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第五話 新しい常連客
ローズメリーでの『アップルパイ作戦会議』から十日。四限目終了のチャイムが鳴って帰り支度をしていると、教室の扉付近から声がかかった。
「ふっじみ~やくん!」
猫なで声に顔を上げると、王子様先生が蕩けるような笑みを浮かべて手を振っていた。オタク姿や普通の人間らしい食嗜好を知ったことで、俺の評価は『警戒警報』から『注意報』くらいになった。とはいえこんなふうに呼びかけられると、つい眉間にしわが寄ってしまう。
「……若槻先生、何か用ですか」
リュックを手に提げて小股で近づくと、先生はますます笑みを深めて俺の肩を人差し指でつついた。
「ねぇねぇ。藤宮くんのお父様があの『マルカ』のメニュー開発者って、ホントなの?」
「は? それ、誰から聞いたんですか?」
疑問形にはしたけれど、出どころはすぐに見当がついた。亜嵐さんは個人情報を軽々しく口にしないし、白石さんは俺同様若槻先生を警戒している節がある。翠さんに至っては疑うこと自体が間違いだ。となると、残りはあの人しかいない。
「オリーさん……」
普段より低い声が口から漏れる。俺が本気で怒ったと思ったのだろう、若槻先生はこめかみに汗を垂らして大袈裟に両手を振った。
「違う違う! いや違わないけど、オリヴァーさんは君のご家族についてノリノリで情報を提供してくれたわけじゃないよ? 今流行ってる料理についてディスカッションしてて、ファミレスの期間限定メニューの話になったんだ。ほら、ファミレスってそういうのに敏感でしょ? で、『そういえば~』って感じで、ホントそれだけだから!」
なるほど、そういう流れだったのか。だがしかし。悪意はなかったとしても、これは立派な個人機密の漏洩だ。亜嵐さんへの報告は必至だと腹の底で憤っていると、若槻先生は本当に申し訳なさそうに肩を竦めた。
「僕は君のプライベートに干渉したり利用しようなんて、これっぽっちも考えてないよ? これでも教師の端くれだからね。ただ、なんというか……君の周りは本当にすごい人ばかりだなぁって。藤宮くんにはきっと、人を惹きつける魅力があるんだろうね」
「はぁ、そうなんですかね」
上目遣いでこちらを見る先生に、俺はものすごくそっけない声で返した。
確かに立派な人たちと知り合いではある。けれどそれは、イコール俺の価値ではない。亜嵐さんやオリーさんがすごいのはあの人たちが努力したからであって、俺の実力に流用できるものじゃない。人脈だけを誇ったって、そんなものは虎の威を借る狐だ。
胸がつかえたようにムカムカして、どんどん顔が険しくなっていく。すると先生はますます眉を下げ、困り果てた表情になった。
「うーん、どう言ったらわかってもらえるかな。誤解してほしくないのはね、僕は君のことをほとんど知らない。そしてそれは君も同じで、これまで接点がなかった分、今はまだお互いを理解するための材料が不足してるんだ。そしてここからが重要なんだけど、君は生徒として食品栄養学科に通い、僕はその学科の教師をしている。つまり僕たちは同好の士なわけで、だったら材料さえ揃えばわかり合えるんじゃないかなぁ?」
「それは……そう、かもしれません」
「でしょう!?」
ごまかしともとれる説明――とはいえ、もっともな部分もあるので渋々同意すると、先生はぱあっと顔を綻ばせた。そして強引に俺の腕を取ると、教室を出て廊下を進み始めた。
「今日はこの後フリー? それともローズメリーに顔を出すつもりだった?」
リュックを背負う隙すら与えられず、ずるずると引きずられる。いやこの状況、やらかした学生が教員に連行されるように見えるじゃないか。
本当に勘弁してほしい。誰も見てませんようにと祈りながら、俺はやけくそ気味に口を開いた。
「今日はもう帰るだけです!」
「よかった~! なら僕の研究室に寄り道できるね。研究生たちが君を紹介してほしいって騒いでるんだ」
「はぁ!?」
どれだけ自己中なんだ、この男! しかも若槻先生の研究室といえばあれだ――王子様を囲む会、つまり夢見る乙女チック学生たちの巣窟ではないか。彼女たちに騒がれて身柄を拘束されるなんて、恐ろしすぎて膝が笑ってしまう。
「やっぱり帰ります! 帰らせてください!」
離してもらおうと腕を引くが、王子様は見た目に反して力が強かった。指が食い込むほど掴まれて、振りほどくことができない。先日白石さんが涙目になったのは、決して大げさではなかったのだ。
「離してください~っ!」
「まあまあ、そんなこと言わないで。取って食うわけじゃないし、君にとって悪い話じゃないよ、きっと。西園寺さんには既に連絡してあって、来ていただくことになってるんだ。ね? 寄り道したくなったでしょ?」
「はぁ!?」
先生がチャーミングなウインクを投げ、かわいらしいハートマークが俺の頬に当たった。王子様好きの女子なら喜ぶかもしれないが、生憎俺にはなんの効果もない。それよりも。なぜそんな重要事項をすぐ言わないんだ!
「それを先に言ってくださいよ! ほら、さっさと行きますよ!」
腕を掴む若槻先生の腕を逆に引っ張る。先生は目を白黒させているが、知ったこっちゃない。亜嵐さんが来るのなら、行かない選択肢なんてあるものか。俺は先生を引きずって、三階にある食文化研究室を目指した。
***
「……なんと表現したらいいか。女子大生とは、実に力強い生き物だな」
「そうですね……」
日が暮れた坂道をメタセコイア目指して歩きながら、亜嵐さんと俺は同時にため息を吐いた。
研究室には所属の四年生だけでなく、調理学研究室の女生徒たちも詰めかけていて、彼女たちお手製のアップルパイがテーブルに並んでいた。
「……博士。これは何の集まりですか?」
俺に遅れること五分。研究室のドアを開けた亜嵐さんは、ギョッとして固まった。対する若槻先生は、涼しい顔で女子生徒たちを侍らせている。
「あれ? 電話でお話しましたよね? 先日のアップルパイを参考に僕らなりに作ってみたので、藤宮くんも呼んで試食会をしますって」
「よろしくお願いしま~す! やっだ、すっごい美形!」
「こっちの子もかわいいよね~! 私たちが焼いたアップルパイ、どうぞ召し上がれ~!」
とにもかくにも騒がしいのなんの。亜嵐さんがパイを手に取っただけでため息が漏れ、アップルパイを咀嚼して飲み込めば「どう? どう?」と感想をせっつく始末。女三人寄れば姦しいとは、あの状況のことを言うのだろう。俺も亜嵐さんも異世界に放り込まれて、ただひたすらもみくちゃにされた二時間だった。
「若槻先生って、あの状況で毎日を過ごしてるんですよね……俺には到底無理な環境です」
「私だって御免だ。しかし今日の本題はそこではない。彼女たちが作ったアップルパイには改善の余地が多分にあったが、実技の改善点を示すとなると私では荷が重すぎる。ここは翠さんに助力を願うのが最良だろうな」
「……そうですね、俺もそれが一番だと思います」
チリリン。
薄闇に灯りが漏れる古い町並み。そこにぼんやりと浮かび上がるローズメリーの扉を押し開けると、数人の客がティーカップを片手に、揺蕩う時空の狭間に身を沈めていた。
「おかえりなさい、亜嵐さん。藤宮くんもお疲れさま。お夕飯の準備はできていますよ。お店で食べる? それとも二階?」
出迎えてくれた翠さんは、労わるような声でそう言った。もう日が落ちているというのに、白いエプロンのフリルはピンと立っている。清潔感が大事だから一日に何回も替えていると、以前話してくれたことを思い出す。それは店主としての矜持であり、翠さんの心遣いでもあるのだろう。心がへたばっている俺の目には、そのフリルがとても眩く映った。
「どうする湊? ゆっくりできるなら二階に」
「あ、いえ。明日は朝イチで実習もあるし、そこまでは。あの、一階で食べさせてもらっていいですか?」
本当は……そんな本心に蓋をして告げると、翠さんは「かしこまりました」と厨房へ戻っていった。
「そうか、忙しいのに誘って申し訳なかったな」
しゅんと肩を落とす亜嵐さんを伴って、壁際の席に腰を落ち着ける。……ダメだ、そんな顔をされては、どんな用事があろうとここに残りたくなるじゃないか。けれどその行為は、この良好で健やかな関係を壊すものでしかない。俺は泣く泣く心を鬼にした。
「そんなことありませんよ! でも授業の支度も大切なので、ごめんなさい」
「もちろんそれが正しい。こちらこそ気を遣わせてしまったな。たとえ短くとも、食事の時間は楽しく過ごすとしよう」
そう言うと、亜嵐さんは体の力を抜いて目を細めた。そのとき。亜嵐さんの肩越し――二人掛けの席でティーカップを傾ける男性に、俺の目は吸い寄せられた。
(あれ? 見たことがない人だな)
その人物は、頭からつま先までとにかく黒づくめだった。真っ黒なシャツは襟も袖も折り目正しく、スラックスもベルトも漆黒。足元はきちんと手入れをされた黒い革靴で、艶のある黒髪に黒縁の眼鏡をかけている。表情は『無』で、不機嫌とまではいかないが陽気でもない。男性のテーブルには空になった皿が置かれていて、食事を終えたことが見て取れた。
(うーん? 翠さんのご飯を食べて笑顔のひとつもないなんて。ちょっと変わった人かな?)
俺のよそ見に気づいた亜嵐さんが、軽く振り返る。そして男性客の姿を確認すると、「あぁ」と小さく声を上げた。
「あの御仁なら先日も来ていたな。今回が二度目だと思う」
「そうなんですか……」
なるほど、ローズメリーの新しい常連客候補か。それならばもう一度観察しようと視線を送ると、俺に気づいたわけでもないだろうが、男性は席を立ち、会計を済ませて出て行ってしまった。
帰り際に翠さんが小さな箱を手渡したので、ケーキをテイクアウトしたようだ。あの見た目で甘い物好き? いやいや、人を見た目で判断してはいけないなどと考えているうちに、夕食がテーブルに運ばれてきた。
「うわぁ、美味しそう!」
大きなプレートには、こんがり焼けたパイ生地に覆われたココットが載っていた。脇のソーセージには刻んだハーブが入っていて、パンはスライスされたセサミ付きのカンパーニュ。添えられたサラダは見るからにシャキシャキで、食材たちが放つ誘惑に腹の虫がグゥグゥと騒ぎ出す。
「いただきますっ!」
「うむ、いただきます」
ザクッ。
ココットにスプーンを立てると、湯気と香りがフワンと立ち上がった。熱々のチキンポットパイだ。ゴロッとしたチキンとベシャメルソース、そして旬のキノコの旨味に手が止まらない。カンパーニュにチキンとソースを載せて、大きく口を開けてかじりついてみる。うん、これも最高だ。
「ハハッ、豪快な食べっぷりだな。このパンにはソーセージも合うぞ、セサミの風味と肉の旨味がベストマッチなんだ」
「じゃあ次の一枚はそれをやってみます!」
そうやって亜嵐さんとの食事を楽しむ間に、俺は結局、黒づくめの客のことなど忘れてしまっていた。
***
その週の土曜日、若槻先生がローズメリーにやって来た。淡い色のシャツを重ね着したコーディネートと先生特有のフワフワした雰囲気が相まって、いかにも王子様といった風情だ。ただその手はバラの花束ではなく、いかにも重そうなクラフト紙の袋を抱えている。
「西園寺さん、こちらが秋映です。どうでしょうかね?」
袋から出てきたのは、強烈な色彩の赤リンゴだった。赤を通り越して黒味すら感じる外見は、まるでシンデレラに差し出された毒リンゴのようだ。
「長野県で作出された品種で、シナノ三兄弟の長男です。兄弟の中では最も早生で、まさにこれからが旬なんです」
「ほう、なるほど。これは興味深いリンゴですね」
亜嵐さんはリンゴを手に取ると、艶を確かめてクンクンと香りを嗅いだ。
「酸味もありますから、アップルパイには向いているんじゃないかなぁ。あとはこの色を活かせたら、インパクトがありそうなんですけど」
「そうであれば皮ごと使うか、皮を一緒に煮込んで果肉に色を移したらどうかしら?」
頬に手を当てながら、翠さんもリンゴを面白そうに眺めている。そのやり取りに、またしても軽い疎外感を覚える。すると先生はニヤニヤ笑いを浮かべ、「藤宮くんも頑張ってね」と俺の肩をポンポンと叩いた。
「え? 俺が何を頑張るんですか?」
「調理チェックだよ。翠さんしか作れないパイじゃ、学園祭では出せないでしょう? 君は学生代表として、翠さんのレシピを監修するんだよ」
天使のような先生が発した内容にギョッとする。翠さんのレシピを監修? 俺なんかが?
「そんな……簡単に言わないでくださいよ! 俺まだ二年生ですよ!? 翠さんのレシピをチェックするなんて、無理に決まってるじゃないですか!」
必死に力不足を伝えるも、若槻先生は「またまたぁ」と笑っているし、亜嵐さんと翠さんも互いに顔を見合わせて首を傾げている。
「湊、学年など関係ないのではないか?」
「そうよねぇ。藤宮くん、お料理の腕は確かだもの」
いやいや、そんなレベルの話ではない。
「俺のはただの趣味のレベルですよ! 役になんて立てるわけが」
「それは解釈が違うぞ、湊」
亜嵐さんは眉を寄せ、唇を真一文字に結び俺を見据えた。
「君が料理に情熱を向け、かつ技術の研鑽に努めていることは、私も翠さんもよく知っている。もちろんプロのパティシエと同等などとは思っていないから、そこは安心していい。そして博士が望んでおられるのは、学生が調理をする前提のレシピ。つまり今の君だからこそ見えるものが、このパイ作りには絶対不可欠なんだ」
「学生、だから見えるもの……?」
突き出していた腕が、勢いをなくして落ちる。翠さんはそんな俺にリンゴをひとつ手渡すと、そのまま手をぎゅっと握り込んだ。
「ねえ藤宮くん、今回のレシピに必要なのは分量だけじゃないの。学生さんが作れるように、調理の難易度だけじゃなく、工程そのものの工夫が鍵になる。私は部外者だからわからないけれど、藤宮くんなら実際に調理室を使っているわよね。だから藤宮くんの助けが欲しいの。お願い、私と一緒にアップルパイを作ってくれないかしら?」
「難易度……工程、それに調理の場所……」
そういうことなら――俺も少しは役に立てるかもしれない。真摯な目でこちらを見る翠さんと、信頼を寄せてくれる亜嵐さんの顔を順に見る。そして最後、興味深げにこちらを窺う若槻先生に俺は視線を向けた。
「俺、やってみます」
「わぁよかった、ありがとう~! これでパイ作りは安心だね。それにしても。やっぱり藤宮くんってすごいんだねぇ、西園寺さんと翠さんにここまで言ってもらえるんだから。ヨッ学生代表、希望の星! 頑張ってねぇ~!」
「…………」
あまりの軽さに、高揚していた胸がスンッと落ち着く。なんというかこの王子様、やっぱりかなりの俗物ではなかろうか?
けれど同時に肩の力が抜けた俺は、亜嵐さんと翠さんに向かって――決して若槻先生にではない――「ご指導お願いします!」と言って深く頭を下げた。
「ふっじみ~やくん!」
猫なで声に顔を上げると、王子様先生が蕩けるような笑みを浮かべて手を振っていた。オタク姿や普通の人間らしい食嗜好を知ったことで、俺の評価は『警戒警報』から『注意報』くらいになった。とはいえこんなふうに呼びかけられると、つい眉間にしわが寄ってしまう。
「……若槻先生、何か用ですか」
リュックを手に提げて小股で近づくと、先生はますます笑みを深めて俺の肩を人差し指でつついた。
「ねぇねぇ。藤宮くんのお父様があの『マルカ』のメニュー開発者って、ホントなの?」
「は? それ、誰から聞いたんですか?」
疑問形にはしたけれど、出どころはすぐに見当がついた。亜嵐さんは個人情報を軽々しく口にしないし、白石さんは俺同様若槻先生を警戒している節がある。翠さんに至っては疑うこと自体が間違いだ。となると、残りはあの人しかいない。
「オリーさん……」
普段より低い声が口から漏れる。俺が本気で怒ったと思ったのだろう、若槻先生はこめかみに汗を垂らして大袈裟に両手を振った。
「違う違う! いや違わないけど、オリヴァーさんは君のご家族についてノリノリで情報を提供してくれたわけじゃないよ? 今流行ってる料理についてディスカッションしてて、ファミレスの期間限定メニューの話になったんだ。ほら、ファミレスってそういうのに敏感でしょ? で、『そういえば~』って感じで、ホントそれだけだから!」
なるほど、そういう流れだったのか。だがしかし。悪意はなかったとしても、これは立派な個人機密の漏洩だ。亜嵐さんへの報告は必至だと腹の底で憤っていると、若槻先生は本当に申し訳なさそうに肩を竦めた。
「僕は君のプライベートに干渉したり利用しようなんて、これっぽっちも考えてないよ? これでも教師の端くれだからね。ただ、なんというか……君の周りは本当にすごい人ばかりだなぁって。藤宮くんにはきっと、人を惹きつける魅力があるんだろうね」
「はぁ、そうなんですかね」
上目遣いでこちらを見る先生に、俺はものすごくそっけない声で返した。
確かに立派な人たちと知り合いではある。けれどそれは、イコール俺の価値ではない。亜嵐さんやオリーさんがすごいのはあの人たちが努力したからであって、俺の実力に流用できるものじゃない。人脈だけを誇ったって、そんなものは虎の威を借る狐だ。
胸がつかえたようにムカムカして、どんどん顔が険しくなっていく。すると先生はますます眉を下げ、困り果てた表情になった。
「うーん、どう言ったらわかってもらえるかな。誤解してほしくないのはね、僕は君のことをほとんど知らない。そしてそれは君も同じで、これまで接点がなかった分、今はまだお互いを理解するための材料が不足してるんだ。そしてここからが重要なんだけど、君は生徒として食品栄養学科に通い、僕はその学科の教師をしている。つまり僕たちは同好の士なわけで、だったら材料さえ揃えばわかり合えるんじゃないかなぁ?」
「それは……そう、かもしれません」
「でしょう!?」
ごまかしともとれる説明――とはいえ、もっともな部分もあるので渋々同意すると、先生はぱあっと顔を綻ばせた。そして強引に俺の腕を取ると、教室を出て廊下を進み始めた。
「今日はこの後フリー? それともローズメリーに顔を出すつもりだった?」
リュックを背負う隙すら与えられず、ずるずると引きずられる。いやこの状況、やらかした学生が教員に連行されるように見えるじゃないか。
本当に勘弁してほしい。誰も見てませんようにと祈りながら、俺はやけくそ気味に口を開いた。
「今日はもう帰るだけです!」
「よかった~! なら僕の研究室に寄り道できるね。研究生たちが君を紹介してほしいって騒いでるんだ」
「はぁ!?」
どれだけ自己中なんだ、この男! しかも若槻先生の研究室といえばあれだ――王子様を囲む会、つまり夢見る乙女チック学生たちの巣窟ではないか。彼女たちに騒がれて身柄を拘束されるなんて、恐ろしすぎて膝が笑ってしまう。
「やっぱり帰ります! 帰らせてください!」
離してもらおうと腕を引くが、王子様は見た目に反して力が強かった。指が食い込むほど掴まれて、振りほどくことができない。先日白石さんが涙目になったのは、決して大げさではなかったのだ。
「離してください~っ!」
「まあまあ、そんなこと言わないで。取って食うわけじゃないし、君にとって悪い話じゃないよ、きっと。西園寺さんには既に連絡してあって、来ていただくことになってるんだ。ね? 寄り道したくなったでしょ?」
「はぁ!?」
先生がチャーミングなウインクを投げ、かわいらしいハートマークが俺の頬に当たった。王子様好きの女子なら喜ぶかもしれないが、生憎俺にはなんの効果もない。それよりも。なぜそんな重要事項をすぐ言わないんだ!
「それを先に言ってくださいよ! ほら、さっさと行きますよ!」
腕を掴む若槻先生の腕を逆に引っ張る。先生は目を白黒させているが、知ったこっちゃない。亜嵐さんが来るのなら、行かない選択肢なんてあるものか。俺は先生を引きずって、三階にある食文化研究室を目指した。
***
「……なんと表現したらいいか。女子大生とは、実に力強い生き物だな」
「そうですね……」
日が暮れた坂道をメタセコイア目指して歩きながら、亜嵐さんと俺は同時にため息を吐いた。
研究室には所属の四年生だけでなく、調理学研究室の女生徒たちも詰めかけていて、彼女たちお手製のアップルパイがテーブルに並んでいた。
「……博士。これは何の集まりですか?」
俺に遅れること五分。研究室のドアを開けた亜嵐さんは、ギョッとして固まった。対する若槻先生は、涼しい顔で女子生徒たちを侍らせている。
「あれ? 電話でお話しましたよね? 先日のアップルパイを参考に僕らなりに作ってみたので、藤宮くんも呼んで試食会をしますって」
「よろしくお願いしま~す! やっだ、すっごい美形!」
「こっちの子もかわいいよね~! 私たちが焼いたアップルパイ、どうぞ召し上がれ~!」
とにもかくにも騒がしいのなんの。亜嵐さんがパイを手に取っただけでため息が漏れ、アップルパイを咀嚼して飲み込めば「どう? どう?」と感想をせっつく始末。女三人寄れば姦しいとは、あの状況のことを言うのだろう。俺も亜嵐さんも異世界に放り込まれて、ただひたすらもみくちゃにされた二時間だった。
「若槻先生って、あの状況で毎日を過ごしてるんですよね……俺には到底無理な環境です」
「私だって御免だ。しかし今日の本題はそこではない。彼女たちが作ったアップルパイには改善の余地が多分にあったが、実技の改善点を示すとなると私では荷が重すぎる。ここは翠さんに助力を願うのが最良だろうな」
「……そうですね、俺もそれが一番だと思います」
チリリン。
薄闇に灯りが漏れる古い町並み。そこにぼんやりと浮かび上がるローズメリーの扉を押し開けると、数人の客がティーカップを片手に、揺蕩う時空の狭間に身を沈めていた。
「おかえりなさい、亜嵐さん。藤宮くんもお疲れさま。お夕飯の準備はできていますよ。お店で食べる? それとも二階?」
出迎えてくれた翠さんは、労わるような声でそう言った。もう日が落ちているというのに、白いエプロンのフリルはピンと立っている。清潔感が大事だから一日に何回も替えていると、以前話してくれたことを思い出す。それは店主としての矜持であり、翠さんの心遣いでもあるのだろう。心がへたばっている俺の目には、そのフリルがとても眩く映った。
「どうする湊? ゆっくりできるなら二階に」
「あ、いえ。明日は朝イチで実習もあるし、そこまでは。あの、一階で食べさせてもらっていいですか?」
本当は……そんな本心に蓋をして告げると、翠さんは「かしこまりました」と厨房へ戻っていった。
「そうか、忙しいのに誘って申し訳なかったな」
しゅんと肩を落とす亜嵐さんを伴って、壁際の席に腰を落ち着ける。……ダメだ、そんな顔をされては、どんな用事があろうとここに残りたくなるじゃないか。けれどその行為は、この良好で健やかな関係を壊すものでしかない。俺は泣く泣く心を鬼にした。
「そんなことありませんよ! でも授業の支度も大切なので、ごめんなさい」
「もちろんそれが正しい。こちらこそ気を遣わせてしまったな。たとえ短くとも、食事の時間は楽しく過ごすとしよう」
そう言うと、亜嵐さんは体の力を抜いて目を細めた。そのとき。亜嵐さんの肩越し――二人掛けの席でティーカップを傾ける男性に、俺の目は吸い寄せられた。
(あれ? 見たことがない人だな)
その人物は、頭からつま先までとにかく黒づくめだった。真っ黒なシャツは襟も袖も折り目正しく、スラックスもベルトも漆黒。足元はきちんと手入れをされた黒い革靴で、艶のある黒髪に黒縁の眼鏡をかけている。表情は『無』で、不機嫌とまではいかないが陽気でもない。男性のテーブルには空になった皿が置かれていて、食事を終えたことが見て取れた。
(うーん? 翠さんのご飯を食べて笑顔のひとつもないなんて。ちょっと変わった人かな?)
俺のよそ見に気づいた亜嵐さんが、軽く振り返る。そして男性客の姿を確認すると、「あぁ」と小さく声を上げた。
「あの御仁なら先日も来ていたな。今回が二度目だと思う」
「そうなんですか……」
なるほど、ローズメリーの新しい常連客候補か。それならばもう一度観察しようと視線を送ると、俺に気づいたわけでもないだろうが、男性は席を立ち、会計を済ませて出て行ってしまった。
帰り際に翠さんが小さな箱を手渡したので、ケーキをテイクアウトしたようだ。あの見た目で甘い物好き? いやいや、人を見た目で判断してはいけないなどと考えているうちに、夕食がテーブルに運ばれてきた。
「うわぁ、美味しそう!」
大きなプレートには、こんがり焼けたパイ生地に覆われたココットが載っていた。脇のソーセージには刻んだハーブが入っていて、パンはスライスされたセサミ付きのカンパーニュ。添えられたサラダは見るからにシャキシャキで、食材たちが放つ誘惑に腹の虫がグゥグゥと騒ぎ出す。
「いただきますっ!」
「うむ、いただきます」
ザクッ。
ココットにスプーンを立てると、湯気と香りがフワンと立ち上がった。熱々のチキンポットパイだ。ゴロッとしたチキンとベシャメルソース、そして旬のキノコの旨味に手が止まらない。カンパーニュにチキンとソースを載せて、大きく口を開けてかじりついてみる。うん、これも最高だ。
「ハハッ、豪快な食べっぷりだな。このパンにはソーセージも合うぞ、セサミの風味と肉の旨味がベストマッチなんだ」
「じゃあ次の一枚はそれをやってみます!」
そうやって亜嵐さんとの食事を楽しむ間に、俺は結局、黒づくめの客のことなど忘れてしまっていた。
***
その週の土曜日、若槻先生がローズメリーにやって来た。淡い色のシャツを重ね着したコーディネートと先生特有のフワフワした雰囲気が相まって、いかにも王子様といった風情だ。ただその手はバラの花束ではなく、いかにも重そうなクラフト紙の袋を抱えている。
「西園寺さん、こちらが秋映です。どうでしょうかね?」
袋から出てきたのは、強烈な色彩の赤リンゴだった。赤を通り越して黒味すら感じる外見は、まるでシンデレラに差し出された毒リンゴのようだ。
「長野県で作出された品種で、シナノ三兄弟の長男です。兄弟の中では最も早生で、まさにこれからが旬なんです」
「ほう、なるほど。これは興味深いリンゴですね」
亜嵐さんはリンゴを手に取ると、艶を確かめてクンクンと香りを嗅いだ。
「酸味もありますから、アップルパイには向いているんじゃないかなぁ。あとはこの色を活かせたら、インパクトがありそうなんですけど」
「そうであれば皮ごと使うか、皮を一緒に煮込んで果肉に色を移したらどうかしら?」
頬に手を当てながら、翠さんもリンゴを面白そうに眺めている。そのやり取りに、またしても軽い疎外感を覚える。すると先生はニヤニヤ笑いを浮かべ、「藤宮くんも頑張ってね」と俺の肩をポンポンと叩いた。
「え? 俺が何を頑張るんですか?」
「調理チェックだよ。翠さんしか作れないパイじゃ、学園祭では出せないでしょう? 君は学生代表として、翠さんのレシピを監修するんだよ」
天使のような先生が発した内容にギョッとする。翠さんのレシピを監修? 俺なんかが?
「そんな……簡単に言わないでくださいよ! 俺まだ二年生ですよ!? 翠さんのレシピをチェックするなんて、無理に決まってるじゃないですか!」
必死に力不足を伝えるも、若槻先生は「またまたぁ」と笑っているし、亜嵐さんと翠さんも互いに顔を見合わせて首を傾げている。
「湊、学年など関係ないのではないか?」
「そうよねぇ。藤宮くん、お料理の腕は確かだもの」
いやいや、そんなレベルの話ではない。
「俺のはただの趣味のレベルですよ! 役になんて立てるわけが」
「それは解釈が違うぞ、湊」
亜嵐さんは眉を寄せ、唇を真一文字に結び俺を見据えた。
「君が料理に情熱を向け、かつ技術の研鑽に努めていることは、私も翠さんもよく知っている。もちろんプロのパティシエと同等などとは思っていないから、そこは安心していい。そして博士が望んでおられるのは、学生が調理をする前提のレシピ。つまり今の君だからこそ見えるものが、このパイ作りには絶対不可欠なんだ」
「学生、だから見えるもの……?」
突き出していた腕が、勢いをなくして落ちる。翠さんはそんな俺にリンゴをひとつ手渡すと、そのまま手をぎゅっと握り込んだ。
「ねえ藤宮くん、今回のレシピに必要なのは分量だけじゃないの。学生さんが作れるように、調理の難易度だけじゃなく、工程そのものの工夫が鍵になる。私は部外者だからわからないけれど、藤宮くんなら実際に調理室を使っているわよね。だから藤宮くんの助けが欲しいの。お願い、私と一緒にアップルパイを作ってくれないかしら?」
「難易度……工程、それに調理の場所……」
そういうことなら――俺も少しは役に立てるかもしれない。真摯な目でこちらを見る翠さんと、信頼を寄せてくれる亜嵐さんの顔を順に見る。そして最後、興味深げにこちらを窺う若槻先生に俺は視線を向けた。
「俺、やってみます」
「わぁよかった、ありがとう~! これでパイ作りは安心だね。それにしても。やっぱり藤宮くんってすごいんだねぇ、西園寺さんと翠さんにここまで言ってもらえるんだから。ヨッ学生代表、希望の星! 頑張ってねぇ~!」
「…………」
あまりの軽さに、高揚していた胸がスンッと落ち着く。なんというかこの王子様、やっぱりかなりの俗物ではなかろうか?
けれど同時に肩の力が抜けた俺は、亜嵐さんと翠さんに向かって――決して若槻先生にではない――「ご指導お願いします!」と言って深く頭を下げた。
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【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
「白い結婚だから息子は独身同然」ですか? お義母様、私たちまだ離縁しておりませんが
夫の再婚相手を募集する招待状が届いた。――差出人は義母。ちなみに、私はまだ妻である。
白い結婚を理由に、勝手に夫の再婚話を進める義母。
ところが調べてみると、令嬢たちから多額の準備金を集めていたことが発覚!
冷静で芯の強い妻クラリスと、実は妻を溺愛している公爵レオン。
夫婦で義母の企みを暴く、痛快ざまぁ&じれ甘異世界恋愛。