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一等星の食卓
「ふぅ……」
シャワーを浴びて部屋着に身を包んだ亜嵐は、小さくため息を吐いた。
日付が変わるまでには、まだ少し余裕がある。けれど室内にはもうすっかり、ビロードのような夜の手触りが垂れこめていた。
備え付きのキッチン。小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、それをひと口含む。冷たい水が喉を駆け下りる感覚に少し身震いしつつ、亜嵐はカーテンを少しだけ開けた。
今日は日曜日で、午前中から湊がアルバイトに来ていた。仕事はもちろんだが、ランチと夕食を共にできて、それはそれは楽しい一日だった。
けれど明日は月曜日。彼は学校に行かねばならず、ここには来ない。
もしかしたら週のどこかで寄り道をしてくれるかもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったら――亜嵐はひとりで食事をとることになる。
翠は先ほど仕込みを終え、火元と戸締りを確認して帰っていった。だから今、この家にいるのは亜嵐だけだ。
ひとりが怖いわけではない。三十路に片足を突っ込んでいる身だ、そんな子どもっぽいことは言わない……のだが。
「ふむ、この感情は……『寂しい』というやつだろうか」
人気のない表通りは、街灯が立っているところだけぽつりぽつりと明るい。湊がその道を歩いていってから、まだ二時間しか経っていない。
メタセコイアの隣を抜けて駅まで歩いて。電車に乗って、最寄駅から自宅まで歩いて。それから風呂にも入って明日の支度をして――。
「まだ起きて……いや、やっぱりやめておこう」
亜嵐はデスクからスマートフォンを取り上げたが、頭を振ってそれを置いた。
必要以上に湊に執着している、その自覚くらい亜嵐にだってあるのだ。
思い返せば、これまで亜嵐の食生活は、実に寂しいものだった。
両親は亜嵐が生まれてすぐに離婚して、亜嵐は父のもとで育った。その父は、息子との食事より仕事を優先した。
温かな食卓を囲むことは、長らく亜嵐の夢であった。けれどそれは何故か縁遠くて、一生叶わないかもしれない、そう諦めたこともあったのに。それがどうだ。
「亜嵐さん、今日のホットケーキは生地に豆腐が入ってるんですよ」
「豆腐!? どんな作用があるんだ? ――おぉ、モチモチ食感じゃないか!」
「二人とも、お夕飯はスコッチエッグですよ」
「やったぁ! 楽しみですね、亜嵐さん」
亜嵐の食卓は、一気に温度と色彩を持った。
(嬉しい! 美味しい!)
だから――楽しくなった分だけ、亜嵐は寂しん坊になってしまった。
窓際の壁に背を預け、ごくりと水を飲む。
知識はあるけれど実技がからっきしな亜嵐は、ナイトキャップティーなどほとんど飲まない。けれど今夜は頑張って、特別な一杯を淹れてみようか。そのとき――。
ピロロン。
スマートフォンが軽やかに鳴った。
「……湊?」
慌ててペットボトルを置き、画面をタップする。浮かび上がったメッセージに、亜嵐は軽く目を見開いた。
『お疲れさまです。すみません、テーブルの辺りにメモ帳が落ちてないですか? もしあれば、次回行ったときに受け取ります。返事は今夜じゃなくてオーケーです』
亜嵐は部屋の中央に置かれたテーブルと、湊が使っているクッションソファーの付近を捜した。するとソファーと床の間に、果たしてそれは落ちていた。
亜嵐はすぐに返信を打った。
『メモ帳発見。次回』
そこまで打って、手が止まる。次回――それはいつだ? 週末か?
「…………」
たっぷり十秒考えて、亜嵐はデリートキーをトントンと押した。そして新たに続きを入力する。
『メモ帳発見。明日はフィッシュアンドチップス』
送信すると、すぐに既読がついた。それから数秒で、シュポッと新しいメッセージが表示される。
『喜んで!』
亜嵐の口角が、知らず上がる。
さて、そうとなれば今夜は早く寝なければ。ナイトキャップティーはお預けだ。無理を言って予定外の料理を注文するのだから、材料くらいは自分で仕入れに行かねばなるまい。
「白身魚と……衣用にビールだな」
亜嵐はもう一度、カーテンの隙間を窺った。ただし今度は石畳の歩道ではなく、黒い天蓋に覆われた空を見る。
このあたりは閑静な住宅街だが、大都市が近いだけあって、星なんてほとんど見えない。ただ一等星がひとつだけ、かろうじてチカッと光っている。
「星に願いを、か。……ふん、私には過分だな」
この部屋からは見えないだけで、本当の夜空には星が溢れている。
今はここにひとりきりだが、亜嵐の世界は明日も輝きに満ちるだろう。
「翠さんに、連絡だけは入れておくかな」
ペットボトルとスマートフォンを手に、亜嵐は寝室へ向かった。
照明が落ちた事務所。けれど亜嵐が戻し忘れたカーテンの隙間から、外の灯りがそっと差し込む。
デスクに置かれたメモ帳の表紙が、それを受けて、夜空の一等星のように鈍く光っていた。
秘密はいつもティーカップの向こう側 GOLDEN TIPS
一等星の食卓 / 完
シャワーを浴びて部屋着に身を包んだ亜嵐は、小さくため息を吐いた。
日付が変わるまでには、まだ少し余裕がある。けれど室内にはもうすっかり、ビロードのような夜の手触りが垂れこめていた。
備え付きのキッチン。小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、それをひと口含む。冷たい水が喉を駆け下りる感覚に少し身震いしつつ、亜嵐はカーテンを少しだけ開けた。
今日は日曜日で、午前中から湊がアルバイトに来ていた。仕事はもちろんだが、ランチと夕食を共にできて、それはそれは楽しい一日だった。
けれど明日は月曜日。彼は学校に行かねばならず、ここには来ない。
もしかしたら週のどこかで寄り道をしてくれるかもしれないが、してくれないかもしれない。してくれなかったら――亜嵐はひとりで食事をとることになる。
翠は先ほど仕込みを終え、火元と戸締りを確認して帰っていった。だから今、この家にいるのは亜嵐だけだ。
ひとりが怖いわけではない。三十路に片足を突っ込んでいる身だ、そんな子どもっぽいことは言わない……のだが。
「ふむ、この感情は……『寂しい』というやつだろうか」
人気のない表通りは、街灯が立っているところだけぽつりぽつりと明るい。湊がその道を歩いていってから、まだ二時間しか経っていない。
メタセコイアの隣を抜けて駅まで歩いて。電車に乗って、最寄駅から自宅まで歩いて。それから風呂にも入って明日の支度をして――。
「まだ起きて……いや、やっぱりやめておこう」
亜嵐はデスクからスマートフォンを取り上げたが、頭を振ってそれを置いた。
必要以上に湊に執着している、その自覚くらい亜嵐にだってあるのだ。
思い返せば、これまで亜嵐の食生活は、実に寂しいものだった。
両親は亜嵐が生まれてすぐに離婚して、亜嵐は父のもとで育った。その父は、息子との食事より仕事を優先した。
温かな食卓を囲むことは、長らく亜嵐の夢であった。けれどそれは何故か縁遠くて、一生叶わないかもしれない、そう諦めたこともあったのに。それがどうだ。
「亜嵐さん、今日のホットケーキは生地に豆腐が入ってるんですよ」
「豆腐!? どんな作用があるんだ? ――おぉ、モチモチ食感じゃないか!」
「二人とも、お夕飯はスコッチエッグですよ」
「やったぁ! 楽しみですね、亜嵐さん」
亜嵐の食卓は、一気に温度と色彩を持った。
(嬉しい! 美味しい!)
だから――楽しくなった分だけ、亜嵐は寂しん坊になってしまった。
窓際の壁に背を預け、ごくりと水を飲む。
知識はあるけれど実技がからっきしな亜嵐は、ナイトキャップティーなどほとんど飲まない。けれど今夜は頑張って、特別な一杯を淹れてみようか。そのとき――。
ピロロン。
スマートフォンが軽やかに鳴った。
「……湊?」
慌ててペットボトルを置き、画面をタップする。浮かび上がったメッセージに、亜嵐は軽く目を見開いた。
『お疲れさまです。すみません、テーブルの辺りにメモ帳が落ちてないですか? もしあれば、次回行ったときに受け取ります。返事は今夜じゃなくてオーケーです』
亜嵐は部屋の中央に置かれたテーブルと、湊が使っているクッションソファーの付近を捜した。するとソファーと床の間に、果たしてそれは落ちていた。
亜嵐はすぐに返信を打った。
『メモ帳発見。次回』
そこまで打って、手が止まる。次回――それはいつだ? 週末か?
「…………」
たっぷり十秒考えて、亜嵐はデリートキーをトントンと押した。そして新たに続きを入力する。
『メモ帳発見。明日はフィッシュアンドチップス』
送信すると、すぐに既読がついた。それから数秒で、シュポッと新しいメッセージが表示される。
『喜んで!』
亜嵐の口角が、知らず上がる。
さて、そうとなれば今夜は早く寝なければ。ナイトキャップティーはお預けだ。無理を言って予定外の料理を注文するのだから、材料くらいは自分で仕入れに行かねばなるまい。
「白身魚と……衣用にビールだな」
亜嵐はもう一度、カーテンの隙間を窺った。ただし今度は石畳の歩道ではなく、黒い天蓋に覆われた空を見る。
このあたりは閑静な住宅街だが、大都市が近いだけあって、星なんてほとんど見えない。ただ一等星がひとつだけ、かろうじてチカッと光っている。
「星に願いを、か。……ふん、私には過分だな」
この部屋からは見えないだけで、本当の夜空には星が溢れている。
今はここにひとりきりだが、亜嵐の世界は明日も輝きに満ちるだろう。
「翠さんに、連絡だけは入れておくかな」
ペットボトルとスマートフォンを手に、亜嵐は寝室へ向かった。
照明が落ちた事務所。けれど亜嵐が戻し忘れたカーテンの隙間から、外の灯りがそっと差し込む。
デスクに置かれたメモ帳の表紙が、それを受けて、夜空の一等星のように鈍く光っていた。
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