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「兄さん……もうやめようよ」
小寺の弱々しい声が、男の後ろから聞こえた。
「健吾さんを傷つけても、なにもならないよ」
自らの行動を諫めようとする言葉にカッとなったのか、男は振り向きざま、協力者であるはずの小寺にナイフを突き出した。
小寺は切っ先を避けようとして足をもつれさせ、その場に尻もちをつく。
「うるせえうるせえっ!こいつさえいなくなれば、俺がデビューできるんだよ!今こいつが立ってるところは、もともと俺がいるはずの場所だったんだから!」
男は健吾に向き直って襟を鷲掴みすると、体を乱暴に引き寄せ、鼻先にナイフを突きつけた。
「目が見えないのは不便だろうから、やっぱり鼻にしてやるよ。鼻がなければ、テレビに出ようって気も起らないよなあ?」
ナイフを鼻の付け根に強く押し当てられ、健吾は恐怖から固く目を閉じた。
「さあ、言えよ!芸能界引退しますって!そしたらお前のおキレイな顔はこのままだ」
ドスきいた低い声で脅され震えながら、それでも健吾は、ひとつの覚悟を決めた。
鼻がなくなるのは嫌だが、この男に屈するのはもっと嫌だ。
決して「うん」と言ってやるものかと、奥歯を食いしばる。
「お前は変な所で強情だ」と、清文と北条に言われていた事を思い出し、二人の呆れ顔を思い浮かべると、強張っていた体からほんの少しだけ力が抜けた。
健吾が返事をしない事に焦れたらしい男は、ナイフを握る手にさらに力を込め、掴んだ襟元を捩じるようにして、力づくで健吾の首を締めあげながら持ち上げた。
興奮しているらしい男の荒い息遣いだけが、静まり返った部屋に響く。
そういえば、鼻って無くなってもにおいが嗅げるのかな?
一種の逃避なのだろうが妙な疑問が頭に思い浮かび、そんな自分に呆れて笑いがこぼれそうになる。
鼻がなくなっても、蒼馬は一緒にいてくれるかな。
取れてもあとからくっつければ元に戻るかもしれないけど、傷跡は残るだろうな。
こんな時に心に思い浮かぶのも、北条の事ばかりだ。
男に屈して「芸能界を引退する」と言えば良いのかもしれないが、たとえそう言ったとしても、それでこの男がすんなり健吾を解放してくれるとは到底思えなかった。
それならば、抵抗するだけだ。
返事をする様子のない健吾に苛立った男のナイフの切っ先が、徐々に皮膚に食い込み始める。
鼻の付け根に痛みと熱さを感じたが、悲鳴など絶対に上げてやるものかと、健吾は精一杯歯を食いしばった。
「そこまでにしてもらおうか」
カチリ、という音と共に、聞き覚えのある低い声が響いた。
ありえない。入院しているはずの彼がこの場に現れるはずはない。
そう思い、助けを求めるあまりに聞こえた幻聴なのかもしれないと自分を戒めたてみたが、鼻先にかすかに北条のトワレの香りが漂った気がして、閉じていた目をこじ開けた。
開いた視界の先には、確かに北条が立っていた。
左腕を白い布で吊るし、半裸にシャツを肩から羽織っただけの北条が、男の後頭部に銃を突き付けている。
まるで刑事ドラマのワンシーンから出てきた俳優のように、北条は慣れたしぐさで斜めに銃を構え、眼差しに怒りをあらわにして、男の頭に銃口を向けていた。
「健吾を離してナイフを床に置け。指示に従わない場合は即座に発砲する」
怒りを孕んだ北条の低い声が、恐ろしい程に冷たく響き渡る。
銃口を突き付けられた男の顔はみるみる青ざめ、健吾の首から、震え出した手がゆっくりと離れた。
暴力を振るうことは平気でも、振るわれる事には恐怖を感じるらしい。
男が震えながら床に落としたナイフを、北条はすぐさま、リビングへ向けて蹴り飛ばした。
「木山、こいつを縛ってくれ」
木山が梱包用の紐を持ち出し、慣れた様子で手早く男を後ろ手に縛る。
すでに鈴置によって拘束されていた小寺は、暴れるような素振りは全く見せず、憔悴した様子で項垂れていた。
「遅くなってすまなかった」
北条が膝をつき、座り込んでいた健吾に手を差し伸べた。
すぐにでもその手に縋りつきたいのに、どういうわけか体は凍り付いたように動かず、黙って北条を見つめることしか出来ない。
固まったままの健吾に、北条が「どうした、おいで」と優しく微笑みかける。
すると、その声が合図だったかのように体の強張りが取れ、健吾は弾けるような勢いで、北条の胸に飛び込んだ。
「怖い思いをさせたな。もう大丈夫だ」
安心させるように背中を撫でさすると、北条は右腕だけで健吾の体を支え、抱き上げるようにして立ち上がらせる。
さすがに傷にひびくのか、一瞬顔をしかめるのが見えたが、それでも北条は抱き寄せた健吾を離したりはしなかった。
「蒼馬、怪我は?病院は?どうやってここに?」
矢継ぎ早に質問する健吾に、北条は困ったように笑って見せた。
触れる北条の体が、いつもよりずいぶんと熱い気がする。
発熱しているのではないだろうかと心配で顔を見上げたが、北条はいつもと変わらない涼しげな表情をしていた。
「もうすぐ警察が来るはずだ。こいつらを引き渡したら、病院に戻ろう」
片腕だけで健吾を抱き締めながら、北条がそう告げる。
「勝手に抜け出してきたから一緒に怒られてくれ」といたずらが成功した子供のように言う北条に、やはり抜け出してきたのかとあきれるものの、そのおかげで助かったのだから文句は言えなかった。
自分の体を顧みずにここに来ただろう北条に申し訳ない気持ちを感じつつも、それでも助けに来てくれたという大きな喜びを感じていた。
「警察の事情聴取は明日にまわしてもらおう。さすがに色々ありすぎて疲れたな」
こつん、と健吾の頭に自分の頭を軽くぶつけて、北条がこっそりとそうこぼす。
北条が弱音を吐くところなど、初めて見た。
大怪我をして傷口を縫い、入院していたのにも関わらず、この大騒動だ。
日頃清文に超人扱いされている北条でも、さすがに堪えた様子だった。
「あ、そういえば……」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくるのに、ふとあることに思い至る。
先程健吾を抱き寄せる際、北条が無造作に床に置いたもの。
……これ、日本国内で所持していたら、かなりマズイ代物なのではないだろうか。
「蒼馬……あのさ……」
足元に置かれたままの銃に健吾が目をやると、「ああ」と北条が身をかがめ、ひょいとそれを拾い上げた。
いくら緊急事態でも、これを持っていれば立派に銃刀法違反になるに違いない。
だいたい、どこからこんなものを調達してきたのかと不思議に思う。
「モデルガンだ。最近のは良く出来てるな」
とまどう健吾をよそに、銃身を弄びながら、北条はあっさりと偽物なんだと言って笑った。
では、先程のあの緊迫した空気は演技だったのか?と思い、驚きを通り越してあきれてしまう。
本物を扱ったことがあるのだろう北条が良く出来ていると言うのだから、素人目には本物か偽物かなんて区別がつかなくて当然なのかもしれないが、健吾はすっかり本物だと信じ込んでいた。
木山に縛られ、バスルームに閉じ込められているあの男も、本物だと信じていたに違いない。
「本物かと思ってた」
「そんなわけないだろう。日本では銃の携帯は許可はされてないだろうが」
余計な立ち回りを避ける為、威嚇用に持ってきたらしい。
「鈴置の玩具なんだが、証拠品で持っていかれるかな」と北条が呟くと、鈴置がはっとしたように北条を見て、何とも言えない情けない顔を見せた。
どうやら大事なコレクションの一つだったらしい。
健吾を助けるためとはいえ、北条も酷な事をするものだ。
ほどなく警察が到着して、小寺と、その兄を名乗る男が連行されていった。
小寺は連れていかれる際に何度も健吾を振り返り、これ以上はないという程深く頭を下げていった。
もしかすると小寺は、あの狂気をまとった兄に逆らえなかっただけで、犯罪に加担することは本意ではなかったのかもしれない。
結局男の目的はなんだったのか釈然としないままだったが、全ては明日になってからだと北条に諭され、鈴置に送られて病院に戻った。
病院へは、状況の説明と警護を兼ねて、警察官が一人付き添ってくれた。
医師と看護師に脱走のお説教をくらった後、健吾は警察官の口添えで北条の病室に簡易ベッドを用意してもらい、朝まで一緒に休むことになった。
病室の前では念のために私服の警察官が待機してくれるらしい。
発熱している北条のために点滴を用意していた看護師が去ると、北条はおいでと健吾に手招きしてベッドに呼び寄せる。
一人では眠れそうになかったのでありがたく誘いに乗り、健吾は北条の熱い体にぴったりと身を寄せた。
「傷、痛くない?」
「痛むが問題ない。おまえは大丈夫か?」
サバイバルナイフでつけられた二か所の傷跡と殴られた痕を、北条の指がそっと辿る。
傷には保護テープが貼られているし、殴られた所は湿布をしてもらっていたので、今はさほど痛くはない。
「平気」と答えると、北条はうつ伏せから体を起こし、傷のある肩が上になるように横になって、いつものように健吾をすっぽりと抱え込んだ。
「朝、看護師さんが来る前に起きて、自分のベッドに戻らないと」
こんな狭い所に二人で寝ている所を見られたら……と、健吾が照れ隠しにそう言うと、どうせ数時間おきに様子見に来るから、その時バレるぞ、と北条が笑う。
「明日は忙しいだろうから、細かいことは気にせずに、少しでも休め」
北条のいつもより熱い唇が、健吾の額をかすめるようにキスを落とす。
今日一日で色々なことがありすぎたせいで、興奮状態なのかなかなか眠りは訪れそうにない。
小寺の兄という男は、健吾への傷害罪で逮捕された。
小寺もおそらく、犯罪幇助の罪に問われることになるだろう。
一体何故小寺が、そして小寺の兄というあの男が健吾へ憎しみを抱くようになったのか。
高熱の北条の容態が心配なのも、眠れない要因のひとつだ。
向かい合わせで眠る男の額にそっと手を当てると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
「熱い……」
手のひらが火傷してしまうのではないかと思う程に、北条の額は熱かった。
少しでも熱が下がれば、と、健吾は冷えた手を北条の首筋にあてる。
熱を下げるには、体を通っている太い血管を冷やすと良いのだと、どこかで聞いたことがあった。
「冷たいな、おまえの手……」
「蒼馬の体が熱いんだよ」
北条は心配する健吾を見つめ、「そうか」と笑って再び目を閉じた。
こんなに辛そうな様子の北条は、初めて見る。
「痛み止めが切れてきたんじゃない?熱が上がってきてるし。看護師さん呼ぼうか?」
健吾がナースコールを押そうとすると、心配ない、と北条に止められた。
「寝れば治る。おまえこそ、眠れないのか?少し安定剤もらうか?」
北条が言うのに、健吾は「いい、いらない」と首を振る。
「眠れなくてもいいよ。なんか悪い夢見そうだし。それよりはこうして起きてた方が安心する」
蒼馬は寝ていいよ、と言うと「ん」とだけ答えて北条は目を閉じ、すぐに呼吸が深いものに変わった。
高熱のせいで乱れている寝息から辛そうな様子が伝わってくるのに、健吾の体に回された北条の手は、そんな状態でも絶対に緩まない。
鉄柱が倒れてきた時も、決して健吾を潰さないように、自分の体ですべてを支えていた。
本当に、どうしてここまで?と思うぐらい、北条は真摯に健吾を守り続けてくれている。
「でもさ。もう、お別れだよね?蒼馬」
眠る北条の端正な顔を見つめながら、健吾はもうすぐ訪れるであろう未来を口にした。
パタパタと音をたてて、大粒の涙がシーツにこぼれ落ちていく。
全ての事件の発端があの男にあったのなら、もう健吾にボディガードは必要ない。
北条は「全てに決着がついたら二人で考える」と言っていたが、実際には、二人の間に選択出来る未来など存在しない。
北条は、アメリカで天職ともいうべき仕事についている。
彼の本拠地はあちらで、事態が落ち着けば帰国することになるだろう。
今していることの全てを捨てて北条についていくことを考えたこともあるが、果たしてそれで自分自身が納得できるのだろうかと、健吾は思う。
ついていくと言えば、北条はそれを受け入れてくれるだろう。
これまでと同じように一緒に暮らし、そして、新しい土地での生活の何もかも珍しくて、初めは楽しくて仕方がないのに違いない。
けれど、その後は?
特に目的があるわけでもないのに海外に渡り、慣れない生活に疲れ、北条に寄りかかるだけの自分に嫌気が差すだろうことは、自らの性格を熟知している健吾自身が一番よくわかっていた。
事件の解決を望んでいなかったわけではない。
けれど、それは健吾が一番恐れていたことでもあった。
北条との別れ。
それが本当に突然に、目の前の現実として突きつけられた。
今夜は眠らないで、北条の顔を見つめて過ごそう。
北条は健吾に、沢山の幸せをくれた。
愛情を、これでもかというぐらい注いでくれた。
たった一回だったけれど、体を交わしたことは絶対に忘れない。
北条のやさしいキスを、忘れない。
次々に溢れる涙を拭うことも忘れ、健吾は眠る北条の顔を見つめ続けていた。
小寺の弱々しい声が、男の後ろから聞こえた。
「健吾さんを傷つけても、なにもならないよ」
自らの行動を諫めようとする言葉にカッとなったのか、男は振り向きざま、協力者であるはずの小寺にナイフを突き出した。
小寺は切っ先を避けようとして足をもつれさせ、その場に尻もちをつく。
「うるせえうるせえっ!こいつさえいなくなれば、俺がデビューできるんだよ!今こいつが立ってるところは、もともと俺がいるはずの場所だったんだから!」
男は健吾に向き直って襟を鷲掴みすると、体を乱暴に引き寄せ、鼻先にナイフを突きつけた。
「目が見えないのは不便だろうから、やっぱり鼻にしてやるよ。鼻がなければ、テレビに出ようって気も起らないよなあ?」
ナイフを鼻の付け根に強く押し当てられ、健吾は恐怖から固く目を閉じた。
「さあ、言えよ!芸能界引退しますって!そしたらお前のおキレイな顔はこのままだ」
ドスきいた低い声で脅され震えながら、それでも健吾は、ひとつの覚悟を決めた。
鼻がなくなるのは嫌だが、この男に屈するのはもっと嫌だ。
決して「うん」と言ってやるものかと、奥歯を食いしばる。
「お前は変な所で強情だ」と、清文と北条に言われていた事を思い出し、二人の呆れ顔を思い浮かべると、強張っていた体からほんの少しだけ力が抜けた。
健吾が返事をしない事に焦れたらしい男は、ナイフを握る手にさらに力を込め、掴んだ襟元を捩じるようにして、力づくで健吾の首を締めあげながら持ち上げた。
興奮しているらしい男の荒い息遣いだけが、静まり返った部屋に響く。
そういえば、鼻って無くなってもにおいが嗅げるのかな?
一種の逃避なのだろうが妙な疑問が頭に思い浮かび、そんな自分に呆れて笑いがこぼれそうになる。
鼻がなくなっても、蒼馬は一緒にいてくれるかな。
取れてもあとからくっつければ元に戻るかもしれないけど、傷跡は残るだろうな。
こんな時に心に思い浮かぶのも、北条の事ばかりだ。
男に屈して「芸能界を引退する」と言えば良いのかもしれないが、たとえそう言ったとしても、それでこの男がすんなり健吾を解放してくれるとは到底思えなかった。
それならば、抵抗するだけだ。
返事をする様子のない健吾に苛立った男のナイフの切っ先が、徐々に皮膚に食い込み始める。
鼻の付け根に痛みと熱さを感じたが、悲鳴など絶対に上げてやるものかと、健吾は精一杯歯を食いしばった。
「そこまでにしてもらおうか」
カチリ、という音と共に、聞き覚えのある低い声が響いた。
ありえない。入院しているはずの彼がこの場に現れるはずはない。
そう思い、助けを求めるあまりに聞こえた幻聴なのかもしれないと自分を戒めたてみたが、鼻先にかすかに北条のトワレの香りが漂った気がして、閉じていた目をこじ開けた。
開いた視界の先には、確かに北条が立っていた。
左腕を白い布で吊るし、半裸にシャツを肩から羽織っただけの北条が、男の後頭部に銃を突き付けている。
まるで刑事ドラマのワンシーンから出てきた俳優のように、北条は慣れたしぐさで斜めに銃を構え、眼差しに怒りをあらわにして、男の頭に銃口を向けていた。
「健吾を離してナイフを床に置け。指示に従わない場合は即座に発砲する」
怒りを孕んだ北条の低い声が、恐ろしい程に冷たく響き渡る。
銃口を突き付けられた男の顔はみるみる青ざめ、健吾の首から、震え出した手がゆっくりと離れた。
暴力を振るうことは平気でも、振るわれる事には恐怖を感じるらしい。
男が震えながら床に落としたナイフを、北条はすぐさま、リビングへ向けて蹴り飛ばした。
「木山、こいつを縛ってくれ」
木山が梱包用の紐を持ち出し、慣れた様子で手早く男を後ろ手に縛る。
すでに鈴置によって拘束されていた小寺は、暴れるような素振りは全く見せず、憔悴した様子で項垂れていた。
「遅くなってすまなかった」
北条が膝をつき、座り込んでいた健吾に手を差し伸べた。
すぐにでもその手に縋りつきたいのに、どういうわけか体は凍り付いたように動かず、黙って北条を見つめることしか出来ない。
固まったままの健吾に、北条が「どうした、おいで」と優しく微笑みかける。
すると、その声が合図だったかのように体の強張りが取れ、健吾は弾けるような勢いで、北条の胸に飛び込んだ。
「怖い思いをさせたな。もう大丈夫だ」
安心させるように背中を撫でさすると、北条は右腕だけで健吾の体を支え、抱き上げるようにして立ち上がらせる。
さすがに傷にひびくのか、一瞬顔をしかめるのが見えたが、それでも北条は抱き寄せた健吾を離したりはしなかった。
「蒼馬、怪我は?病院は?どうやってここに?」
矢継ぎ早に質問する健吾に、北条は困ったように笑って見せた。
触れる北条の体が、いつもよりずいぶんと熱い気がする。
発熱しているのではないだろうかと心配で顔を見上げたが、北条はいつもと変わらない涼しげな表情をしていた。
「もうすぐ警察が来るはずだ。こいつらを引き渡したら、病院に戻ろう」
片腕だけで健吾を抱き締めながら、北条がそう告げる。
「勝手に抜け出してきたから一緒に怒られてくれ」といたずらが成功した子供のように言う北条に、やはり抜け出してきたのかとあきれるものの、そのおかげで助かったのだから文句は言えなかった。
自分の体を顧みずにここに来ただろう北条に申し訳ない気持ちを感じつつも、それでも助けに来てくれたという大きな喜びを感じていた。
「警察の事情聴取は明日にまわしてもらおう。さすがに色々ありすぎて疲れたな」
こつん、と健吾の頭に自分の頭を軽くぶつけて、北条がこっそりとそうこぼす。
北条が弱音を吐くところなど、初めて見た。
大怪我をして傷口を縫い、入院していたのにも関わらず、この大騒動だ。
日頃清文に超人扱いされている北条でも、さすがに堪えた様子だった。
「あ、そういえば……」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくるのに、ふとあることに思い至る。
先程健吾を抱き寄せる際、北条が無造作に床に置いたもの。
……これ、日本国内で所持していたら、かなりマズイ代物なのではないだろうか。
「蒼馬……あのさ……」
足元に置かれたままの銃に健吾が目をやると、「ああ」と北条が身をかがめ、ひょいとそれを拾い上げた。
いくら緊急事態でも、これを持っていれば立派に銃刀法違反になるに違いない。
だいたい、どこからこんなものを調達してきたのかと不思議に思う。
「モデルガンだ。最近のは良く出来てるな」
とまどう健吾をよそに、銃身を弄びながら、北条はあっさりと偽物なんだと言って笑った。
では、先程のあの緊迫した空気は演技だったのか?と思い、驚きを通り越してあきれてしまう。
本物を扱ったことがあるのだろう北条が良く出来ていると言うのだから、素人目には本物か偽物かなんて区別がつかなくて当然なのかもしれないが、健吾はすっかり本物だと信じ込んでいた。
木山に縛られ、バスルームに閉じ込められているあの男も、本物だと信じていたに違いない。
「本物かと思ってた」
「そんなわけないだろう。日本では銃の携帯は許可はされてないだろうが」
余計な立ち回りを避ける為、威嚇用に持ってきたらしい。
「鈴置の玩具なんだが、証拠品で持っていかれるかな」と北条が呟くと、鈴置がはっとしたように北条を見て、何とも言えない情けない顔を見せた。
どうやら大事なコレクションの一つだったらしい。
健吾を助けるためとはいえ、北条も酷な事をするものだ。
ほどなく警察が到着して、小寺と、その兄を名乗る男が連行されていった。
小寺は連れていかれる際に何度も健吾を振り返り、これ以上はないという程深く頭を下げていった。
もしかすると小寺は、あの狂気をまとった兄に逆らえなかっただけで、犯罪に加担することは本意ではなかったのかもしれない。
結局男の目的はなんだったのか釈然としないままだったが、全ては明日になってからだと北条に諭され、鈴置に送られて病院に戻った。
病院へは、状況の説明と警護を兼ねて、警察官が一人付き添ってくれた。
医師と看護師に脱走のお説教をくらった後、健吾は警察官の口添えで北条の病室に簡易ベッドを用意してもらい、朝まで一緒に休むことになった。
病室の前では念のために私服の警察官が待機してくれるらしい。
発熱している北条のために点滴を用意していた看護師が去ると、北条はおいでと健吾に手招きしてベッドに呼び寄せる。
一人では眠れそうになかったのでありがたく誘いに乗り、健吾は北条の熱い体にぴったりと身を寄せた。
「傷、痛くない?」
「痛むが問題ない。おまえは大丈夫か?」
サバイバルナイフでつけられた二か所の傷跡と殴られた痕を、北条の指がそっと辿る。
傷には保護テープが貼られているし、殴られた所は湿布をしてもらっていたので、今はさほど痛くはない。
「平気」と答えると、北条はうつ伏せから体を起こし、傷のある肩が上になるように横になって、いつものように健吾をすっぽりと抱え込んだ。
「朝、看護師さんが来る前に起きて、自分のベッドに戻らないと」
こんな狭い所に二人で寝ている所を見られたら……と、健吾が照れ隠しにそう言うと、どうせ数時間おきに様子見に来るから、その時バレるぞ、と北条が笑う。
「明日は忙しいだろうから、細かいことは気にせずに、少しでも休め」
北条のいつもより熱い唇が、健吾の額をかすめるようにキスを落とす。
今日一日で色々なことがありすぎたせいで、興奮状態なのかなかなか眠りは訪れそうにない。
小寺の兄という男は、健吾への傷害罪で逮捕された。
小寺もおそらく、犯罪幇助の罪に問われることになるだろう。
一体何故小寺が、そして小寺の兄というあの男が健吾へ憎しみを抱くようになったのか。
高熱の北条の容態が心配なのも、眠れない要因のひとつだ。
向かい合わせで眠る男の額にそっと手を当てると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
「熱い……」
手のひらが火傷してしまうのではないかと思う程に、北条の額は熱かった。
少しでも熱が下がれば、と、健吾は冷えた手を北条の首筋にあてる。
熱を下げるには、体を通っている太い血管を冷やすと良いのだと、どこかで聞いたことがあった。
「冷たいな、おまえの手……」
「蒼馬の体が熱いんだよ」
北条は心配する健吾を見つめ、「そうか」と笑って再び目を閉じた。
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「寝れば治る。おまえこそ、眠れないのか?少し安定剤もらうか?」
北条が言うのに、健吾は「いい、いらない」と首を振る。
「眠れなくてもいいよ。なんか悪い夢見そうだし。それよりはこうして起きてた方が安心する」
蒼馬は寝ていいよ、と言うと「ん」とだけ答えて北条は目を閉じ、すぐに呼吸が深いものに変わった。
高熱のせいで乱れている寝息から辛そうな様子が伝わってくるのに、健吾の体に回された北条の手は、そんな状態でも絶対に緩まない。
鉄柱が倒れてきた時も、決して健吾を潰さないように、自分の体ですべてを支えていた。
本当に、どうしてここまで?と思うぐらい、北条は真摯に健吾を守り続けてくれている。
「でもさ。もう、お別れだよね?蒼馬」
眠る北条の端正な顔を見つめながら、健吾はもうすぐ訪れるであろう未来を口にした。
パタパタと音をたてて、大粒の涙がシーツにこぼれ落ちていく。
全ての事件の発端があの男にあったのなら、もう健吾にボディガードは必要ない。
北条は「全てに決着がついたら二人で考える」と言っていたが、実際には、二人の間に選択出来る未来など存在しない。
北条は、アメリカで天職ともいうべき仕事についている。
彼の本拠地はあちらで、事態が落ち着けば帰国することになるだろう。
今していることの全てを捨てて北条についていくことを考えたこともあるが、果たしてそれで自分自身が納得できるのだろうかと、健吾は思う。
ついていくと言えば、北条はそれを受け入れてくれるだろう。
これまでと同じように一緒に暮らし、そして、新しい土地での生活の何もかも珍しくて、初めは楽しくて仕方がないのに違いない。
けれど、その後は?
特に目的があるわけでもないのに海外に渡り、慣れない生活に疲れ、北条に寄りかかるだけの自分に嫌気が差すだろうことは、自らの性格を熟知している健吾自身が一番よくわかっていた。
事件の解決を望んでいなかったわけではない。
けれど、それは健吾が一番恐れていたことでもあった。
北条との別れ。
それが本当に突然に、目の前の現実として突きつけられた。
今夜は眠らないで、北条の顔を見つめて過ごそう。
北条は健吾に、沢山の幸せをくれた。
愛情を、これでもかというぐらい注いでくれた。
たった一回だったけれど、体を交わしたことは絶対に忘れない。
北条のやさしいキスを、忘れない。
次々に溢れる涙を拭うことも忘れ、健吾は眠る北条の顔を見つめ続けていた。
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