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一難去らずにまた一難

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 壊涙が澪の策略に嵌められているのと同時刻。
「呼ばれてきたよー! 賞もらえる? なんの賞もらえるのー?」
 放送によって呼び出されたなのは、職員室へ訪れていた。ノックもせずに。

 大好きな遊園地に来た子供のように室内を見回し、
「あ、先生みーつけた!」
 担任の元へととてとて駆け寄っていった。

「和水、お前……はぁ」
 この数日で、なのには注意しても無駄だと悟ったのだろう。担任は呆れたように肩を竦めると、なのに何かを差し出してきた。
「ほら、落とし物だ。気を付けろよ? ただでさえ治安が悪いっつーか頭が悪い奴らばっかなんだから。中身抜き取られても知らねーぞ」
 それはなのが愛用している、可愛らしい猫のイラストがプリントアウトされた財布だった。

「え? あれ、なののお財布? あれ? ほんとだ、ポッケに入ってない!」
「気づかなかったのか……まあいいや、ほれ」
「ありがとう!」
「ございますを付けろよ……はぁ、もういい。さっさと帰れ」
「うんございます!」
「付け方」
 
 職員室に呼び出されたのは、財布という緊急性の高い落とし物を渡すためだったらしい。額は大きくないとはいえ、中に入っているのはなのの全財産だ。
 危ない危ない、パフェを食べられないところだった……と額の汗を拭い、担任に手を振ってから職員室を後にした。
 
「ひぃふぅ、みぃ……うん、中身変化なし!」
 廊下を歩きながら、中身を確認。抜き取られているのを危惧したわけではない。金の斧、銀の斧の童話のように、一度落としたことで中身が増えたりしているのではないか? と考えたのである。純然たるバカの所業。

「良かった~、これで明日もお菓子が買える! 今日もクレープでも買おうかな~」
 大きすぎる独り言を漏らしながら、るんるん気分で歩いていたなの。
 食べたいスイーツの事で小さな脳が埋め尽くされていたせいで、
「へごっ!」
「うぉ!?」
 廊下の角で、誰かにぶつかってしまった。

「いてて……」
「チッ……てめーどこに目ぇ付けてんだおぉん!? ……なんてな。ウチは大物だから見逃してやる。ほら、立てるか?」
 相手はかなり強面で、体格のいい女だった。だが身体だけでなく度量も大きいようで、節くれだった手を差し伸べてくれた。

 しかし、なのが礼を述べながら手を取ろうとすると。
「あ゛……? お前、どっかで見た気が…………!!」
 目の前の女が、目を見開いて制止した。顔見知りだろうか?
 貧弱な記憶力をフル稼働させ、ようやく一つの名前に思い当たった。

「あ! えーっと……田中ちゃん?」
「さんを付けろ、田中さん! 木刀真剣の田中さんだオラ!」
 入学式から二日連続で壊涙にコテンパンにされている、負け犬。ではなく、木刀真剣の田中(笑)だった。

「昨日はよくもやってくれたなぁ……お前らのせいで、つーかあの一年坊のせいでなぁ……ウチらがどんな目にあったか! 思い出すだけでブルッちまうぜ……」
「寒いの? 大丈夫?」
「あーサンキュ……じゃなくて! お前らのせいでウチと可愛い子分共は、借金負っちまったんだよ! あの悪徳マスターに……マフィアみてえな女にしてやられたんだよぉ! 日の当たらない地下で、あああ……口にするのも恐ろしい!」

 彼女たちが店の備品を壊し、それをきっかけにカフェのマスターから法外な借金を吹っかけられたのは記憶に新しい。
 何があったのかは分からないが、どうやら返済するしかない状態へ追い込まれているようだ。マスター恐るべし。

「お前らのせいで、お前らのせいで……ッ」
 田中の鼻が大きく広がり、こめかみに青筋がピキピキと浮かびだす。闘牛さながらの憤怒の表情で、今にも殴り掛からんとする田中だったが。
 ここ数日のお決まりを思い出したのか、ハッとした顔になった。

「……あいつは? あの、プリンみてえな頭の……」
「壊涙ちゃん? 壊涙ちゃんはいないよ? 多分、先に帰ったかな? んー、もしかしたら待っててくれてるかも!」
「ほー……つまり今、お前一人ってわけか」
「うん!」

 嘘を吐く理由がないなのは、馬鹿正直に答えてしまった。因縁浅からぬ相手に、手を出す口実を与えてしまった。

「……そうか。悪く思うな」
「ひゃっ」
 なのの後ろ襟を引っ張り、片手で持ち上げる闘牛。なのはユーフォ―キャッチャーの景品のように、宙ぶらりんだ。

「こうなったのも全部アイツのせいだ……吠え面かかせてやんなきゃ、気が収まらねー」
 どこか狂気を秘めた瞳をしながら、田中は歩き始めた。その手には、景品ではなくなの。無防備な体勢の為にクマ柄の下着が丸見えになっているなのがいた。

 いかに偏差値十二の少女とはいえ、この状況では泣きわめくはず――
「……何これ楽しい! うぃーんって、うぃーんって運ばれちゃってる!」
 なかった。呑気にケラケラ笑いながら、無抵抗で運搬されていくのだった。

 向かう先は、田中のみぞ知る。

 
 +++++

 一方その頃。
「ぐっ」
「節操無しに尻尾を振るメス猫……いや山猿にお似合いの下品な悲鳴ですね。不快なのでさっさと黙ってくれます? 永遠に沈黙してくれますかほらほらほら」
「ぐぁっ……!」
 壊涙は相変わらず、いや先ほど以上にピンチだった。

 徐々に弱まりつつある握力。執拗に踏みにじられ、蓄積していく痛み。
 澪が気まぐれや気の迷いを起こせば、すぐさま首を刎ねられてしまう状況。
 絶体絶命以外の何物でもなかった。

「……クソッ、初めから、こうするつもりだったのか!? 小和水が呼び出されたのも、お前が……」
「ええ、そうですよ?」
 悪びれることなく、あっさりと犯行を認める黒幕。笑顔以外の表情がインプットされていないのかと思う程に、微笑みを絶やさないのが不気味だった。
 
「なのちゃんのお財布を、私が三年前の誕生日にプレゼントした思い出のお財布を抜き取って……このタイミングで職員室に届くように、手配しておきました。なのちゃんを騙すのは心苦しいですが……これも愛のため。愛に殉じるためですのでふふふふ」
「……狂ってる」
「誉め言葉です。狂える愛があるというのは、至上の悦びですので」

 あっけらかんと言い切る澪の表情は、やはり笑顔のままだ。底知れない闇の持ち主に戦慄しながらも、壊涙は自分のリミットが迫ってきているのを予感した。指先に力が入らないのだ。

 ――ぐっ、やべぇ……こうなったら、一か八か。

 幸い、縁に捕まっていない方の手には木刀を握ったままだ。何とかして不意を突ければ、まだ勝機はあるかもしれない。
 壊涙は覚悟を決めた。

 次澪が息継ぎしたタイミングで、死角から強烈な一撃をお見舞いしてやる。
 作戦を固め、一秒、二秒……さあ、ここだ!
 と動作を起こし始めた刹那。

 またしても校内放送が聞こえてきた。だが今度は、放送委員による形式的な物ではない。もっと乱暴で、ノイズと怒号が入り混じる剣呑な物だ。
 しばし二人は、争いを忘れて耳を傾けた。
 
 気のせいかもしれない。だが聞きなれた声が、愛してやまない声が聞こえた気がした。

『わー! なの、放送室に入るの初めて!』
「なのちゃん!?」
「小和水!?」

 スピーカーから聞こえてきた想い人の声に、二人のリアクションが重なった。職員室に呼び出したのは澪の作戦だが、今繰り広げられているこれは、想定にないものだ。
 できるだけ楽観的に解釈したいという心情を嘲笑うかのように、野卑な声がスピーカーを通して語り掛けてくる。

『おい、聞こえてるかぁ? 聞こえてんのか、紅蓮塚ぁ!』
「!!」

 野性的な呼びかけに、壊涙の鼓膜が震えた。この声の響きは、トーンは。かつて幾度となく耳にしてきた……手段を選ばない、復讐者の声だ。
 嫌な予感に、全身が総毛だつ。

 やめてくれ。何かの間違いであってくれ。
 そんな願いは、あっさりと裏切られる。

『てめぇの舎弟は預かった。コイツを傷物にされたくなけりゃぁ……今すぐ放送室に来いッ!』
『壊涙ちゃん来るの? 待っててくれてるの? わーい、やったやっへぶっ』
『お前は黙ってろチビ!!』

 危険の香り漂う放送は、そこでブツリと途切れた。終わりの挨拶も、余韻すら残さない。ただ、焦燥感と不安だけを影のように、二人の胸に落としていった。

「なのちゃん、なのちゃん……!」
 壊涙に構っている場合ではなくなり、膝をついて頭を抱える澪。

 期せずして戒めが解かれたため、壊涙はようやく這い上がった。だが今は脱出を喜ぶ状況ではない。
 
 なのが人質に取られてしまった。自分のせいで、なのが。
「クソッ!!」
 こういった事態は初めてではない。『紅蓮戦姫』の長を務めていた時には、日常茶飯事だった。それで痛い目を見たことも、幾度かある。
 だというのに、その失敗を活かすことができなかった。

 まんまと隙を見せ、想い人を危険に晒してしまった。壊涙は自分への怒りから、内頬を強く噛んだ。
 鉄の味が広がるが、それでは足りないとばかりに。

「ふんっ!」
 
 壊涙は自分の右頬に、拳を叩き込んだ。自慢の怪力を存分に発揮して、自分を痛めつける。そうでもしなければ、自らへの怒りで血管が千切れてしまいそうだったから。
 ジンジンと広がる痛みが、余計な思考を削ぎ落す。
 悩んでいる時間などない。やるべきことは、最初から一つだ。

「……助けにいかねえと」
 
 木刀を手に持ったまま、決戦の地へ赴こうとする壊涙の肩を、澪が掴んだ。
「……やめてください。貴女が行っても、事態を悪化させるだけです」
「……」
「何もしないでください。迷惑ですので」
 澪の声色には、こちらを見下すような調子は混じっていない。

「場所を指定され、おまけに敵の手には人質が……なのちゃんがいます。罠と策謀が張り巡らされたこの状況で……貴女にできることはありませんよ」
「そんなの……」
「私一人の罠にかかった貴女じゃ、足手まといって言ってるんですよ!!」
「……ッ」

 ただただ純粋に、計算の結果。
「ほんの少しの打ち合いですが、貴女の事は分かりました。真正面からの戦いには強いかもしれない……でも、搦め手にはめっぽう弱い。野生動物と同じなんですよ貴女は。後先考えず行動して、周囲を傷つけ破壊する……やはりそんな人を、なのちゃんに近づけたくありません。ましてやこの状況なら、なおさら」
 壊涙の存在が、なのの救出の妨げになると判断した。嘲りですらない。
 理屈の上で、壊涙の手出しは無用だと言っている。

「……」

 感情のままに反論する道を、壊涙は選ばなかった。澪の言葉が胸の古傷を深く抉り、鈍い痛みに唇を噛む。
 自分の暴力が、またしても仲間を危険に晒してしまった。
 こうした事態を二度と引き起こさないために、この世界から足を洗っていたというのに。

 一歩踏み入れた途端、かつてと同じ泥が足を掴んで離さない。
 お前のそれは血に塗れた拳なのだと。誰かを助けるための物ではないのだと、突きつけてくる。
 
「なのちゃんは、私が助け出します。貴女はそこで、じっとしていてください」
 それでも。横を通り過ぎようとする澪の腕を……思わず壊涙は、掴んでいた。

「何ですか。貴女に関わっている一分一秒が惜しいです。こうしている間にもなのちゃんは泣いているかもしれませ……」
「頼む!!」
「は……?」

 澪の目が、苛立ちから困惑の色へと変じた。突拍子もない壊涙の行動に、不意をつかれたためだろう。
 およそ彼女らしくない行動、前後の脈絡もないその行動が、脳に染みていかないのだ。

「頼む!!」
 壊涙はもう一度繰り返した……地面に額を擦りつけたままで。
 たった今陥れられた仇敵に、無防備に背中を晒している。
「な、何をしてるんですか……ふざけるのも大概にしてくださいよ」
「ふざけてねえよ……アタシはバカだから、これしか思いつかねえ……力を借りるには、頭下げる以外できねえんだよ!」
「力を借りるって……」
「頼む、時時雨!」

 泥まみれの顔を上げ、澪の両手に縋りつく。

「小和水を助け出すために、力を貸してくれ……お前の言うとおりだ。アタシ一人じゃ、アイツに怪我させちまうかもしんねー」
「だ、だったら初めから何もしないでくださいよ。私一人で……」
「それでも、アタシがけじめつけなきゃならねーんだ!」

 子を奪われた親ライオンのように獰猛に、しかし切ない声で叫んだ。

「ここで引き下がったら、ここで他人任せにしたら……結果がどうなっても、アタシは二度と小和水に顔向けできない」
「いいじゃないですか、消えてくださいよ。貴女なんかの傍にいたら、なのちゃんが危険に巻き込まれます」
「分かってる、自分勝手なのも分かってる、それでもアタシは……」

 壊涙は顔を俯けて、絞り出すような声で呟いた。

「アイツの、小和水の傍にいたい……離れたく、ないんだ」
 
 その呟きが届くなり、澪の握りこぶしは震え出した。心を打たれたためではない。激しい憤怒の感情が、思考を赤く染めたのだ。

「何を自分勝手な……! なんなんですか貴女は! 子供の駄々じゃないんですよ!? 傍にいたい、離れたくない? ただの友人に何をほざいて――」
「好きなんだよ!」
「……は?」

 またしても突拍子のない、動作不良を起こしたようなセリフ。それでも今度は明瞭な声で、澪の瞳を見返しながら続けた。

「ただのダチじゃねえ。アイツが、小和水の事が好きなんだよ、惚れてんだよ! だから、アタシが……! アタシの、手で……」
 
 立ち上がった壊涙の瞳には、もう弱気の気配はなかった。
 強い覚悟と鬼気が入り混じり、燃え盛っている。消えることのない、業火の如く。

「小和水の涙を、壊してやりたい……何があっても、守り抜きたい。じゃなきゃ小和水にも……アイツを好きになったアタシの心にも、胸を張れねえ」
「……ッ」

 壊涙の言葉に、理屈はない。内容だけ見れば、神経を逆撫でする類のものかもしれない。だが、その声色は真剣そのもの。
 目の前で耳にした澪だけは、その気迫を全身に浴びた澪だけは。
 彼女の言葉を無下にすることが、できなかった。

「……大嫌いです、貴女みたいな山猿。筋が通ってないのに、声だけ大きくて。自分の主張が必ず通ると思い込んでいる……はぁ」
 
 澪は大きく深く、溜息を零し。上品な顔に似つかわしくない舌打ちをした。

「いいですか。勝手な行動は慎んでください。作戦立案と合図は私が出します」
「お、おう!」
「時間がありませんし……紅蓮塚さん。捨て駒にされても、文句は言わないでくださいね?」

 澪にも、負い目はあったのだろう。恋敵を叩き潰すという後先考えない思考によって、なのの身が危険に晒されているという負い目が。
 いや、もしかすると一パーセントぐらいは、壊涙を信じようという気持ちがあったのかもしれない。それほどまでに、壊涙の闘志は強く濃く立ち昇っていた。

「上等だ。特攻だろうとリンチだろうと、ぶっ壊してやる」
「脳筋」
「何とでも言え。とにかく」
「ええ」

「行こうぜ」
「行きましょうか」

 打ち解けたとは、口が裂けても言えない。互いを認め合ったわけでもない。
 わだかまりを抱えつつも、それでも……今この一瞬だけは、二人の目的は一つだ。
 目指すは放送室。なのの奪還。

「ところで紅蓮塚さん」
「あ?」
「涙をぶっ壊す……とかなんとか、あれはどうなんでしょう。正直ダサいし、低能丸出しですよ」
「お前後で潰す」

 かくして、歪な共同戦線が開始された。

 +++++

 その頃、放送室。

「もぐもぐ、もぐもぐ」
「お前、よくこの状況で菓子つまめるな」
 
 ハムスターのように両頬いっぱいにキャラメルポップコーンを詰めているのは、やはり小和水なの。
 彼女は、自分の悩みどころか他人の悩みまで吹き飛ばしてしまいそうな、太陽の笑顔を浮かべて叫んだ。

「おいしーーーーーい!!」
「うるせぇ!」
「おいしー……い」
「囁くな!」

 コントのようなやり取りだが、なのを取り囲む状況は死と隣り合わせ。
 まず、なのは田中の太い腕で羽交い絞めにされている。逃げ場がなく、刃物を使わずとも腕力だけで首を折られかねない。

 また、放送室内には田中となの以外にも、昨日と一昨日ですっかりお馴染みの不良たちがギッシリだ。
 扉の左右に布陣しているため、扉を開いた瞬間即オダブツ。そんな危険極まりない死地である。

「いいかお前ら。アイツが来たら、躊躇はするなよ。即座に頭カチ割って、裸にひん剥いてやれ!」
『うっす!!』

 二日連続で失態を晒しているにも関わらず――初日の記憶は飛んでいるが――未だに慕われる田中は、中々のカリスマを持ち合わせているかもしれない。
 全員、死ぬまで田中に付いていく……そんな決意すら感じさせる連帯感だ。

 個としては貧弱かもしれないが、集団としてはかなりのレベル。
 近づいてはいけないそんな集団の巣窟に。

 コツ、コツ、コツ。

 近づいてくる足音が一つ。

「……来たか」

 因縁の相手、紅蓮塚壊涙が現れたに違いない。田中の脳内では、彼女を血祭りにあげるシミュレーションが行われ始めていた……のだが。

「ごめんくださーい。用事があるのですが、入ってもよろしいでしょうか?」
 
 聞こえてきたのは、壊涙とは似ても似つかない穏やかな声。
 取り巻きたちがざわつく中、田中だけは落ち着き払った様子だ。

「……開けてやれ」
「!? でも……」
「いいから開けろ」
「っ……はい!」

 田中の指示で、取り巻きの一人が『入れ』と呼びかける。当然、皆警戒は怠っていない。獲物を構え、目をぎらつかせている。
 そして、扉が音を立てて開かれた。

「おじゃまします」
「あ! 澪ちゃん! 迎えに来てくれたの?」
 
 真っ先に反応したのは、なの。彼女の発言で、無関係の人物である線は消えた。

 ――なんだ、コイツ。このチビを助けに来たのか? だがたった一人で……強そうにも見えねえが……いや、油断はするな田中よ。

「友人を迎えに来ました。いいですよね? なのちゃん連れて帰っても」
「ダメだ。お前ら」

 田中が指を鳴らすと、取り巻きたちが一斉に澪を包囲した。四人全員が、手に銃を持っている。
 勿論、本物ではない。エアガンだ。ただし違法スレスレの改造をしているため、直撃すれば痛いでは済まないが。

「あら。随分と手厚い歓迎ですね、先輩方。これがこの学校流の挨拶ですか?」

 笑顔でそんなことを言ってのける目の前の少女は、何かおかしい。
 田中の第六感が、警告音を発している。

 ――紅蓮塚がいつ来るかもわからねえ。ここは……。

「おい、お前。悪いが今、このチビとパーティしてるとこなんだ。部外者は回れ右してくれるか?」
「……そうなんですか?」
「そうだよ! あのね、えとね、田中ちゃんがポップコーンくれたの!」
 見え透いた嘘になぜかなのが乗っかってきたが、無視した。

「つーわけでウチらは仲良しなんだよ。な? だから帰れよ」
 声に含ませる威圧感の度合いを、徐々に濃くしていく。並の者ならば、巨躯の田中に凄まれた時点で腰を抜かしているだろう。
 だがしかし、澪は。

「それはそれは結構なことです。では、私も混ぜてもらえますか?」

 悠々と歩き始めた。自宅の庭を闊歩するような気軽さで、堂々と。
 ともすれば見逃してしまいそうになる自然な所作だが、
「止まれ!」
 田中は見逃さず、またしても指を打ち鳴らした。

 その合図に続き、パン、パン、と空気を劈く音が響いた。

「あら……」
「澪ちゃん!? 血が……むぐっ、んー!!」

 澪の右頬から、一筋の血が滲む。取り巻きが放った銃弾が、皮膚を掠めていったのだろう。掠っただけで流血してしまう、邪悪な暴力の塊。
 親友の血の色を見て騒ぎ出したなのの口を、田中の大きな手が塞いだ。
 
「今外したのはわざとだ」

 威嚇目的での発砲だと言いたいのだろう。その割には掠ってしまっているが……直撃していればこんな軽傷では済んでいないと考えると、その言葉は脅しでも何でもない。

「いいか、両手を上げろ。両手を上げて、一歩ずつ下がれ……そして、ここから消えろ」
「……」

 田中の指示通り、澪は両手を上げていく。ただ手を上げる、それだけの動作だというのに。
 何千回と繰り返してきたような、洗練された美しさを感じる。
 それもそのはず。
 澪にとっては、最早呼吸にも等しい動作なのだから。

「申し訳ございません、先輩方」
『え』

 銀色の風が、迸った。油断していたわけではない。瞬きすらしていない。だというのに、取り巻き四人の身体が傾いでいき、ほぼ同時に地面に倒れ伏した。ピクリとも動かない――気絶している様子だ。
 
 それを成したのは、双剣を携えし少女。
「少し眠っていてもらえると助かります」
「――ッ!!」
 時時雨澪だった。無害そうな見た目とは裏腹に、鮮やかな手口で上級生をのしてしまった。

 手下をいくつか失い、田中の頬を冷や汗が伝う。タイマンだったならば、勝ち目はない。それほど隔絶した実力差が、澪と田中の間には横たわっている。
 それを自覚するが早いか、田中は即座に正々堂々を捨てた。

「動くな! 動けば……コイツの首をへし折るぞ!」
「ふぎゅぅぅっ」
 なのの弱弱しい首筋に、幹のような右腕が巻き付く。

「なのちゃん!!」
「動くなっつってんだろ!」

 澪や壊涙と違い、なのは普通の少女だ。羽交い絞めにされた状態から、脱出する手段はない。田中がその気になれば、造作もなく首を手折られてしまうだろう。そう直感したからこそ、澪は動けない。
 風のような速度で一閃すれば、あるいは無傷で助け出すことができるかもしれない。だが万が一のことがあれば。
 例え億分の一だろうと、なのに危害が及ぶ可能性があるならば、澪が動くことはない。

 それを確信したのか、田中の唇が醜悪に引き歪んだ。
「剣を捨てろ」
「……はい」
 致命的な弱体化にも関わらず、澪は愛刀を迷わず床に転がした。カラン、と渇いた音が響くのが、何とも物悲しい。

 これで澪は丸腰。四人倒したとはいえ、田中を含めてあと四名の不良が残っている。エアガンの銃口を向けられた状態では、如何に剣豪の澪とはいえ、打開するのは不可能。

 じりじりと、エアガンを持った三名が澪ににじり寄る。それを背後で眺めながら、田中はご満悦の様子だ。
「あんまり好きなやり方じゃねーが、人質の効果ってのはすげーな! このチビがここにいる限り、あの紅蓮塚だろうが……恐れるに足りない!」
 勝利を確信して、大口を開けて笑い出す。
 取り巻きも追従して、笑声を上げる。

 勝敗が決して、どこか緩んだ空気に合わせるように。
「先輩方、私には得意なことが一つありまして」
 澪も呑気な声音で語り始めた。

 上級生は訝しく思いながらも、言葉を遮る真似はしなかった。迫る身の危険を前に、気が狂っているのだと解釈したらしい。
 澪は胡散臭い笑顔を貼り付けながら、語る。
「多少ではありますが、工作を嗜んでおります。丁度ここにも……私の作品がいくつかございますので、ご覧に入れましょう」
「は? 何言って……」

 挟まれる言葉を無視して、愉快気に澪は手を掲げた。

「大丈夫ですよ。安心安全ですから」

 そして大胆不敵に、指を打ち鳴らした。直後。

 ドゴッ、ボンッ、バゴォッ!!!

『!!?』

 放送室内に、所狭しと爆発音が鳴り響く。それは比喩などではなく、実際に……爆弾が爆発する音だった。
 蛍光灯が割れ、マイクや資料が床に散らばる、阿鼻叫喚の地獄絵図。

「ふふふふ」
「ッ……てめぇ!!」

 その絵図を描いたのは、丸腰の少女……時時雨澪だ。彼女はなのを守るため、この学校のどこが戦場になってもいいように……ありとあらゆる場所に、爆弾やワイヤートラップを仕掛けておいたのだ。
 壊涙が先ほど引っ掛かった落とし穴も、その一つである。

 理科の授業でも作成してみせた手軽な爆弾で、不良たちはパニックを引き起こしている。幸い引火はしていないが、澪の気まぐれ次第で何をされてもおかしくはない。

 そう理解した取り巻きたちは、
「ひっ……ひぃぃ……!」
 腰を抜かして、へたり込んだ。鬼でも見るような目で澪を見つめ、道を開け放ってしまった。

 形成逆転。そんな様子に見えるが。
「ふ、ふん! だからどうした! 動くな、動いたら折るぞ!」
「いた、いたいよぉ……!」
 未だなのは、敵の手中。

 田中の周囲にも爆弾は仕掛けてあるが、なのを巻き込んでしまうことを考えると迂闊には使えない。
「……失礼しました。少しおふざけが過ぎましたね」
 今度こそ澪は両手を上げ、抵抗を辞めた。

 腰を抜かしていた取り巻きたちは、何とか立ち上がり、三人がかりで澪を拘束。剣もない、腕一本動かせない。
 そんな絶体絶命の澪を前にして、田中は。

「随分と舐めた真似してくれたな、ああ?」
「へぶっ!」
 なのから乱暴に手を離し、澪の目の前へ躍り出た。どうやら、最後は自分で手を下すつもりらしい。
 まともに戦えば、澪の方が格段に強者。しかし、馬力においては敵が圧倒的に上。

 つまり、無抵抗な今の状態では、澪の命は風前の灯火というに相応しい。
「あばよ、イカレ女……!」
 田中の剛腕が大きく振り上げられた。澪は覚悟をして目を閉じる……のではなく、
「ふふっ」
 不敵に笑んだ。

 そして、忌々しい宿敵の名を。姿の見えない恋敵の名を呼ぶ。
「紅蓮塚さん……出番ですよ」
「死ねぇぇぇ!!!」
 澪の呟きは、田中の耳には届かない。

 しかし。彼女には届いた。
 イヤホンに澪からの指示が届くのを待っていた、彼女には。
 そして、事態は大きく動き出す。

 ガシャァァアン!! けたたましい破砕音が、田中の背後から鳴り響いた。  
 同時に、
「ガァァァアアアアアアア!!」
 獣じみた声が聞こえてきて。しかも刻一刻と近づいてくる……田中の後頭部を、静電気のような気配が伝い。

「ぐふっ!?」
 クリーンヒット! 脳震盪を起こしかねない勢いで、後頭部を襲ったのは……綺麗に左右揃えられた、靴の裏だった。
 すなわち、ドロップキック。

 屋上から命綱なしで飛び降り、窓枠を懸垂の要領で握って、振り子のように勢いを付けて……地上三階でのドロップキックを実現させた、まさに暴力の申し子。
 鬼神さながらに紅蓮の目を滾らせている彼女は、
「壊涙ちゃん!」
 紅蓮塚壊涙。紅蓮童子の異名を持つ、怪力無双の少女。

 壊涙はすぐさまなのを助け起こし、無傷を確認すると。
「てめぇら……覚悟はできてんだろうな?」
 拳を鳴らして、周囲を睥睨した。

 冷気のように肌を刺す殺気に、澪を拘束している取り巻きたちがぶるりと身震いした。
 だが、ギリギリ理性は残っているのだろう。
「う、動くな! こっちにはまだ人質がいる!」
 澪のこめかみに銃口を突きつけ、凄んでみせた。涙目のためかなり滑稽なのだが、勇気を振り絞った彼女を責めないであげてほしい。
 それに人質が取られているのは事実だ。

 壊涙はどうするのかというと。
「あー、そいつがどうなろうと知ったこっちゃねーが……見捨てるのも寝覚めが悪いな」
 両手を上げて、降参の意を示した。

 ホッ、と取り巻きたちが胸を撫でおろしたのも束の間。
「ぐぇっ」
「へぶっ」
「ふぁっ」 
 鋭い風切り音が通り過ぎて、ピンボールのように、跳弾のように跳ね返って。
 ギャグのようにあっけなく、三人はノックアウトされてしまった。

 自然現象によるものでも、病気によるものでもない。
「おう、勘鈍ってなくてよかった。靴飛ばしなんて、久々にやったぜ」
 壊涙が足を振り、上履きを勢いよく飛ばしたのだ。ただの靴ですら、壊涙の膂力をもってすれば銃弾と化す。
 デタラメなやり方だが、上げた両手に敵の視線を誘導してからの足による攻撃だという点を忘れてはならない。
 卓抜した戦闘センス、紅蓮童子の本領だ。

 自由になった澪は、床に落ちた愛刀を拾いつつ。
 壊涙は飛ばした靴を履きなおしながら、言い放った。

「さてと、これで残りは」
「あと一人、ですね」

 二人は並んで立ち、事件の首魁を……木刀真剣の田中を睨み据えた。

「ぐ、ぅぅ、ぐっ……」

 蛇に睨まれた蛙という表現があるが、それよりも数十倍危うい状況に、田中はいる。綱渡りのロープに、両側から火を放たれているような。
 崖っぷちの極限状態に追い込まれた、手負いの獣は。

「舐めんじゃねえぞぉぉ!!」

 怖気をねじ伏せ、肺の空気全てを絞り出して叫んだ。幾多の戦場を共に切り抜けてきた木刀を、全身の筋肉を総動員して唸らせる。
 それは皮肉にも田中史上、最大威力の斬撃だった。

 だが。

 木刀は虚しく、空を切った。ターゲット二人の姿は、残像すら残さず消え果て。

「ぐっ……ふ」

 続けざまに、衝撃が腹部を襲う。流麗な動作で振るわれた逆刃刀の二太刀。
 そして奇しくも自分と同じ木刀という得物で見舞われた、埒外の破壊力。

 そのまま身体が真っ二つに裂けるのではないかという程の威力に吐き気を催し、そして田中の巨体は。
 しばらくぐらついた後、顔面から倒れた。

『……』

 壊涙と澪は、互いに顔を見合わせすらしないまま、剣と剣を合わせて……疑似的なハイタッチを交わした。
 人質を取られていたとは思えない程の完全勝利を引き寄せるには、どちらか片方だけでは足りなかった。
 二人の共闘あってこその、理想的な結果だ。口に出して認めこそしないが、二人ともそれは理解している。

「澪ちゃん! 壊涙ちゃん!」
「小和水!」
「なのちゃん!」

 張りつめた空気が緩んだのを見計らい、なのがこちらに駆け寄ってくる。澪と壊涙の顔を順番に見つめた後、ある箇所で視線を止めた。
 掠り傷により鮮血滴る、澪の頬である。

「澪ちゃん、痛いよね? こんな、真っ赤っかな血が出て……」
「大丈夫ですよ、掠り傷ですから」

 なのの目線までしゃがみ込んだ澪、その頬を、可愛らしい手のひらが撫ぜた。そこまでは、壊涙も見逃すラインのスキンシップだったのだが。

「そうだ! 舐めれば治るの早くなるって聞いたことある! だから……ぺろっ」
『~~゛~~゛!???』
 生温い感触が、澪の頬に触れた。恐る恐る、謎の物体が触れた箇所に指を添えると。僅かに湿り気を帯びていた。

「えへへ、なのが舐めちゃった!」
「な、ななな、なのちゃ……なのちゃっ……ふぎゅぅぅ」
「澪ちゃん!?」

 頬とは言え、無自覚とはいえ。これはキス。愛してやまない少女から施された、予想だにしない戦利品で致命傷を負ったのか――澪はバタリと倒れてしまった。その顔は、血よりも赤い色に染まって。

「え、え~? 澪ちゃん、やっぱり大怪我だったの? 救急車呼ばなきゃ!?」
「小和水」
「ふにゅ? って、ええ!?」

 呼びかけられた振り返ると、プリン髪の少女が腕を組んで立っていた。しかし、先ほどまでと決定的に違うのは。

「か、壊涙ちゃん!? ほっぺから滅茶苦茶血が出てるよ!?」
「ああ、転んでぶつけた」
「なのが目を離した隙に!?」

 澪に負けじと頬から鮮血を滴らせているところだ。しかも、壊涙の指先からはポタポタと血が垂れている。自傷行為なのは一目瞭然。
 珍しくなのがツッコミに回ってしまう程ツッコミどころ満載である。

「あーあー、このままじゃ傷口が化膿して、死ぬかもしれねーな」
「そんな!? 大変! じゃあなのが舐めて……」

 作戦の成功を確信して、壊涙の頬が緩み始めた。しかし、そうは問屋が卸さない。

「あっ、でも澪ちゃん、なのが舐めた後に倒れちゃったから……なののベロに毒が!? 危ないかも!?」
「え、小和水、多分大丈夫だって。な? な?」
「万が一を舐めちゃダメだよぉ!!」

 万が一は舐めないけど、頬は舐めてほしい。そんな下心をストレートに伝えることなど、壊涙に出来るはずもなく。
 
「……そう、だな。絆創膏でも貼っとくわ」
 素直に諦めることにした。なのからの接吻を受けた澪に内心嫉妬しつつも、同じことをせがんで関係性を壊す勇気はない。
 故にしぶしぶ諦めていたのだが。

「あ、なの今日は絆創膏持ってきたよ! 貼ってあげるねっ」
「あ……」
 絆創膏を貼るため。甘酸っぱい目的などではない。しかし、結果としてなのの顔が自分の目の前に来た。
 
 エンジン全開で高鳴る鼓動。怒りとは別の感情で沸騰する血液。クライマックスを超えて高鳴り続けた壊涙のボルテージは。

 ぴとっ。

 小さな指先が触れる感触で、完全に決壊した。
「ぐっふ……」
「壊涙ちゃん!?」
 首筋に手刀でも喰らったかのように、壊涙は気を失ってしまった。

「えええ? ちょ、二人とも!? 起きてよ、ここはおうちのベッドじゃないんだよ!?」
 なの奪還作戦は、無事に成功。戦利品は、キスと絆創膏。
 リスクに見合わない小さなリターンだが。

「ふぇぇ、なの一人じゃ運べないよ、起きてよ~~!」

 二人の寝顔もとい死に顔は、それはそれは安らかな物だったという。
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