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本編
ここまで来て言うのもアレですけど、帰るって選択は
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グスグス鼻を啜って泣いていたら、俯いて剥き出しになった首筋に冷たい何かが小さく跳ねるのを感じた。雨が降ってる?
そろりと俯けていた顔を上げれば、慈愛に満ちた微笑を浮かべる専務の綺麗な顔が近くにあり、心臓がドクリと震える。
何度か顔を合わせた事があるけど、こんなに至近距離で見たことがない。
まるでメンズ雑誌から抜け出したかのような美貌をガン見しちゃうのは、女子なら誰しもがやるんじゃなかろうか。
いやぁ、これだけ格好いいと入れ食い状態になるのも頷けるわぁ。しかもイケメンに抱き締められてるとか、会社の綺麗どころに見つかったらリンチどころじゃ済まないかも。
「あ、ご、ごめんなさい! みっともない所をお見せ……あ」
縋って泣いた恥ずかしさで顔に熱が溜まるのを感じつつ、専務の厚い胸をぐっと押したら、涙の湿気とは違う濡れた感触がヒヤリと掌に伝わる。
ダークカラーだったから気付かなかったけど、よくよく観察してみれば肩の辺りがぐっしょりと濡れて色を濃くしていた。
初夏とはいえども、風邪をひかせてしまったら、私の責任問題……。
「せ、専務っ。雨が降ってるのなら、教えてください!」
「あ……あぁ、月宮君が暖かくて雨が降ってるのに気付かなかったな」
うっとりと私を目に映しながら微笑む専務の台詞に、私の顔の熱が更に高まる。
イケメンは何をしてもイケメンですね!
「な、な、な」
「とはいえ、雨足が強くなってきたし、駅まで走っても余計ずぶ濡れになるだろうし……」
言葉の出ない私から視線を外した専務は、雨で烟る周囲を見渡していたが、何か思いついたように私の腕を強引に引っ張り出して歩き出す。一体……ってぇ!?
「せ、せ、専務ぅ!?」
思わず叫んでしまった私を諫めないでください。だって、千賀専務が入っていこうとしているのは、先程元恋人が女性とくぐったホテルだったのだから。
「あのっ、あの、せ……」
「心配しなくてもいいから。ここ、知り合いがオーナーやってるホテルでね。しばらく雨宿りの為に入るだけだから」
にっこりと説明してくれる専務だけど、私の腕を掴む手は言葉とは違い力強い。
でもなぁ、専務の周囲に侍るお綺麗なおねえさま方を見るに、私のような普通の女になんて食指を伸ばさない……よね? 蓼食う虫も好き好きとかじゃなくて、純粋に雨宿りに使うだけだよね?
おろおろしてる内にエントランスへとたどり着いた私に、「ちょっと待ってて。事情を話してくるから」と、専務は部屋を選ぶパネルの横にひっそりと置かれてある小窓へと近づいていった。
専務が小窓に向かって声を掛けると、きっちりとしまったカーテンが薄らと開く。ちらっとしか見えなかったけど、数回顔を見たことのある素敵なおじ様従業員の方だった。
しばらく二人がボソボソとやり取りしてたかと思えば、壁が切り取られるように開かれたのは扉だったらしい。そこから白いワイシャツに黒のベストと蝶ネクタイ、同じ黒のスラックスを召したおじ様が現れ、専務に何かを渡した後、私に目礼をして立ち去ってしまったのだ。
「待たせてごめんね」
そうはにかんだ笑みを浮かべる専務を呆然と見上げてたせいで、反応が遅れてしまった。無言でいた私を同意と見做したのか、そっと背中を押されるようにして私たちはすぐに来たエレベーターに吸い込まれたのだった。
薄暗い箱の中、私はさりげなく隣に立つ千賀専務をチラ見する。
ホント、イケメンだよなぁ。しかも専務という立ち位置にいながら物腰柔らかいし。これは入れ食い状態なのも頷ける。あ、私は失恋したばかりでそんな事思ってもないけど。
というか、会社の上司とラブホとか……。常識ある人だから、部屋に入った途端襲ってはこないと信じてはいるものの、普通は男女(または男男、女女)の愛の交流に使用する場所な訳で。あぁ、もう雨に濡れてもいいから帰っちゃ駄目だろうか。
「あの、千賀専務?」
「うん? どうしたのかな、月宮君」
「ここまで来て言うのもアレですけど、帰るって選択は」
「駄目だよ。君に風邪でも引かれたら会社が困る」
難しい顔をして専務が告げるものだから、私ってそんなに重要ポストにいる訳でもないのに、って首を傾げてしまった。
部長補佐とは言うものの、多忙な上司のサポートで付けられた役職であって、業務内容としては普通の社員と大差はない。ただ、補佐の仕事が多いだけって感じなんだけど。
そもそも私が部長補佐についたのは一年位前。ただの平社員だったのに、部長から突然告げられてからというもの、必死で仕事に食いついた程度だ。
実際、やることは平社員と同じで、私一人が病気で休んだとしても、歯車としては不都合はないと思うんだよね。
何故、こうも専務は私に過保護に接してくるのか。ホントよう分からん。
「大事な子には病気になってもらいたくないんだよ」と、覗き込むようにして屈んできた専務は、雨で髪が濡れているせいか、額に一筋かかる髪がとても色っぽく、女性として何だか負けたような気分になったのだけど、ぐっと言葉を飲み込んで耐えた私を褒めてください。
しかし「大事な子」って社員に言う言葉なんだろうか?
チン、と軽やかな音で目的の階に到着した私の心情は、専務にエスコートされているにも拘らず、足が重くてドナドナされてるような気分。
私の心の中を表すように、静かな廊下に響くヒールを引き摺る音色。
雨宿りなら、別にエントランスでも良かったんじゃ、とエレベーターの中で反論したものの、
「他のお客様に迷惑になるんじゃないかな。色んな事情があって利用してる人もいる訳だしね」
と、有無を言わさない爽やかな笑顔を浮かべる専務だったけど、私は正直、背後に黒い何かがとぐろを巻いてた気がしてならないのだけど。気のせいか? 気のせいと思いたい。むしろそんな物はなかった!
ラブホテルにそぐわない重苦しい何かを背負ったまま、ズルズル専務に誘導されたのは、シンプルなひとつの扉の前。
微かに元恋人の雄叫びみたいなのが聞こえてきたような気もするけど、幻聴に違いない。ここはラブホテルなんだから、どこかのカップルが大いに盛り上がっているのだろう。
「さあ、どうぞ」
迷いもなく鍵を差し込んで扉を開いた専務に続き、渋々ながら後に続く。
「わぁ……」
自然と感嘆の声が出てしまった。だって雨宿りに使うには豪奢なお部屋だったから。
このホテルの売りが、色んなコンセプトの内装が施されたのは知っていたけど、足を踏み込んだ部屋は、なんというかラブホというよりラグジュアリーな高級ホテルの一室のよう。
そりゃラブホテルだから面積は広くはないとはいえ、パーテーションで仕切られた一角にはカッシーナの二人掛けソファにローテーブルがあって、相対するように壁に埋め込まれた大型テレビ。
奥に鎮座するのは大人三人が寝ても余裕のあるベッドがあるんだけど、アイアンフレームが乙女心を擽るというか。ファブリックも薄いグリーンで目にも優しい。
内装も天井にはスワロフスキーのシャンデリアがあり、壁紙もアイボリー地に小花柄が可愛い。なんなの、このオシャレカワイイ空間は!
多分、この部屋ってここでは高価格帯の部類に入るよね。
いつも元恋人と使っていたのは、もうちょっとランクを落とした、いかにもラブホテルなお部屋ばっかりだった。それでも回るベッドとかはなかったけど。
呆然と部屋の中を見回していると、キンコンとチャイムの音が鳴って、思わずギクッと全身がこわばる。
「月宮君、済まないけど対応してくれるかな。今、お風呂の準備してて手が離せないんだ」
「は、はいっ」
いつの間に移動したんですか、と問う暇もなく、再度急き立てられるように鳴るチャイムに、私は慌てて扉へと駆け寄る。
「遅くなり申し訳ございません。頼まれていたタオルをお持ち致しました」
開いたドアの隙間から顔を見せたのは、先程専務に鍵を渡していた素敵なおじ様従業員だった。
「あ、ありがとうございます」
すっと差し出されたタオルを受け取ったら、何故かじっとおじ様従業員の方に凝視されているのに気付く。
「えーと、何か?」
「いえ、何でもございません。あ、それから」
「はい」
「先程の件、了承しましたとお伝え戴けるでしょうか」
「はあ」
ふかふかのタオルを両手に抱え、私は小首を傾げたまま、意味も分からぬ会話に曖昧に頷くだけしかできなかった。専務、あの短い会話で何か頼んだのだろうか。
「専務?」
「ああ、済まないね月宮君。対応に出させてしまって」
浴室に向かって声を掛けたら、備え付けのタオルなのだろうか、手を拭きながら現れた専務は、これまたいつジャケットを脱いだのか、ワイシャツのポケットにネクタイを詰めた格好。うちのおじ様部長がやったら、オヤジ臭いと言われそうな姿も、イケメン補正でもあるのか、無駄に格好良いとか。フィルター恐るべし。
「いいえ。こちら預かったタオルです。それから、従業員の方から伝言です。『先程の件、了承しました』との事です」
タオルを渡しつつそう言えば「そっか」と唇の端を釣り上げ笑う専務。あのう、決して口には出しませんが、ちょっと悪役ぽい笑い方で怖いです。
「何か頼まれたんですか?」
「まあね。それよりも、まだ湯が溜まるまで時間がかかりそうだから、風邪をひく前に何か温かい飲み物をお願いしてもいいかな」
反問を許さないとばかりの笑顔で、用件を言い渡してくるから、下手に藪をつついて蛇を出すつもりもない私は、そそくさとソファの近くに備え付けてあったローボードからポットと水を取り出し、インスタントの珈琲スティックを取り出して準備する。
さほど時間を置くことなくカチ、とポットの水が沸騰したのを教えてくれる。家でも同じメーカーのを使ってるけど、すぐにお湯になるのってホント便利だよねぇ。夜食の時とか助かってます。
グスグス鼻を啜って泣いていたら、俯いて剥き出しになった首筋に冷たい何かが小さく跳ねるのを感じた。雨が降ってる?
そろりと俯けていた顔を上げれば、慈愛に満ちた微笑を浮かべる専務の綺麗な顔が近くにあり、心臓がドクリと震える。
何度か顔を合わせた事があるけど、こんなに至近距離で見たことがない。
まるでメンズ雑誌から抜け出したかのような美貌をガン見しちゃうのは、女子なら誰しもがやるんじゃなかろうか。
いやぁ、これだけ格好いいと入れ食い状態になるのも頷けるわぁ。しかもイケメンに抱き締められてるとか、会社の綺麗どころに見つかったらリンチどころじゃ済まないかも。
「あ、ご、ごめんなさい! みっともない所をお見せ……あ」
縋って泣いた恥ずかしさで顔に熱が溜まるのを感じつつ、専務の厚い胸をぐっと押したら、涙の湿気とは違う濡れた感触がヒヤリと掌に伝わる。
ダークカラーだったから気付かなかったけど、よくよく観察してみれば肩の辺りがぐっしょりと濡れて色を濃くしていた。
初夏とはいえども、風邪をひかせてしまったら、私の責任問題……。
「せ、専務っ。雨が降ってるのなら、教えてください!」
「あ……あぁ、月宮君が暖かくて雨が降ってるのに気付かなかったな」
うっとりと私を目に映しながら微笑む専務の台詞に、私の顔の熱が更に高まる。
イケメンは何をしてもイケメンですね!
「な、な、な」
「とはいえ、雨足が強くなってきたし、駅まで走っても余計ずぶ濡れになるだろうし……」
言葉の出ない私から視線を外した専務は、雨で烟る周囲を見渡していたが、何か思いついたように私の腕を強引に引っ張り出して歩き出す。一体……ってぇ!?
「せ、せ、専務ぅ!?」
思わず叫んでしまった私を諫めないでください。だって、千賀専務が入っていこうとしているのは、先程元恋人が女性とくぐったホテルだったのだから。
「あのっ、あの、せ……」
「心配しなくてもいいから。ここ、知り合いがオーナーやってるホテルでね。しばらく雨宿りの為に入るだけだから」
にっこりと説明してくれる専務だけど、私の腕を掴む手は言葉とは違い力強い。
でもなぁ、専務の周囲に侍るお綺麗なおねえさま方を見るに、私のような普通の女になんて食指を伸ばさない……よね? 蓼食う虫も好き好きとかじゃなくて、純粋に雨宿りに使うだけだよね?
おろおろしてる内にエントランスへとたどり着いた私に、「ちょっと待ってて。事情を話してくるから」と、専務は部屋を選ぶパネルの横にひっそりと置かれてある小窓へと近づいていった。
専務が小窓に向かって声を掛けると、きっちりとしまったカーテンが薄らと開く。ちらっとしか見えなかったけど、数回顔を見たことのある素敵なおじ様従業員の方だった。
しばらく二人がボソボソとやり取りしてたかと思えば、壁が切り取られるように開かれたのは扉だったらしい。そこから白いワイシャツに黒のベストと蝶ネクタイ、同じ黒のスラックスを召したおじ様が現れ、専務に何かを渡した後、私に目礼をして立ち去ってしまったのだ。
「待たせてごめんね」
そうはにかんだ笑みを浮かべる専務を呆然と見上げてたせいで、反応が遅れてしまった。無言でいた私を同意と見做したのか、そっと背中を押されるようにして私たちはすぐに来たエレベーターに吸い込まれたのだった。
薄暗い箱の中、私はさりげなく隣に立つ千賀専務をチラ見する。
ホント、イケメンだよなぁ。しかも専務という立ち位置にいながら物腰柔らかいし。これは入れ食い状態なのも頷ける。あ、私は失恋したばかりでそんな事思ってもないけど。
というか、会社の上司とラブホとか……。常識ある人だから、部屋に入った途端襲ってはこないと信じてはいるものの、普通は男女(または男男、女女)の愛の交流に使用する場所な訳で。あぁ、もう雨に濡れてもいいから帰っちゃ駄目だろうか。
「あの、千賀専務?」
「うん? どうしたのかな、月宮君」
「ここまで来て言うのもアレですけど、帰るって選択は」
「駄目だよ。君に風邪でも引かれたら会社が困る」
難しい顔をして専務が告げるものだから、私ってそんなに重要ポストにいる訳でもないのに、って首を傾げてしまった。
部長補佐とは言うものの、多忙な上司のサポートで付けられた役職であって、業務内容としては普通の社員と大差はない。ただ、補佐の仕事が多いだけって感じなんだけど。
そもそも私が部長補佐についたのは一年位前。ただの平社員だったのに、部長から突然告げられてからというもの、必死で仕事に食いついた程度だ。
実際、やることは平社員と同じで、私一人が病気で休んだとしても、歯車としては不都合はないと思うんだよね。
何故、こうも専務は私に過保護に接してくるのか。ホントよう分からん。
「大事な子には病気になってもらいたくないんだよ」と、覗き込むようにして屈んできた専務は、雨で髪が濡れているせいか、額に一筋かかる髪がとても色っぽく、女性として何だか負けたような気分になったのだけど、ぐっと言葉を飲み込んで耐えた私を褒めてください。
しかし「大事な子」って社員に言う言葉なんだろうか?
チン、と軽やかな音で目的の階に到着した私の心情は、専務にエスコートされているにも拘らず、足が重くてドナドナされてるような気分。
私の心の中を表すように、静かな廊下に響くヒールを引き摺る音色。
雨宿りなら、別にエントランスでも良かったんじゃ、とエレベーターの中で反論したものの、
「他のお客様に迷惑になるんじゃないかな。色んな事情があって利用してる人もいる訳だしね」
と、有無を言わさない爽やかな笑顔を浮かべる専務だったけど、私は正直、背後に黒い何かがとぐろを巻いてた気がしてならないのだけど。気のせいか? 気のせいと思いたい。むしろそんな物はなかった!
ラブホテルにそぐわない重苦しい何かを背負ったまま、ズルズル専務に誘導されたのは、シンプルなひとつの扉の前。
微かに元恋人の雄叫びみたいなのが聞こえてきたような気もするけど、幻聴に違いない。ここはラブホテルなんだから、どこかのカップルが大いに盛り上がっているのだろう。
「さあ、どうぞ」
迷いもなく鍵を差し込んで扉を開いた専務に続き、渋々ながら後に続く。
「わぁ……」
自然と感嘆の声が出てしまった。だって雨宿りに使うには豪奢なお部屋だったから。
このホテルの売りが、色んなコンセプトの内装が施されたのは知っていたけど、足を踏み込んだ部屋は、なんというかラブホというよりラグジュアリーな高級ホテルの一室のよう。
そりゃラブホテルだから面積は広くはないとはいえ、パーテーションで仕切られた一角にはカッシーナの二人掛けソファにローテーブルがあって、相対するように壁に埋め込まれた大型テレビ。
奥に鎮座するのは大人三人が寝ても余裕のあるベッドがあるんだけど、アイアンフレームが乙女心を擽るというか。ファブリックも薄いグリーンで目にも優しい。
内装も天井にはスワロフスキーのシャンデリアがあり、壁紙もアイボリー地に小花柄が可愛い。なんなの、このオシャレカワイイ空間は!
多分、この部屋ってここでは高価格帯の部類に入るよね。
いつも元恋人と使っていたのは、もうちょっとランクを落とした、いかにもラブホテルなお部屋ばっかりだった。それでも回るベッドとかはなかったけど。
呆然と部屋の中を見回していると、キンコンとチャイムの音が鳴って、思わずギクッと全身がこわばる。
「月宮君、済まないけど対応してくれるかな。今、お風呂の準備してて手が離せないんだ」
「は、はいっ」
いつの間に移動したんですか、と問う暇もなく、再度急き立てられるように鳴るチャイムに、私は慌てて扉へと駆け寄る。
「遅くなり申し訳ございません。頼まれていたタオルをお持ち致しました」
開いたドアの隙間から顔を見せたのは、先程専務に鍵を渡していた素敵なおじ様従業員だった。
「あ、ありがとうございます」
すっと差し出されたタオルを受け取ったら、何故かじっとおじ様従業員の方に凝視されているのに気付く。
「えーと、何か?」
「いえ、何でもございません。あ、それから」
「はい」
「先程の件、了承しましたとお伝え戴けるでしょうか」
「はあ」
ふかふかのタオルを両手に抱え、私は小首を傾げたまま、意味も分からぬ会話に曖昧に頷くだけしかできなかった。専務、あの短い会話で何か頼んだのだろうか。
「専務?」
「ああ、済まないね月宮君。対応に出させてしまって」
浴室に向かって声を掛けたら、備え付けのタオルなのだろうか、手を拭きながら現れた専務は、これまたいつジャケットを脱いだのか、ワイシャツのポケットにネクタイを詰めた格好。うちのおじ様部長がやったら、オヤジ臭いと言われそうな姿も、イケメン補正でもあるのか、無駄に格好良いとか。フィルター恐るべし。
「いいえ。こちら預かったタオルです。それから、従業員の方から伝言です。『先程の件、了承しました』との事です」
タオルを渡しつつそう言えば「そっか」と唇の端を釣り上げ笑う専務。あのう、決して口には出しませんが、ちょっと悪役ぽい笑い方で怖いです。
「何か頼まれたんですか?」
「まあね。それよりも、まだ湯が溜まるまで時間がかかりそうだから、風邪をひく前に何か温かい飲み物をお願いしてもいいかな」
反問を許さないとばかりの笑顔で、用件を言い渡してくるから、下手に藪をつついて蛇を出すつもりもない私は、そそくさとソファの近くに備え付けてあったローボードからポットと水を取り出し、インスタントの珈琲スティックを取り出して準備する。
さほど時間を置くことなくカチ、とポットの水が沸騰したのを教えてくれる。家でも同じメーカーのを使ってるけど、すぐにお湯になるのってホント便利だよねぇ。夜食の時とか助かってます。
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