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第四話
しおりを挟む外へ出たサフィールは、王宮の近くにあるオアシスの泉へ来ていた。
何かあると、ここへくるのはお決まりの流れだった。地下水が泉となって湧き出し、周囲には草木が青々と茂っている。無論いくら水源の近くとはいえ周囲は砂漠だ。長く滞在していては干からびてしまうだろう。
それでもサフィールが一人で出かけられる範囲が、ここしかないのだから仕方ない。王宮から目と鼻の先の場所で、国民が近寄らないから、少しの家出が黙認されている。
帰りが遅ければ従者の迎えがやってくる。――いつも同じだった。
この王宮に近い水場は、王都の人間は不敬になると近寄らない神聖な場所と言われている。実際は神様も祀っていないし、ただの泉だ。
誰も来ない場所と分かっていても、王族の人間が、ふらふらと外を出歩いていると知られては大事になる。だからサフィールは王都の人間に紛れるよう、わざわざ変装をしていた。使用人部屋の奥には、いつも家出するための道具を準備している。
身体のラインを多い隠すような麻の民族衣装。普段着慣れていない服は、急いで着替えたため首元が絞まって苦しかった。これでは、すぐに蒸し焼きになってしまう。布量が多く歩くのもままならない。
「あ……暑い」
首元に指をかけ、思わずうめき声をあげて木陰に座り込んだ。日陰でも風一つないので少しも涼しくない。本来は砂漠の太陽から体を守るための服装なのにサフィールの着方が下手なせいで熱から体を守る機能を果たしていなかった。
ぽたぽたと額からは汗が落ちるし、金色の巻き毛は頬にくっついて鬱陶しい。
このまま目の前の泉に飛び込んでしまいたかった。
太陽の光りで湖面はキラキラと眩しく輝いている。きっと泉の中は冷たくて気持ちいいだろう。
そう思った瞬間だった。
サフィールが頭の中で描いていた光景が目に映った。泉から大きな水飛沫が上がった。当然、海じゃないから、オアシスの泉にはイルカなんていない。
「あ……」
サフィールは驚いて思わず声を出してしまった。第二王子の自分が、外で遊んでいるなどバレてはいけないのに。
泉では男が豪快に昼間の水浴びを楽しんでいた。
(……気持ちよさそう、だな)
銀髪の背が高い男は水の中から出ると、サフィールがいる木陰に視線を向けた。
「ん、どうした、道にでも迷ったのか?」
ポタポタと水を滴らせて、男はサフィールのいるところまで歩いてきた。上半身は裸で首には鮮やかな宝石を散りばめたネックレスをしている。それ以外は腰に布を巻いただけの格好だ。
サフィールは近づいてきた男に焦って周囲を見渡した。どうやら男は一人のようだった。彼がここまで着てきたであろう服や荷物は水辺にまとめて置いてあった。
サフィールは顔を覗き込まれて思わず男から顔を背ける。王宮の人間以外に話しかけられたのは初めてだった。ただ顔を覗き込まれただけなのに、理由も分からない恥ずかしさで顔が、どんどん赤くなってしまう。
「んー? 言葉分からない? この国の子じゃないのかな? 『名前は?』どこから来たの?」
男は突然サフィールに向けて異国の言葉を話した。歌うように滑らかな言葉の響きだ。サフィールは、その言葉の響きが懐かしくて顔を勢いよく上げた。
昔、母が話していた彼女の故郷の言葉と同じだったから。
「わ、分かる。き、君は異国の言葉が話せるのか」
サフィールは目をキラキラさせて、はしゃいだ声を上げた。その瞬間は、恥ずかしさよりも好奇心が勝っていた。
「あぁ、元々旅人だから」
「旅、人? すごい! じゃあ、色んなこと知ってるんだ」
男はサフィールの前のめりの質問に苦笑する。
「別に、すごくないよ。今は近くの王都で暮らしているけど」
「そう、なんだ」
「良かった良かった。言葉が通じなかったらどうしようかと思った。俺の名はアーディー。君は? 迷子かな」
ニカッと太陽のような笑顔をして、サフィールの前に両膝をついた。顔が近づくと、鼻筋が通り造作の整った顔がよく見える。笑う唇にはチラリと八重歯が見えた。一目見て分かるほど人懐っこい人だ。
「その……ぼ、僕は、サフ……。迷子じゃない。あと、そんな子供じゃないんだけどな」
思わず名前を愛称で答えていた。やっぱり目を合わせると途端に恥ずかしくなって上手く話せない。成人した大人なのに情けなかった。
「へぇサフ、西の方によくある名だな。子供じゃないって、でも十三歳くらいだろ。ちびっこじゃん」
「違う! 十八!」
「ごめんごめん、冗談だよ。それで? なんで、こんなところにいるんだ?」
「その、えーっと。か、観光? かな?」
声が裏返ってしまった。
「ふーん観光ねぇ。一人で? 旅人の先輩に言わせると、そんな格好のまま、うろうろしてたら死ぬよ?」
からかうように弾む声でアーディーは話した。
「そう、かもしれない、けど。あ、アーディーは、昼間から水浴びって無職?」
王都に住む人間なら忙しく商いをしている時間帯だった。こんな昼間から優雅に水浴びなんてしている人間は職なしくらいだ。
「失礼だなぁ。そっくりそのまま返してやるよ。二十歳で立派に働いてるし。夜のお仕事ですよ」
街で酒場でも経営しているのだろうか。それなら昼は自由時間なのかもしれない。
「で、観光ねぇ。土地勘ないなら良ければ、王都を案内するけど。そうだなぁ、コイン五枚でどうだ?」
アーディーは手のひらをサフィールの顔の前に掲げてくる。ちゃっかりしている性格だなぁと思った。けれど、それくらい強かでないと砂漠で暮らすのは難しいだろう。
「あ、今、お、お金……が、ない」
目と鼻の先の王宮から遊びにきただけで、手ぶらだった。そもそもお金を持ち歩くという習慣がない。世間知らずな自分をいまさらながらに自覚する。
「それは残念だな。またのご利用をお待ちしています」
「ねぇアーディーは普段から観光客相手に仕事しているの?」
「ん、それは時々。本業は、さっき言った通り夜の仕事だね」
同じ年頃の友人などいたことがないし、王都の街も歩いたことがない。
少しだけアーディーの観光案内が気になったが、お金を取りに戻ったところで行けるはずもなかった。サフィールがギリギリ許されている自由はこの水場までだから。
アーディーはサフィールを見ても王族の人間と気づいていない。考えてみれば、それは当たり前だった。今まで国民の前にサフィールは姿を見せていなかった。ハーレムの宴に参加するときだって、いつも姿は布でしっかりと覆い隠している。彼の失礼な態度から王族の人間と疑われていないのは分かるが、それでもアーディーは何かを探るような目でサフィールを見ていた。
「そこにさ、王宮のデカい建物があるだろ。だから王都の人間は恐れ多いって、この辺りの水場には近寄らないんだよ」
「じゃあなんで、アーディーはいるの?」
「えーなんでって、それは穴場だから?」
「穴場?」
「そ、王宮の人間が水を汲みにくるのは朝の早い時間だし、昼間、街の人間は近寄らない。王宮の宴は夜だからさ、踊り子の馬車が近くを通るのは早くても夕方」
それはサフィールも知っていた。だからサフィールも一人で水場まで散歩が出来る。
「街の近くにある反対側の水場は、人が多くってさ、おちおち水浴びも出来やしない。その点、こっちは誰もいないから。最高のロケーションを独り占めってね。秘密だぞ?」
アーディーはウインクして悪戯っぽい笑みをサフィールに見せる。その話しぶりが面白くて思わず吹き出してしまった。楽しい人だなと思う。こんな面白い友人が自分にもいたらいいのにと感じていた。
「それで、サフ、観光客なら、その重たい服早く脱げばいいのに」
「ぬ、脱ぐって、なんで」
「だって、せっかく水場に来たのに暑いだろう? ずっとそんな格好でいたら倒れるぞ? お前も泉で水浴びしたらいいじゃん」
そう言って頭の布に手をかけられた。
「あ」
サフィールが抵抗する間も無く頭の布が肩に落ちる。初めて余すことなく素顔を人に晒してしまった。
布越しでなく人と会うなんて初めてだ。暑さではなく、羞恥から頬がどんどん朱に染まっていた。
「へぇ、やっぱり思った通りだった」
アーディーは訳知り顔になった。けれど、アーディーが、そんな顔をしている理由がサフィールには分からない。心臓が早鐘を打ち不安に襲われた。
「え、っと、何が」
「前に、旅先でお前と同じ目の色と髪の色をした人を見たよ」
アーディーは、まじまじとサフィールの顔を見つめる。家族以外に、こんなに見つめられた経験がなくて、どんな顔をすればいいのかが分からない。
「とても美しい民族だった。ただ奴隷商に売られて行って……本当に彼らは気の毒だったな」
アーディーの「奴隷商」という言葉に、ひゅ、と息を吸っていた。
「なん、で、そんな、ひどいこと」
サフィールは聞かずともその理由を知っている。母がそうだったから。
「美しい、オメガ、だったから」
アーディーはサフィールの髪を優しくすき目を細めた。
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