の番と同じで、更にアルファも同じ状況となるという。
 故に人は運命に憧れながらも畏怖しているのだ。いつ自分がそうなるか、と。
 だから、オメガは番が離れていかないよう巣を作り、自身の魅力を磨く。
 死が二人を分かつまで互いを閉じ込め、繋がっていたいと願いながら。

 初めて玲司と番になった時、彼は桔梗に番解除をして責任を取ると言った。普通の番ならアルファに変化は起きないものの、運命はその強い繋がりの為に解除をした場合はアルファ側にも弊害が起こるというのに玲司は自己の本能に負けて番にしてしまったからと、桔梗を手厚く労ろうとしてくれたのだ。
 その後も葛川から守ってくれ、仕事のなくなった桔梗の為に『la maison』の営業日を増やしてくれて、更に新しい仕事も与えてくれて、桔梗が生きる理由をくれた。
 好きにならない方がおかしい。
 桔梗は、自分が玲司を愛していると自覚し、こうして妻になると受け入れる事ができたのだ。

 二人の決意を一番に祝福してくれたのは玲司の兄の総一朗と、桔梗の双子の兄の朔音。それから寒川家の専属医師の藤田に、彼の番の経営アドバイザーの花楓。
 他にも『la maison』の常連達も、桔梗と玲司の結婚を受け入れてくれた。もちろん吹聴しないと胸を叩いて。

「俺、これまで生きてきて一番幸せです。だから式なんて必要ないんです」

 幸せが溢れていると言わんばかりに笑みを深める桔梗の額にそっと口付けをした玲司は、「僕もですよ」と桔梗を抱き締めた。
 ここが弁護士事務所というのを忘れているのか、彼らの前に座っている所長も、周囲のスタッフも苦笑しつつも新しい夫夫に祝福の眼差しを向けていたのだった。

 弁護士事務所を出ると、丁度真上に太陽が地上へと柔らかな光を注いでいた。

「せっかくこちらまで来たので、お昼は外で取りましょうか?」
「玲司さんが外食って珍しいですね」

 桔梗が玲司と生活を共にするようになってからというもの、場所が店か家かで変わるだけで、毎食玲司のお手製のご飯を食べていた。本人は得意ではないと言っていたが、桔梗が和食が好きなのもあって、煮物なども沢山作ってくれた。おかげで桔梗の体重は増量中だ。このままではまん丸になってしまうと、玲司に訴えたものの「その分ベッドで運動すればいいんですよ」とにこやかに返されて、桔梗は顔を真っ赤にして凍りついてしまった。
 たまに玲司は素でエロ発言をする。本人は自覚がないので、その度に桔梗は赤面で窘めたりするも、どうにも改善の兆しは見えない。

「いえね、最近この近くでビストロがオープンしたようで、ちょっとチェックしてみたいなって」
「そうなんですか。でも、今日は玲司さんのご飯が食べたい気分だったので残念かな」
「え?」

 驚いた顔で振り向く玲司に、桔梗はにこりと微笑む。

「だって、俺が寒川桔梗になって初めての食事なんですよ。玲司さんと一緒にあの場所で過ごしたいんです」
「……うちの番が可愛すぎて辛い……」

 顔を掌で覆って苦悶している玲司に、何かあったのかと慌てたのが、夫夫となって初めての出来事となった。


 つつがなく手続きが完了したとの連絡が来たのは、二人が『la maison』に帰ってきて遅めの昼食を摂っている最中だった。結局、桔梗の提案が受け入れられ、嬉々として玲司が腕を振るってくれることになった。

「弁護士からの連絡で、無事に婚姻届が受理されたそうです」
「本当ですか」
「はい。これで僕達は名実共に夫夫になりましたね」

 桔梗はオムレツの黄色に鮮やかな赤のラタトゥユにフォークを入れる手を止め顔を上げる。まだ肉等の硬く脂の多い食事は難しいものの、多少の固形物が食べれるようになった桔梗の顔は輝く程の喜色が溢れ、玲司は眩しそうに目を眇めた。

「まずないと思いますけど、桔梗君に何かあっても、僕がすぐに動けますね」

 身元を引き受ける事も、怪我をして手術や輸血を受ける時も、桔梗の全てに自分が動ける資格を手に入れ、玲司は多幸感でいっぱいだった。
 アルファは番となったオメガの全てを構いたい性分だ。それは支配欲とも呼ばれるし、過保護とも揶揄される。

 他の人間ではなく自分が桔梗の全てに関われる。最高の愉悦といえよう。

 まだ片鱗しか見せていないが、晴れて夫夫になった今、全力で桔梗を愛せる術を手に入れた玲司は、ある意味無敵かもしれない。
 総一朗は義弟に闇成分があるのに気づいていはいたものの、本人達が幸せならばと証明人の一人として記載してくれた事は、秘密にしておこうと玲司は心に決めた。

「俺も玲司さんに何かあったら、すぐに動けますね」

 ──知らぬは番である桔梗ばかりである。


 まるで祝福しているかのような晩秋の夕暮れに、桔梗は目を細め空を仰ぎ見る。

(あの雨の日から今日まで、本当に色々な事が過ぎ去っていった気がする)

 翳した手の下でそっと目を閉じ玲司と出会ってからのあれこれを回想していた。

 あらぬ疑いを掛けられ会社をクビになり、ずっと疎んでいたヒートのおかげで玲司と出会い、紆余曲折はあったもののちゃんと番となる事が出来た。
 今までは玲司の庇護の下、ひたすらに溺愛され、それに甘んじてきたが、これまでこつこつと貯めてきた貯金と、不当解雇で貰った給料と慰謝料が手付かずで余裕もある為、何か玲司を助けるスキルでも身に着けようかと思うものの、入籍してからわずか一週間だというのに二人の寝室は愛の巣と化し、時間さえあれば睦み合っている状態なのだ。
 普通は番となったオメガが巣を形成する筈なのに、主導権は玲司にあり、更にすっかり囲い込みをされてるのもあって、桔梗が外に出ていくのは難しいだろう。

 現に──

「桔梗君」

 生垣の金木犀の甘い香りに混じって、背後から愛おしいハーブの香りが桔梗を呼ぶ。
 珍しく桔梗を家に残し出かけていた玲司が帰ってきたようだ。

「おかえりなさい。玲司さん」
「ただいま。外も随分冷えてきてますから、風邪をひいてしまいますよ」

 その方が都合がいいですが、と呟く声は聞こえないふりをする。
 入籍した気の緩みからか、時折玲司は本音を呟く事が多くなっている気がする。
 双子の兄の朔音は「あの腹黒にいじめられたら僕に絶対言うんだよ!」って心配してくれるけども、桔梗は玲司が自分の前でもリラックスしてくれてる方が嬉しかったのだ。

(本人も清廉潔白じゃないって言ってたしね)

 入籍前夜に、やっと玲司の口から彼の辛かった過去の話を教えてもらった。
 玲司の母と寒川の父が予期もせず番となってしまったこと。それによって身籠った彼女は、寒川の妻だった親友にだけ真実を告げ、色んな人から離れてひとりで玲司を産んで育てた事。
 だけど番が傍に居ないとオメガの精神は蝕まれ崩壊していく。
 ゆっくりと、でも確実に心が壊れていく。
 日々壊れていく母を、玲司はどんな思いで見ていたのだろうか。
 そして、幼い玲司を遺して逝ってしまう彼女の気持ちは……
 変わり果てた親友の遺体と一緒に居た玲司を引き取り育てた寒川の母の気持ちは……
 もし、自分が玲司と離れてしまったら、どうなってしまうのか。

(今度会ってみた時に、聞けたらいいな)

 桔梗は玲司の背中へと腕を回し、その広い胸に頬を寄せて未来に思いはせた。

「あ、そうだ。こちらを桔梗君に」
「これは?」

 さらりと桔梗の手に乗せられた小さな花束。五つの雫のようなピンクの花弁に、赤紫の花芯が可愛らしい。葉は小さく細い菊の葉のようにギザギザとしている。

「これはローズゼラニウムです。この時期だと既に開花時期は過ぎているんですが、知人がハウスで育てているのを思い出して、少し分けていただいたんです」
「とても可愛いですね。それに薔薇のような匂いがします」
「ええ。葉や茎から薔薇に似た甘い匂いがするのが特徴のハーブなんですよ。耐寒性もありますし、比較的世話も楽なので。春になったら改めて株を譲ってもらって、表の一角で育てようかなと思っています」
「ハーブなんですね。これって料理とかにも使えますか?」

 唐突な問いに玲司は少し目を見張るものの、すぐさま甘い笑みへと変じ。

「できますよ。何か良い案があれば二人で考えて出してみましょうか」
「楽しみですね」
「はい。楽しみです」

 お互いに触れるだけのキスを交わし、くすりと笑いあう。
 新しい夫夫を祝うように、金木犀の甘い香りが風に乗って二人の周囲を包んでいた。


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