秘密はいつもティーカップの向こう側 ―SNACK SNAP―

天月りん

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赤い果実の気配

 ふと。甘味と酸味の効いた濃い香りが鼻を掠め、亜嵐はキーボードを打つ手を止めた。

(今夜も、か)

 階下のティーハウスは、既に今日の営業を終えている。
 翠が仕込みのために遅くまで残るのはいつものことだが、この時期は決まってこの香りが伴う。

 イチゴが煮詰まる香気――ジャムである。

 契約農家から届けられる、形や大きさが不揃いのキズものイチゴ。旬が終わりに近づくと、その頻度と量は一気に増える。
 正規品のイチゴはデザートの飾り付けに使われるが、キズものは全てジャムに加工される。ヴィクトリア・サンドウィッチやスコーンに欠かせないだけでなく、ジャムそのものを買い求める常連客も、実は少なくない。

(色といい味といい、翠さんのジャムは絶品だからな)

 先週末は、湊もジャム作りに参加した。料理上手な彼もジャムを手作りするのだが、なかなか翠の域には到達できないらしい。

「しっかり学ばせてもらいます!」
「あらあら。やってることは藤宮くんと同じだと思うわよ?」

 翠はそう言ったが、ローズメリーを後にする湊が「目からウロコ、目からウロコ……」と呟いていたので、彼女のジャム作りにはやはり奥義があるようだ。

(……ふむ。それを記事にするのも面白そうだな)

 灯台下暗しとは、まさにこのこと。興味深い取材相手がこんなにも近くにいたなんて。
 さて、どう切り出すべきか――あの女性は一筋縄ではいかない。
 それを考えて、亜嵐は少しだけ肩を竦めた。

 ***

 一日にどれくらいのジャムが必要か、大体の目安は把握している。この店を始めて十五年も経つのだ、それくらいは当然だ。
 イチゴの季節が終わりに近づくと、いよいよジャム作りも大詰めだ。どんどん作って余剰ができると、それは冷凍庫行きとなる。

「それでも、もって六月中旬くらいまでなのよね」

 昨年。この店に湊がやってきたまさにその日に、ジャムはイチゴからラズベリーへ切り替わった。翠はそれが悔しくて仕方なかった。

(最高に美味しいジャムで、亜嵐さんを援護したかったのに)

 心を許せる相手をなかなか見つけられなかった、美しく寂しい男。彼の隣を歩いてくれる人が現われることを、翠はずっと願っていた。
 だからあの日、翠は大いに期待したのだ。
 それが今や、ジャム作りを手伝ってくれるまでになった。

(ふふっ、亜嵐さんったら。楽しそうな顔をして見てるんだから)

 理論は完璧なのに実技はからっきしの男は、決して手を出さない。翠と湊がイチゴと砂糖を煮詰める様子を、ただ嬉しそうに眺めていた。
 その表情はとても穏やかで、それを見た翠の心は、まるで白いイチゴの花が咲き乱れるように浮き立った。
 花はやがて実になり、真っ赤に熟すだろう。
 彼らの歩く未来を、翠は今日も夢見ている。

 ***

 焼き立てのトーストにイチゴジャムをたっぷりと乗せると、湊は大きな口を開けて頬張った。

(うわ~!やっぱり翠さんのジャムは極上だ!)

 思わず頬を押さえる。本当に落ちることはないけれど、落ちてもおかしくないとつい思ってしまうのだ。

 先週末は『お手伝い』という大義名分を得て、作業に参加することができた。
 些細なひと手間だった。でもそれが、あんなに出来上がりに差を生むなんて――。
 湊はまたひとつ、食の神髄を学んだ。

 それにしても。
 あの雨降る日の、たった一度の相席によって、見える世界は一変した。ただ大きく広がっただけではない。思考も経験も、全てが成熟していくのを湊は感じている。

(それこそ完熟イチゴが煮詰まって、ジャムになるみたいに……)

 翠のジャムからは、花の香りがする。加工前の果実をひとつ食べさせてもらったが、スーパーに並ぶそれとは桁違いに味も香りも強かった。
 翠の魔法は、腕だけではなかった。技術もだが、素材も同じくらい大事なのだと、湊は改めて実感した。

 そこでふと思い出した。亜嵐が自分のことを、「君はまだ素材だ」と言ったことを。
 その通りだと思う。何といっても自分は学生の身だし、何をどう学び何者になるかなんて未知の状態だ。でもだからこそ、誰にどう影響を受けるかが、とても大切になる。

「亜嵐さんも翠さんも、俺にとってこれ以上ない師匠だよな、うん。」

 二人の導きを得て、自分自身を料理していく。その先に待っている未来は――。

「絶対に、美味しいものにしてみせる」

 それにしても美味い。口につられるように、湊は食パンにかぶりついた。
 それから唇に付いたジャムをぺろりと舐めとって、最高の笑みを浮かべた。

 秘密はいつもティーカップの向こう側 SNACK SNAP
 赤い果実の気配 / 完

 

 
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みんなの感想(1件)

トッコ
2026.01.05 トッコ

美緒ちゃんが読む内容にいちいちがっかりする亜嵐さんがかわいいです!
湊くんと一緒にお出かけできてよかったですね🤗

2026.01.05 天月りん

トッコさん
コメントありがとうございます
湊に誘われて、亜嵐はご機嫌になりましたねw
どんなチョコレートを買ってくるのか、ショコラトリーでも浮かれそうです
読んでくださって、ありがとうございました

天月りん
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