文字サイズ
小
中
大
特大
19 / 19
赤い果実の気配
ふと。甘味と酸味の効いた濃い香りが鼻を掠め、亜嵐はキーボードを打つ手を止めた。
(今夜も、か)
階下のティーハウスは、既に今日の営業を終えている。
翠が仕込みのために遅くまで残るのはいつものことだが、この時期は決まってこの香りが伴う。
イチゴが煮詰まる香気――ジャムである。
契約農家から届けられる、形や大きさが不揃いのキズものイチゴ。旬が終わりに近づくと、その頻度と量は一気に増える。
正規品のイチゴはデザートの飾り付けに使われるが、キズものは全てジャムに加工される。ヴィクトリア・サンドウィッチやスコーンに欠かせないだけでなく、ジャムそのものを買い求める常連客も、実は少なくない。
(色といい味といい、翠さんのジャムは絶品だからな)
先週末は、湊もジャム作りに参加した。料理上手な彼もジャムを手作りするのだが、なかなか翠の域には到達できないらしい。
「しっかり学ばせてもらいます!」
「あらあら。やってることは藤宮くんと同じだと思うわよ?」
翠はそう言ったが、ローズメリーを後にする湊が「目からウロコ、目からウロコ……」と呟いていたので、彼女のジャム作りにはやはり奥義があるようだ。
(……ふむ。それを記事にするのも面白そうだな)
灯台下暗しとは、まさにこのこと。興味深い取材相手がこんなにも近くにいたなんて。
さて、どう切り出すべきか――あの女性は一筋縄ではいかない。
それを考えて、亜嵐は少しだけ肩を竦めた。
***
一日にどれくらいのジャムが必要か、大体の目安は把握している。この店を始めて十五年も経つのだ、それくらいは当然だ。
イチゴの季節が終わりに近づくと、いよいよジャム作りも大詰めだ。どんどん作って余剰ができると、それは冷凍庫行きとなる。
「それでも、もって六月中旬くらいまでなのよね」
昨年。この店に湊がやってきたまさにその日に、ジャムはイチゴからラズベリーへ切り替わった。翠はそれが悔しくて仕方なかった。
(最高に美味しいジャムで、亜嵐さんを援護したかったのに)
心を許せる相手をなかなか見つけられなかった、美しく寂しい男。彼の隣を歩いてくれる人が現われることを、翠はずっと願っていた。
だからあの日、翠は大いに期待したのだ。
それが今や、ジャム作りを手伝ってくれるまでになった。
(ふふっ、亜嵐さんったら。楽しそうな顔をして見てるんだから)
理論は完璧なのに実技はからっきしの男は、決して手を出さない。翠と湊がイチゴと砂糖を煮詰める様子を、ただ嬉しそうに眺めていた。
その表情はとても穏やかで、それを見た翠の心は、まるで白いイチゴの花が咲き乱れるように浮き立った。
花はやがて実になり、真っ赤に熟すだろう。
彼らの歩く未来を、翠は今日も夢見ている。
***
焼き立てのトーストにイチゴジャムをたっぷりと乗せると、湊は大きな口を開けて頬張った。
(うわ~!やっぱり翠さんのジャムは極上だ!)
思わず頬を押さえる。本当に落ちることはないけれど、落ちてもおかしくないとつい思ってしまうのだ。
先週末は『お手伝い』という大義名分を得て、作業に参加することができた。
些細なひと手間だった。でもそれが、あんなに出来上がりに差を生むなんて――。
湊はまたひとつ、食の神髄を学んだ。
それにしても。
あの雨降る日の、たった一度の相席によって、見える世界は一変した。ただ大きく広がっただけではない。思考も経験も、全てが成熟していくのを湊は感じている。
(それこそ完熟イチゴが煮詰まって、ジャムになるみたいに……)
翠のジャムからは、花の香りがする。加工前の果実をひとつ食べさせてもらったが、スーパーに並ぶそれとは桁違いに味も香りも強かった。
翠の魔法は、腕だけではなかった。技術もだが、素材も同じくらい大事なのだと、湊は改めて実感した。
そこでふと思い出した。亜嵐が自分のことを、「君はまだ素材だ」と言ったことを。
その通りだと思う。何といっても自分は学生の身だし、何をどう学び何者になるかなんて未知の状態だ。でもだからこそ、誰にどう影響を受けるかが、とても大切になる。
「亜嵐さんも翠さんも、俺にとってこれ以上ない師匠だよな、うん。」
二人の導きを得て、自分自身を料理していく。その先に待っている未来は――。
「絶対に、美味しいものにしてみせる」
それにしても美味い。口につられるように、湊は食パンにかぶりついた。
それから唇に付いたジャムをぺろりと舐めとって、最高の笑みを浮かべた。
秘密はいつもティーカップの向こう側 SNACK SNAP
赤い果実の気配 / 完
(今夜も、か)
階下のティーハウスは、既に今日の営業を終えている。
翠が仕込みのために遅くまで残るのはいつものことだが、この時期は決まってこの香りが伴う。
イチゴが煮詰まる香気――ジャムである。
契約農家から届けられる、形や大きさが不揃いのキズものイチゴ。旬が終わりに近づくと、その頻度と量は一気に増える。
正規品のイチゴはデザートの飾り付けに使われるが、キズものは全てジャムに加工される。ヴィクトリア・サンドウィッチやスコーンに欠かせないだけでなく、ジャムそのものを買い求める常連客も、実は少なくない。
(色といい味といい、翠さんのジャムは絶品だからな)
先週末は、湊もジャム作りに参加した。料理上手な彼もジャムを手作りするのだが、なかなか翠の域には到達できないらしい。
「しっかり学ばせてもらいます!」
「あらあら。やってることは藤宮くんと同じだと思うわよ?」
翠はそう言ったが、ローズメリーを後にする湊が「目からウロコ、目からウロコ……」と呟いていたので、彼女のジャム作りにはやはり奥義があるようだ。
(……ふむ。それを記事にするのも面白そうだな)
灯台下暗しとは、まさにこのこと。興味深い取材相手がこんなにも近くにいたなんて。
さて、どう切り出すべきか――あの女性は一筋縄ではいかない。
それを考えて、亜嵐は少しだけ肩を竦めた。
***
一日にどれくらいのジャムが必要か、大体の目安は把握している。この店を始めて十五年も経つのだ、それくらいは当然だ。
イチゴの季節が終わりに近づくと、いよいよジャム作りも大詰めだ。どんどん作って余剰ができると、それは冷凍庫行きとなる。
「それでも、もって六月中旬くらいまでなのよね」
昨年。この店に湊がやってきたまさにその日に、ジャムはイチゴからラズベリーへ切り替わった。翠はそれが悔しくて仕方なかった。
(最高に美味しいジャムで、亜嵐さんを援護したかったのに)
心を許せる相手をなかなか見つけられなかった、美しく寂しい男。彼の隣を歩いてくれる人が現われることを、翠はずっと願っていた。
だからあの日、翠は大いに期待したのだ。
それが今や、ジャム作りを手伝ってくれるまでになった。
(ふふっ、亜嵐さんったら。楽しそうな顔をして見てるんだから)
理論は完璧なのに実技はからっきしの男は、決して手を出さない。翠と湊がイチゴと砂糖を煮詰める様子を、ただ嬉しそうに眺めていた。
その表情はとても穏やかで、それを見た翠の心は、まるで白いイチゴの花が咲き乱れるように浮き立った。
花はやがて実になり、真っ赤に熟すだろう。
彼らの歩く未来を、翠は今日も夢見ている。
***
焼き立てのトーストにイチゴジャムをたっぷりと乗せると、湊は大きな口を開けて頬張った。
(うわ~!やっぱり翠さんのジャムは極上だ!)
思わず頬を押さえる。本当に落ちることはないけれど、落ちてもおかしくないとつい思ってしまうのだ。
先週末は『お手伝い』という大義名分を得て、作業に参加することができた。
些細なひと手間だった。でもそれが、あんなに出来上がりに差を生むなんて――。
湊はまたひとつ、食の神髄を学んだ。
それにしても。
あの雨降る日の、たった一度の相席によって、見える世界は一変した。ただ大きく広がっただけではない。思考も経験も、全てが成熟していくのを湊は感じている。
(それこそ完熟イチゴが煮詰まって、ジャムになるみたいに……)
翠のジャムからは、花の香りがする。加工前の果実をひとつ食べさせてもらったが、スーパーに並ぶそれとは桁違いに味も香りも強かった。
翠の魔法は、腕だけではなかった。技術もだが、素材も同じくらい大事なのだと、湊は改めて実感した。
そこでふと思い出した。亜嵐が自分のことを、「君はまだ素材だ」と言ったことを。
その通りだと思う。何といっても自分は学生の身だし、何をどう学び何者になるかなんて未知の状態だ。でもだからこそ、誰にどう影響を受けるかが、とても大切になる。
「亜嵐さんも翠さんも、俺にとってこれ以上ない師匠だよな、うん。」
二人の導きを得て、自分自身を料理していく。その先に待っている未来は――。
「絶対に、美味しいものにしてみせる」
それにしても美味い。口につられるように、湊は食パンにかぶりついた。
それから唇に付いたジャムをぺろりと舐めとって、最高の笑みを浮かべた。
秘密はいつもティーカップの向こう側 SNACK SNAP
赤い果実の気配 / 完
感想 1
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
あの日の少年は、私を離さない
裏通りで小さな質屋を営むオリヴィアは、三十三歳。
品物の値打ちなら一目で見抜けるのに、自分の値打ちだけは、ずっと安く見積もってきた。
両親を亡くした自分を置いてくれた大家一家に「恩」を返すため、頼まれれば店を閉め、墓参りさえ諦める。それが当たり前の毎日だった。
そんなある日、ひとりの青年が金の懐中時計を質に入れにやってくる。
八つも年下で、口が軽くて、やけに馴れ馴れしい。なのに彼は、まっすぐな目でこう言った。
「俺、あなたが欲しい」
からかわれているだけ。そう思うのに、彼は毎日やってきて、誰も気づかなかったオリヴィアの望みを、ひとつずつ拾い上げていく。
「十三年も待ったんだから」
そう言う彼は、何者なのか。
尽くすことしか知らなかった女性が、自分の価値と人生を取り戻す物語。
年下ヒーローの、一途すぎる想いを添えて。
全十話(本編九話+エピローグ)/完結済み
「白い結婚だから息子は独身同然」ですか? お義母様、私たちまだ離縁しておりませんが
夫の再婚相手を募集する招待状が届いた。――差出人は義母。ちなみに、私はまだ妻である。
白い結婚を理由に、勝手に夫の再婚話を進める義母。
ところが調べてみると、令嬢たちから多額の準備金を集めていたことが発覚!
冷静で芯の強い妻クラリスと、実は妻を溺愛している公爵レオン。
夫婦で義母の企みを暴く、痛快ざまぁ&じれ甘異世界恋愛。
眉間にシワ令嬢の婚約破棄までの72時間――策士王子に搦め捕られるまで
「そんなに眉間にシワを寄せたら、美人が台無しだよ?」
義妹に夢中な婚約者・アルベールの身勝手さに耐え、いつも眉間にシワを寄せている侯爵令嬢のローゼ。
婚約者としての義務を果たそうと、健気に我慢を重ねる彼女の前に現れたのは、隣国のちょっとチャラい第二王子・ライアスだった。
「君が選びさえすれば、別の未来もある」
そのライアスの言葉に、ローゼの心が揺らぐ。
そして迎えた学園の卒業パーティーで――!?
眉間にシワの堅物令嬢が、チャラ系策士王子に搦め捕られていくまでのカウントダウン!
全8話
皇太子殿下の毒見役になったはずが、毎日食卓に並ぶのは私の好物ばかりです ~殿下が自ら厨房に立つ理由は、偶然ではないそうです~
「今日から、私の食事は私が作る。私が作れば、毒見は要らない」
皇太子付きの毒見役になった子爵令嬢ニーナの前で、氷の皇太子ヴィクトールはなぜか厨房に立ち始めた。
しょっぱすぎるスープから始まった殿下の料理は、日に日に上達していき――気づけば食卓は、ニーナの好物ばかり。
「君が、おいしいと思ったときの顔を、ずっと探していた」
※この作品は、外部サイトでも掲載しております。
専業主婦十年、夫と息子に「何もしてない」と言われたので、自分の名前で稼ぐことにした
「お母さん、何もしてないじゃん」
小学四年生の息子に言われた。翌朝、夫も言った。そっちは家にいるだけだろ、と。
専業主婦十年。渡される生活費は白い封筒の月3万円。家の通帳は見たこともない。
期限切れのファンデーションを塗り、フォロワー48人のアカウントに写真を上げた。「ダメ出しお願いします」。止まらない通知の中に、短い返信が一つ。
――ひとつずつでいいよ。
早朝の新聞配達に、時給1200円の品出し。夜は簿記の参考書を開いた。額面22万円の雇用条件通知書。初めてのPR案件は、2万5千円。
その秋、夫が昼に誰と会っているかを知った。離婚届は12月24日。
一年後、私の会社の月商は500万円、フォロワーは200万人。港区のタワーマンションの鍵は、私の名前で受け取った。
「家にいるだけだろ」と言った人が、その数字を口にする番が来る。
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
全9話。
孤児院育ちと冷遇されてきた洗濯婦ですが、黒虎の王様が十八年探し続けた「死んだはずの番」だったようです
赤子のころ川辺に捨てられ、孤児院で育ったアンナ。
孤児院育ちというだけで冷遇され、洗濯場で酷使されても、ほかに雇ってくれる場所はない。誰かが迎えに来るなんて夢は、とうに捨てていた。
十八歳の誕生日、手首に謎の痣が浮かんだ翌日――雨の洗濯場に、黒虎の獣人が現れる。
ぬかるみに膝をついた彼は、震える声で告げた。
「十八年、遅くなった。……迎えに来た、エリシア」
彼は獣人国の王イグナーツ。十八年前に攫われ、死んだとされた番を、ただひとり諦めずに探し続けていたという。
人違いだと首を振るアンナ。けれど、二つの銀の鈴が鳴った瞬間、すべてが動き出して――。
※この作品は、外部サイトでも掲載しております。
【完結】毎夜、幼馴染の元へ通う夫へ。完璧な妻の仮面は返上いたします
【祝】HOTランキングランクイン!たくさんの応援ありがとうございます!
社交界で「理想の夫婦」と称えられるグランヴェル伯爵夫妻。だが実態は、毎夜幼馴染の愛人の元へ通う夫レオナルドと、一人冷たいベッドで眠るアメリアの「白い結婚」だった。
愛人に金品を貢ぎ、妻を「冷たい飾り」と見下す夫。しかし彼は知らなかった。己が誇る「優秀な領地経営」を担っていたのが、アメリアの頭脳だったことを――。
限界を迎えたアメリアの知的な罠が弾ける時、偽りの夫と愛人に完膚なきまでの絶望が襲いかかる!
※ハッピーエンド保障
※全5話完結しました
