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サウナで裸の付き合い……させねえよ!

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「ねえねえ、二人とも知ってるー?」
「どうした藪から棒に」
「なのちゃんの可愛さなら誰よりも知っていますよ」
「んっとねー、えっとねー」

 昼休み、机をくっつけて弁当を食べていた三人。
 今日も今日とて、なのが脈絡のない発言をぶち込んできた。

「サウナは熱い!」
「そういうもんだからな」

 夏は暑い、というくらい当たり前の発言に、壊涙がクールに切り返す。
 慌てて顔の前で手を振っているところを見るに、なのの発言はエラーによるものらしい。

「じゃなくて、んっとねー……今、サウナがアツい! ほら!」
 なのが鞄から取り出してきたのは、ティーン向けのファッション雑誌。おバカ全開とはいえ、趣味趣向は年頃の女の子なのだ。
「ああ、最近流行ってますよね。整う、というワードを連日耳にします」
「そう、整う! 澪ちゃんいい事言った! 座布団一枚!」
「できれば使用済みでお願いします」

 澪の変態発言は平常運転だが、なののテンションは普段に輪をかけてハイだ。子供のように勢いよく立ち上がり、なのは両拳をぶんぶんと上下にシェイクした。

「なのはね、サウナに行きたい! いっぱい汗かいて、整うっていうのしたいんだー♪」
「へえ、いいじゃん」
「それはそれは……」

 なののミーハーな一面にほっこりしかけていた二人だが、ほぼ同時に固まった。想像してみたのだ。
 そして思い至った。
 サウナとは、公衆浴場に限らず様々な施設に備え付けられているが――一様に、見ず知らずの人間との裸の付き合いという側面があることに。 

「ダメだ!」
「ダメです!」
「ええ!?」
 
 自分たちすら見たことのない――厳密には、幼馴染である澪は小学生の頃に一緒に入浴しているのだが――なののあられもない姿を、不特定多数の視線に晒すなど耐えられない。
 天使のように愛らしいなのの、もちもちした素肌。適度に女性らしい幼くも肉感的なフォルム。
 
 不届き者が、拉致や痴漢という強硬手段を目論んでもおかしくない。
 杞憂なのだが、今二人の頭蓋にはそんな妄想が確定事項としてこびりついていた。
 故に、なの一人を野獣の群れに放り込む真似はしない。あわよくば、健全なおこぼれを狙って……。

「どうしても行くってんなら……アタシも行く!」
「なっ、私も行きます! 地の果てまでも! 血が果てても!」
「ふぇ、二人とも? 肩、そんなぎゅーってしたら痛いよぉ。それに」
 
 鼻息を荒らげて詰め寄る二人が、どうしてそんな宣言をしたのかなのは分からない。

「最初から、二人も一緒にどうかなーってお誘いだったんだけど……えへへ」
『ッ~~~……!!!』

 壊涙と澪のバカコンビが、同時に膝を着いた。どちらも考えていることは同じだ。

 ――小和水が、アタシと裸の付き合いを望んでくれた……!
 ――なのちゃんが、私に肌を見せてくれるなんて……!

 サウナに入る前からのぼせ上っているバカ二人であった。


 
 放課後、一度それぞれの自宅に帰り、タオルや着替えなどを各自用意して現地集合。場所はサ活女子垂涎の女性用サウナ施設『お湯小町』。
 熱波師も店員も女性だけという徹底ぶりのため、女子高生グループ……特にグループ内で恋のベクトルが向いているようなグループにもピッタリの施設だ。

「んくっ、んくっ……ぷぁ~♪ 最初の水分補給から、サウナは始まる!」
「どこでも元気だなお前は……」 
 初サウナの癖に妙に玄人じみたことをのたまい、水分補給を終えたなのは。
 下段のロッカー――上段は背が低くて届かない――に諸々の荷物を素早く入れて。

「んしょ、すっぽんぽん~♪」
『!!?』

 同性しかいない空間。それも裸がドレスコードの施設なのだから、その行動はごく自然。だが、壊涙と澪に心の準備を許すことなく、なのは一糸纏わぬ姿になってしまった!
 三十秒未満の早着替えだったため、もしかすると下着の類を着用していなかったのかもしれない。
 サウナへの意気込みか、あるいは元々慎ましいサイズの胸には、ブラジャーなど不要なのか。

 普段からノーパンノーブラなのか、今回だけのスペシャルエディションか。シュレディンガーの猫ならぬ、シュレディンガーの下着が二人を悩ませた。
 いや、それより何より。
 視線のやり場に困る。

「こ、小和水……あの、タオル、タオル巻いてくれねーか」
「ふにゅ? はいっ」
「いや私の頭に巻くんじゃなくてだな……せめて、前隠してほしい……色々、困る」
「んー……なのの身体、隠せばいいの?」
「ああ」

 ともすれば、意識しているのがなのにバレてしまう綱渡り。しかし放置していては、どのみち壊涙の命はあと数分で消えていた。
 英断と言えるだろう――なのに伝わりさえしていれば。

「ぅぅ……それって、なののお腹が、ポッコリさんだから……? むにむにしてて、恥ずかしいから、隠してほしいってこと……?」
「え、いや、違っ」

 なのの身体は、確かに肉付きがいい。だが決して太っているわけではなく、愛くるしい印象に磨きをかけるアクセントとなっているのだが。
 本人にとっては、コンプレックスだったらしい。
 壊涙が返答に窮していると。

「なのちゃん、紅蓮塚さんは女の子としての嗜みを説いているんだと思います。結婚前の女性が、みだりに肌を見せてはいけない。故に私も、身体にタオルを巻いていますよ? ほら」
「時時雨……」
 
 意外な援軍である。いつの間にか服を脱いでいたらしい澪は、胸から膝下までを大きなタオルで隠し、頭にもフェイスタオルを巻いている。
 悲しいほどに胸がないため、タオル越しにも一切の膨らみを感じられないのだが……その岸壁っぷりが(?)今は頼もしかった。

「んー、そうなんだ! ごめん壊涙ちゃん、なの勘違いしてたねっ。恥ずかしいことなら、ちゃんと隠すよ~」
「お、おう。気を付けろよあははは」

 何とか事なきを得た壊涙に、澪がそっと耳打ちする。

「今回は私にとってもピンチでしたから……貸しにしときます」
「……サンキュ」

 恋敵とはいえ、今回ばかりは同行の士。
 想い人との入浴という一大事を前に、今だけ二人は停戦協定を結ぶことにした。そしてまごつきながらもようやく。

「おぉ~、人がいっぱい!」
 浴室に足を踏み入れた。辺りで一番の人気サウナだという事もあり、平日にも関わらずかなりの客足だ。
 三人は目立たないように、そして身体が不用意に露出しないように注意しながら体を洗い。
 
 最初の湯船に入る段となった。浴槽にタオルを付けるのはマナー違反なので、ここばかりは全員キャストオフ。
 湯船の中に見え隠れする肌色には極力目線を向けないようにしつつ、肌に染み入る温もりを堪能していたのだが。

「!? 壊涙ちゃん、おっぱいが! おっぱいが浮いてるよ!?」
 三人の中で一番……というか学年でも指折りの巨乳である壊涙の膨らみが水に浮かび、僅かに水面から顔を出している。
 なのは内外共に幼いこともあってか、大きな胸が大好きらしく。
 瞳を星色に輝かせて、壊涙に顔を近づけてくる。

 ――ち、近いっ……。

「壊涙ちゃん、たむたむ! おっぱいたむたむしていい!?」
「んだよそれ……つか、声でけーって……」
「一回だけ! ちょっとだけ! えいっ」
「あ、ちょっ――」

 なのは辛抱堪らなくなったのか、壊涙の真正面に回り込み。
「たむたむ、たむたむ!」
 そのまま壊涙の胸をドラムでも叩くように、祭りのヨーヨーで遊ぶようにぺしぺしと押し始めた。
 水中に沈み、弾力で戻ってくる胸。また水中に戻り、ひょっこり出てくる胸。

「わぁぁあ♪ すごーい! たむたむ! たむたむだぁ!」
「ちょ、マジでハズイから……っ……つか、あんま乱暴にすんなって」
「もうちょっとだけだからっ! ね、ね?」
「ぅ……ダメ、つってんのに」
 
 不平を述べながらも引き剥がさないのは、想い人が自分の身体に夢中だという現実が満更でもないからだろう。
 だがしかし、いつまでもそんな不埒な行為が続くはずもなく。
 背後から壊涙の肩を掴んだのは、小姑……ではなく、鬼……でもなく、澪だった。

「公共の場ですから、ね? 他のお客さんに迷惑ですから、ね? 分かってますかぁ、紅蓮塚さん」
「な、なんでアタシに言うんだよ!?」

 全く笑っていない目の奥からは、殺気と嫉妬の刃が覗いていた。
 というか澪の指がミシミシめりこんで、壊涙の肩が悲鳴を上げている。
 澪にはない唯一の武器である豊満な乳房だが、使い方を誤れば戦争の引き金になりかねないと、密かに身震いする壊涙。

「澪ちゃんのお肌もねー、スベスベなんだよねー♪ すりすりさせてっ、すりすりっ♪」
「いいですよ、はい」
「わ~♪」

 子犬のように近づいてきたなのに、躊躇いなく二の腕を差し出す澪。
 処女雪のように穢れ無き、白磁の肌。無駄な肉がなく、かといって細すぎない理想的な腕だ。
 それを枕にするように、なのが頬を横たえて。

「すりすり、すり~♪ えへへ、澪ちゃんの腕、スベスベだ~♪」
「……う、うぇへへ」

 なのの頬が擦れるにつれ、澪の表情がだらしのない物に変化していく。このままでは乙女として致命的な顔を晒しかねなかったので。

「おい、そろそろ……サウナ行こうぜ。そのために来たんだから」
「あっ、うん!」
「チッ」

 壊涙の気遣いで、とうとう目的地に向かう面々。事前の下調べに基づき、しっかりと汗を拭ってから戦地に赴いた。
 扉を開ければそこは、別世界。

「あつっ……」

 思わず声を上げてしまったのは、なのだけではない。肌を焼く温風は、九十度以上の灼熱。慣れていない者にとっては、火炙り同然だろう。
 入口で引き返しそうになる三人だが、何とか気合を入れて――

 何の考えもなしに、最上段に陣取った。
 すぐにその選択は、後悔へと繋がった。
「ぅ、ぅっ……」
 くらくらするほどの熱気が、下から込み上げてきて。大量の汗が全身から浮かび、ぐでっと背中が曲がっていく。

 なのはかなりグロッキー状態で、うわ言のように『熱い、熱い……ATSUSHIだよぉ……』となぜか某パフォーマンスグループのボーカルの名前を呟いている。意識が朦朧としている証拠だろう。

 だが壊涙も澪も、彼女を気遣う余裕がない。なのの汗が滴る様を堪能しようと思っていたのに、それどころではない。
 自分たちに、本格的なサウナは早かった。我慢勝負ではないのだし、もう上がろう。

 そんな弱気に支配されかけた瞬間。入り口の扉が開き、僅かな冷気と共に――救世主がやってきた。

「おいおい、モグリか? サウナってのは、上段ほど熱くなる。だから初心者は大人しく……よっと」
「はぅぅ」
 プロレスラーのように大柄な女性だった。彼女は瀕死状態のなのを軽々とお姫様抱っこし、最下段に座らせてやる。
 続いて、残された二人も最下段に移動した。

 下段ということは、熱源の目の前だ。熱の原因が近くにあるのだから、上より酷い熱が襲って来るに決まっている。
 そう思っていたのだが。

「あれ……? 丁度いい……」
「本当ですね……?」

 涼しいわけでは、決してない。だが先ほどまでは、呼吸するたびに鼻と口内が焼かれるような苦しみを訴えていたのだが。
 かなりスムーズに呼吸を行えるようになってきた。どういう原理なのか、優等生の澪は自力で辿り着いた。

「熱せられた空気は、上に行く……そういうことですか」
 暖かい空気は上昇する。気球にも用いられている法則だ。サウナの空気は、言うまでもなく高温。
 上程熱せられるというのも、道理だろう。

 納得がいったところで、礼を言おうとした三人は振り返って。
 その体勢のまま声を失った。
 最上段に腰かけているその人物も、目を大きく見開いたまま止まってしまった。

「田中ちゃん!」
「紅蓮塚と、子分共……?」

 なのと壊涙が絆を育むきっかけを作った、と言えば聞こえがいいが。
 再三にわたり襲い掛かってきた、悪逆非道の不良……木刀真剣の田中である。近頃めっきり姿を見せていなかったのに、こんな所で鉢合わせるとは。
 
 双方睨み合い、一触即発の空気が流れ始めるが。
 一人だけ、そんな空気をぶち壊す者がいた。

「田中ちゃん、さっきはありがとう! えへへ、こんな所で会うなんて、きぐ……着ぐるみ? 土偶? だねっ!」
「確かに、奇遇だな……まあ、ここはウチのお気に入りだからな」
「そうなんだ! えへへ、田中ちゃんの好きなとこなんだ~♪」
「あ、ああ」

 社交的に話しかけるなのに、たじろぐ田中。無理もないだろう。
 田中がしでかした数々の悪行は、到底許される類のものではない。
 暴力を振るい、壊涙を潰すためになのを拉致して。
 壊涙と澪の活躍で事なきを得たものの、一歩間違えれば……なのは今こうして笑っていないかもしれない。

 田中も流石にバツが悪いのか、目を伏せたまま黙り込んでしまった。
 無言で逃げようとする田中に業を煮やした壊涙が、歩を進めようとした所で。
「あ、熱い~! お外お外! 田中ちゃん、また後でね~!」
 のぼせたのか、なのが我先にサウナを退室していった。

「……」
 壊涙と澪は、縮こまる田中を鋭く睨みつけた後、なのに習って外に出た。無言で肩を落としている田中を見ても、一切同情は覚えない。
 壊涙と澪はいがみ合ってこそいるが、『恋敵』であっても『敵』ではない。
 だがなのに狼藉を働いた田中は、二人にとっては共通の『敵』。
 慈悲を施す気になど、なれるはずもない。

 不愉快な相手に背を向ける腹の収まりの悪さを感じながらも、事を荒立てるのを嫌った二人は外に出た。
「うぉっ」
 外に出ると、扉の横でなのが壁に背を預けて立っていた。

 何故わざわざそんな所に? 熱さに耐えかねたのなら、先に水風呂に行けばいいのに。まあ、二人を待つのもなのらしいのだが……どこか表情がぎこちない。いつでも笑顔、天真爛漫ななのにしては珍しい程、困ったような顔色だ。

「なのちゃん、どうかしましたか?」
「んーと……とりあえず、水風呂入ろう?」

 はぐらかすような発言も、なのらしくない。水風呂に浸かる時にも、リアクションがなかった。いつもなら、飛びあがるばかりのオーバーリアクションを見せるはずなのに。
 結局、なのが口を開いたのは露天風呂に行ってしばらくしてからだった。
 壊涙と澪に挟まれ、中心にいるなのがゆっくりと顔を上げた。

「二人は……田中ちゃんと、仲良くないよね」
『え……』

 突然何を言い出すのか。仲良くなどできるはずがない。この少女は自分のされたことを理解していないから、そんな呑気なことが言えるのだ。
 壊涙はそう反論しようとしたが、先んじてなのが続けた。

「この前、喧嘩してたもんね。分かってるよ……澪ちゃん、血流してたもん」
「あ……」
 それは澪の転校初日、壊涙の人質としてなのが放送室に囚われた時の事だ。
 田中の手下が放ったエアガンが掠り、澪の頬から鮮血が迸ったのは記憶に新しい。

 平和ボケしているように見えて、あの時確かに害意を持って対峙していたことを、なのは知っていた。それでも、暗い顔はしたくないから。
 友達といるときは、笑顔でいたいから。あの一件には不自然な程触れてこなかった。
 
 
「……仲良くするのは、無理なのかな。なの、皆仲良しがいいな」
「なのちゃん……」
 小さな身体を一層縮めて、なのは呟いた。どこか悲しそうなのは、気のせいではないだろう。
 田中と壊涙たちが睨み合うのを、快く思っていないのだ。

「田中ちゃんはね? 確かに、酷い事したよ。壊涙ちゃんをボカッてしたり、カフェでうわーって暴れたり、澪ちゃんに怪我させたり……でも、でもね?」
 なのは二人を交互に見た。瞳の表面が、微かに濡れている。

「悪い子じゃ、ないんだよ? たまに、乱暴だったり、意地悪しちゃうかもだけど……放送室の時も、なのに痛いことしなかった。むしろ、お菓子食べさせてくれて、優しかった」
「小和水……」
 お菓子で懐柔されたわけでは勿論ない。人質に餌付けをする意味など皆無だというのに、なのに食事を与えた。
 そこに優しさの断片を見出したのだ。

「もう喧嘩しないよの約束すれば……仲良くできない?」
 そんな約束を取り付けることなど不可能だろう。仮に表面上約束を交わしたとして、他ならぬ壊涙と澪がそれを信じることができない。
 卑劣な手段でなのに害をなした、悪なのだから。

 なのは無言の二人を見て、残念そうに眉を下げてから。
「なの、田中ちゃんとも仲良くしたい! だから……もう喧嘩しないでって、言ってくるね!」
 一人、露天風呂を後にしてしまった。

 小さいのに、弱いのに。その迫力が今だけは、豪傑である二人を黙らせていた。沈黙の中、なのの足音が遠ざかっていく。


 +++++

 走り出したなのは、前方――露天風呂の入り口――から出ていく、巨大な背中を目にした。

 ――あれ……田中ちゃん?

 迷わずサウナ最上段に陣取ったところから見ても、田中はサウナ慣れしている。そもそもなのたちより後に来たのだ。
 このタイミングで、露天風呂に来るのならまだ分かる。
 だが――露天風呂を出ていくというのは、あまりに不自然だ。

 偏差値十二のなのでは、その違和感を言語化することはできないが。
 それでも、今田中に話しかけなければいけない、という思いを強めることにはなった。

「田中ちゃん! 今、聞いてたんでしょ!? なのたち、仲良くできないの!?」
「……!」

 歩幅も速度も、なのと田中では雲泥の差だ。全力で走らなければ、永遠に追いつけない。だからなのは走る。
 思いきり、身体能力の限界ギリギリまで。
 しかしながら、ここは風呂場。当然、水に濡れた床は滑りやすい。そんな中で全力疾走などしようものなら。

「あ……」

 なのの足が地面から離れる。勢いの付いた身体は、宙に投げ出されて。そのまま頭から落ちていく、寸前で。

「あぶねえ!!」
 大きく頼もしい手のひらが、なのを受け止めた。壊涙でも、澪でもない。

「何してんだ……! 下手したら病院送りだぞ」
「田中ちゃん……」

 因縁の相手、田中だった。彼女はなのを優しく地面に下ろすと、
「勘違いすんな。これっきりだ……怪我人出して、このサウナ休業になったら困るからよ」
 ぶっきらぼうに言って、背を向けた。

 なのが呼び止めようとしても、田中は止まってくれない。ただ最後に、振り向かないまま右手を振った。
「じゃあな。ここはメシも旨いから……上がったら食うといい。精々サウナを楽しめ」
「……! うん! ばいばいっ! またねー!!」
 返事は返ってこない。

 それでもなのは、満足だった。
「あ、いたいた。小和水、さっきの話だけど……」
「進んで事を構えるつもりはありませんが、なのちゃんに手を出すようなことがあれば、私は迷わず剣を振るいます」
「アタシもだ。アイツがまた襲い掛かってきたら、次こそ容赦しねえ」
 立ち尽くすなのに、今の一件を見ていない二人が声を掛けてきた。

 なのを思って、尊重して。それでも自分たちの考えは曲げないと語る二人。
 次再び田中が牙を剥けば、今度こそ血みどろの戦は避けられないだろう。
 それでも、なのは確信していた。

「大丈夫だよ! もう、田中ちゃんと喧嘩したりすること、ないもん!」
「なんで言い切れるんだよ」
「だって――」

 今なのを助けてくれた、あのたくましい腕。
 ぶっきらぼうながら優しいアドバイス。きっと彼女は、分かってくれた。
 多少曲がっていたかもしれない。それでもきっと、心根は真っすぐ。

「田中ちゃん、絶対優しい子だもん! これからは、仲良くできるよ!」

 根拠はないが、なのはそう信じている。
 築いてきた関係は、良好ではないけれど。それでも人の心は変えられる。
 なのは心の底から、人の善意を信じているのだ。

「……小和水がそういうなら、そうなのかもな」
「分かりました。彼女が何かしない限り……無礼な態度はとらないと約束します。一応先輩ですしね」
「うん! ありがとう二人とも!」

 根負けした形ではあるが、澪と壊涙も分かってくれた。
 その後は、サウナと露天風呂を思うがままに楽しんだ。

 田中に勧められたサウナ飯が、また絶品だった。
 
 ――絶対、また来るよ。その時、会えたら……今度はもっと色々、サウナのこと教えてね。

 なのは心の中で、田中にそう呼びかけるのであった。



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