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happy1

9:自覚

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 ふ、と浮かび上がるような感覚と共に桔梗の意識が覚醒する。うっすらと寝室を照らす明かりを頼りにナイトテーブルに置かれた時計を見れば、時間は深夜二時を過ぎた頃だった。

 桔梗に降りかかった謎の悪意で心が不安定になったのもあり、いつもより早く『La maison』を締め、玲司が淹れてくれたハーブティと、レモンピールとポピーシードがアクセントのマフィンを戴いた後、いつものように藤田から処方された薬を飲んでほどなく眠りの底へと落ちていった。
 あれからまだ数時間しか眠れてないからか、体は眠りを欲しながらも、頭は妙に覚醒しているという葛藤が全身を包んでいた。

「玲司……さん?」

 キングサイズの広いベッドの海に桔梗一人。いつもならそこにある筈の玲司の姿がない。シーツの冷たさが、桔梗の心に不安の波紋となって広がる。

「れい、じ、さん?」

 声が震える。
 これは番になったオメガが本能のままにアルファの玲司を求めているからだろうか。
 孤独になった子どもが安心できる大人を求めているのだろうか。

 いや、違う。そうじゃない。
 桔梗は否定する。
 始まりは意思疎通のない事故のような交わりだったけど、今は玲司の桔梗に対する優しさや慈しむ姿を知り、心が傾いてるのを感じている。
 もっと、もっと、玲司が知りたい。時折ふとした時に見せる寂しげな瞳の意味を知りたい。どんな風に育って今の玲司を構成したのかを知りたい。
 かつてこれほどまでに双子の朔音以外に対して自ら人と関わろうとしなかった桔梗が、初めて「知りたい」と思わせる存在が、玲司だった。
 これは決してオメガの本能ではなく、桔梗という人間の本心だった。
 だが、そうは自覚していても、長年他人の懐に入るのを拒んできた桔梗には、玲司との距離を縮める感覚が分からず、日々もやもやしていた。
 そうして心と体が乖離し、眠れなくなってしまった。本人も自覚しておらず、玲司も藤田も勘違いしているが、桔梗の不眠の原因。それは「恋患い」だったのだ。

『淫乱なオメガには死を』

 脳裏に浮かんだ、一枚の真っ白なカードに書かれた文字。
 黒いゴシック体が等間隔に並び、普通であれば重さも感じない筈なのに、手の中のソレは片手で支えるにはずっしりと重量を感じさせ、否定する言葉すらも押し潰しそうだった。
 淫乱なオメガ。それは桔梗がオメガとして世の中が立ち位置を決定づけてから、何度も言われ続けた言葉。オメガはそのフェロモンで優秀なアルファを篭絡するふしだらな存在。アルファであればどんな精でも胎に注がれれば喜ぶ淫売。男なのに子どもを孕み産める気味の悪い性。
 桔梗個人ではなく、オメガとしてしか他人が自分を見てくれなくなったその日、桔梗は自分の命を恨み呪った。
 生きていくことに絶望し、それでも自分で命を捨てることもできず、今日まで息を潜めて生きてきた。
 少なくとも双子の兄が悲しむと感じたから。だけど、それは単なる言い訳だった。
 玲司は乾いてひび割れた桔梗の心に愛という水を注いでくれた。桔梗が彼からのプロポーズを断っても、彼は前と変わらず桔梗を包んでくれる。
 だからこそ気づいてしまった。兄は自分を大切に思ってくれた。だけど桔梗が独り暮らしをするようになってから、一度として接触してこなかったのは、桔梗がオメガだったから。
 兄は多分否定するかもしれないが、やはりアルファだったのだ。オメガという壁をアルファの自分が壊すということは、その先に危険が孕んでいるということを。

「れいじさん」

 桔梗は居ない玲司に縋るように、彼がいつも使う枕を引き寄せ、ぎゅっと抱き締める。
 すん、と鼻を啜れば、清潔な洗剤の匂いと柔軟剤の匂いの中に、微かな玲司の匂いを見つける。
 もっと欲しくて顔を枕に押し付け、玲司の匂いの欠片を探し続けた。
 これはオメガの本能だ、と。番の匂いを欲するのは獣として当たり前の事だ、と。
 桔梗の中の別の桔梗が、アルファの玲司を求めくんくんと鼻を蠢かせる。
 こんな人間とは言えない自分の行動を、どこか冷めた自分が見ているが、本能のままに番を求める獣の自分を、羨ましいとも思う自分が居た。
 どう否定しようが自分はオメガだ。卑しくアルファを欲する淫獣。
 まだ自分はアルファに憧憬を感じていたけども、体が玲司の欠片を探している。愛おしい匂いを深く、体の中を満たそうと。

 多分ではなく、自分は玲司が好きだ。Dear親愛」ではなくLust愛欲」の意味での好きだ。

 プロポーズしてきた時に素直に応えれば良かったと、後悔ばかりが募る。あの時は自分の気持ちが恋情なのか動物的本能によるものか分からず、内心で葛藤の嵐が吹き荒れていた。
 応えたい。
 応えてもいいのだろうか。
 これ・・は香月桔梗が人間としての感情なのだろうか。
 性差に振り回される事のないベータであれば、ここまで悩まなかったかもしれない。
 しかし自分はオメガだ。アルファのコミュニティの中でも『四神』に次ぐ『扇合』の香月家で生まれたオメガだ。劣等種だ。虐げられた存在だ。
 だから、アルファ至高主義の父に排除されてしまった。桔梗が中等部を卒業した十五の時だった。
 それでも桔梗はまだ運が良かったかもしれない。毎月決まった額を強い抑制剤と一緒に渡され、体質もあったかもしれないが普通に学校に行けたし、生活もできたのだから。
 大学を卒業して就職した辺りから金銭援助がなくなった代わりに、避妊薬と緊急抑制剤が渡されるようになった。病院に行くことも許さないといった父の執念が薬から伝わってきた。
 香月の家を追い出したものの、発情ヒートで無闇矢鱈にアルファを誘惑して、不義の子を孕むのは許さないと、言いたいのだろう。
 孤独だった。古く狭いワンルームは余計に独りを認識させ、秘かに双子の兄である朔音と交わす数少ないやり取りだけが、桔梗が生きるよすがだった。それも高校を卒業するまでの間だった。
 大学を卒業し、オメガの就労支援でY商事に入社してからも、アルファやベータはオメガの自分を見下し、少数のオメガは桔梗がアルファ名家である香月というだけで忌避していた。
 家柄にも性差にも拒絶をされ、社会に出ても桔梗の孤独は続いていた。
 それでも桔梗は毎日を過ごしていた。死ぬまでひとりだという絶望を抱いて。

『どうして僕と桔梗はアルファとオメガに分かれてしまったんだろう。僕達は生まれてくるまでずっと一緒にお腹の中に居たのに。こんなに桔梗が苦しむのなら、僕が代わりにオメガだったら良かったのに……』

 家を出る前夜。アルファなのに泣き虫だった兄は、はらはらと涙を流しながら桔梗を抱き締めそう言ってくれた。
 他人から見れば朔音のセリフは桔梗を貶めるものだったかもしれない。けどもオメガだと発覚して以降、心が疲弊してしまった桔梗には兄の言葉は深く心に刻まれ、死へと傾いた時に引き止めてくれる救いの手だった。それしか桔梗にはなかったから。


 結局、謂れもない非難を受け、桔梗は逃げ出した。
 辛い。生きるのはもう嫌だ。
 ヒート状態で願っていたのは、体を満たされたい事よりもオメガである自分からの解放。

 助けて。誰か。誰か……!

 一縷の望みに手を伸ばす。桔梗の頼りない手を掴んだのが玲司だった。
 薄れゆく意識の中で、玲司が「運命の番」であると気づく。甘く、桔梗を癒すような惹かれる香り。それでいて脳髄まで侵す強い匂い。ゆらゆら揺れる意識の中で、桔梗は生まれて初めて自分が満たされていくのを感じていた。
 目が覚めてみれば、激しい後悔が桔梗を襲う。
 心が不安定な中でのヒートは、殆ど言葉を交わしてもない玲司を巻き込んでしまった。
 オメガの発情ヒートはアルファの発情ラットを誘発する。
 安定していない突発的なヒートのせいで、オメガの桔梗が発するフェロモンに充てられ、玲司が項を噛んだとしたら、過失割合十割で桔梗の方が悪い。交通事故なら一方的なひき逃げだ。
 それなのに玲司は桔梗を責めるどころか柔らかな笑みで労わってくれ、尚且つプロポーズまでしてくれたのだ。

 好きだ。愛してる。そう言ってくれた玲司に、桔梗はすぐ応える事ができなかった。

 本当に彼の想いに飛びついてもいいのだろうか、と。
 弱ってるオメガと番になってしまった罪悪感からプロポーズしてくれたのではないのか、と。
 桔梗の中で疑心暗鬼に苛まれる。

(ほんとう、自分が面倒臭い)

 ぼんやりとする頭の中で、桔梗は自分を卑下する。
 愛されたい。でも愛されるのが怖い。玲司に応えたい。でも償いの気持ちがあると知るのは辛い。

 次第に薄れゆく玲司の匂いに、桔梗はのそりとベッドから起き上がり床に足をつく。薬が残っているせいか、少し足元がよろめくものの壁を伝いながら歩けば問題ないだろう。亀の歩みが如くのろのろと寝室を出て、廊下から階段を使い店舗に繋がる一階へと降りる。

「……?」

 店の方から会話する音が聞こえる。ゆっくりと扉に近づき耳をそばだてる。カウンター近くに揃っているらしいのか、やけに声が明瞭に聞こえてくる。こんな夜中に誰か来客でもあったのだろうか。

「名持ちが一般のアルファと婚約とは、かなり珍しいパターンだよな」

 これは玲司の兄である総一朗の声だろう。名持ち。アルファの名持ちの事を言っているのだろうか。

「そうですね。逆なら割と多くありますけど。ところで、その紫村という女性は、あなたに何か言伝とかはしてなかったんですか?」

 これは玲司だろうか。桔梗と相対する時に比べるとやけに冷ややかな声音のようだが、アルファらしいと言えばアルファらしい声とも言える。新たな玲司の一面を知って、桔梗の胸がときめく。
 以前は、高圧的で硬質的な声を持つアルファが嫌いだったのに、玲司の声だと思うだけでホッと安心する自分がいる。しかし──

「ええ、秘書の話だと、僕と桔梗が血縁関係だったかの確認の為に来てたようです」

 不意に聞こえてきた声に、桔梗ははっと息を飲む。次に浮かんだのは、どうして、という疑問。そして、紫村という名前には憶えがあった。

「玲司さん?」

 桔梗は無意識に扉を開き玲司の名を呼ぶ。ふらふらとカウンターへと近づくと、そこには三人の人物がそれぞれ配置されていた。

「桔梗くん……」

 カウンターの裏に立つ玲司が、大きく目を見張っているのが見える。まだ薬が効いて寝ている筈の桔梗がここにいるのだ。驚くのは当然だ。

「桔梗さん」

 そしてカウンターに座り、同じような驚愕の顔をしている総一朗。義兄弟と桔梗は聞いていたが、二人は似ているようで似ていない気がする。アルファらしい彼がびっくりしている姿は、少し幼く感じる。

 そして……

「桔梗……」

 自分と同じ顔、同じ声。でも、桔梗より少し体格が良く、高潔な雰囲気を纏った人。泣き虫なのは変わってしまっただろうか。いや、あれから十年の時間が経ったのだ。よくよく見ると、自分の中で時間が経過したように朔音の方も同じく大人になっていた。
 アルファの青年。桔梗には朔音の姿は眩しく見えて、思わず目を眇めた。

「朔音。どうしてこんな場所にいるの?」

 桔梗は首を傾げて尋ねる。
 こうしてお互い顔を合わせるのは、高等部の卒業式以来だ。きっと玲司か総一朗のどちらかが桔梗が『扇合』の香月の子供だと調べたのだろう。そこまで辿り着けば朔音まで行くのは難しくない。

「ねえ、俺達は二度と会っちゃいけないって、父様が言ってたでしょ。それなのに約束破ったら、俺が折檻受けるって気付かなかった?」

 違う、こんな事を言いたいんじゃない。
 桔梗の頭は混乱する。十年近く離れていた双子の兄に言っていい言葉ではない。それでも過去の傷が忘れ去っていた筈の記憶を呼び戻す。
 香月の家を出される日、父は二度と朔音に接触するなと吐き捨てた。その目は父が子を見るものではなく、ゴミを蔑むかのような冷えた眼差しだった。

「桔梗……僕は」

 まだまともではない思考のまま、会社をクビになってから少し伸びた襟足に手を掛けてうなじを顕にすると口を開いた。そこには番の証として玲司が刻んだ噛み跡がくっきりと浮かんでいる。

「俺、もう番を得ているんだ。だからもう朔音に守ってもらう筋合いはない」
「……っ!」
「朔音は香月の当主になるんだろう? 二度と俺に会っちゃいけない。俺はアルファ至上の香月家には不必要な人間なんだから」

 だから、もう来ちゃダメ、と淡々と告げると、同じ顔をした兄は、キッと桔梗を睨みつけ、スツールから立ち上がり大股で桔梗に近づいた途端、右腕が大きく弧を描いて乾いた音を店内に響かせる。

「桔梗のバカ! 僕がそんな事で怖じけて逃げると思ったの!? 僕は桔梗のお兄ちゃんなんだよ。何でも一人で片付けようとしないでよ!」
「朔音……」

 朔音は桔梗と同じ顔でボロボロと涙を流しながら叫んでいた。
 オメガ性だったが為に、隠されるように朔音と比較されながら育っていった愛おしい弟の桔梗。
 勝気なのに、本当はさみしがり屋だった。
 誰にも頼る術も知らず生きてきた大事な片割れ。

「あの頃と違って僕も大人になったんだよ。クソ父親だって、数年もすれば僕に家督を譲るだろうし、そうなったら、桔梗をあの家に戻す事だって可能なんだから! だからもっと僕を頼ってよ、桔梗ぅ……」

 耳元で盛大に叫ばれたせいで、桔梗は完全に覚醒してしまい、ぎゅうぎゅうと朔音に抱き締められて痛みに眉をひそめる。同じ顔とはいえども朔音はアルファだ。馬鹿力で締められたら骨が痛む。

「はい、朔音君。桔梗君から離れてくれますか? 僕の番に不要なアルファの匂いを着けられるのは不快です」

 べり、と朔音から離された桔梗は、今度はカウンターから出てきた玲司の腕の中に包まれる。やっと探していた匂いが近くにあり、自然と彼の胸に頬を摺り寄せる。ああ、いつも傍に感じていたハーブの香り。
 そんな桔梗の可愛らしい姿に玲司はうっとりと笑みを深めて抱き締め、朔音は仇敵を見るように睨み据え、総一朗はどうしたもんかな、と言いたげに苦笑を浮かべていた。
 が、すぐに立ち直った朔音は玲司に向かって指差し吠えた。

「うちの子をこんな裏表ある男に嫁がせる気はありません! 香月次期当主の僕が反対しますので!」

 双子の兄の筈なのに、まるで自分の子供の事のように言う朔音の言葉に疑問を持ち、桔梗は玲司の胸から顔を上げ尋ねる。

「玲司さんって裏表ある人なんですか?」
「まあ、僕もそれなりの年齢を重ねてますので。……こんな僕はお嫌いですか?」

 玲司を好きだと自覚した桔梗は、そろりと玲司の腰へと腕を回し、

「いいえ。どんな玲司さんでも、俺は好きですよ?」

 すり、と頬を寄せた桔梗の顔は、まるで恋する乙女のように頬を朱に染めていたのだった。

 一体、姿を見せるまでの間に何があったのだろう。突然甘える様子を見せる桔梗を腕の中に抱いたまま、玲司は混乱していた。しかし、途中から「まあいいか」と投げやりになる位に桔梗が可愛くて、このままベッドへ直行したい気持ちで一杯だった。

「勿論、僕も桔梗君が大好きですよ」
「ふふ、擽ったいです」

 桔梗の頭頂にキスを落とせば、擽ったそうに肩を竦める。傍観者を完全に無視し、二人きりの甘い世界を展開していたが、

「おーい。いちゃつくのは後からにしてくれないかなぁ」
「そうですよ! わざわざ夜遅くにここに来たのは、実の弟のラブラブっぷりを見学しに来た訳ではありませんからね!」

 手をひらひらと煽いで番同士の甘い空気を追い払う総一朗と、頬をぷっくりと膨らませて柳眉を釣り上げている朔音が二人の空気を引き裂いたのだった。

「ああ、そうでしたね。折角桔梗君も起きた事ですし、先程の話を訊いてみましょうか」
「さっきの話ですか?」
「その前に、まずは座りましょうか。桔梗君、まだ薬が残っているんじゃないですか。いつでも横になれるようにソファ席でお話しましょうか」

 玲司はそう微笑んで告げ、桔梗の体を軽々と抱き上げるとソファ席の一つに下ろす。

「カフェインは体に良くありませんから、前に桔梗君が摘んでくれたカモミールを乾燥させたのがあるんです。ミルクティにしましょうか。蜂蜜はお好きですか?」
「ええ、蜂蜜好きですよ。でも俺もコーヒーでも……」
「藤田さんが処方したのは病院のお薬で効果も強いですから、念の為にカフェインレスの飲み物にしましょうね」

 有無も言わせないとはこの事を言うのだろうか。畳み掛けるように言われてしまえば、桔梗も頷くしかなかった。
 玲司は桔梗の膝にブランケットを掛けると、カウンターの方へと去ってしまった。
 いつの間にか正面のソファに腰を下ろす総一朗と朔音が、

「さっきの僕に対する対応と雲泥の差なんですけど?」
「桔梗君にはあれがデフォルトだ」
「……マジですか」
「ああマジだ」
「「……」」

 何やら小声でやり取りして、何故か見つめ合っていたのは何故なんだろうか、と桔梗は首を傾げるだけだった。
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