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夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》
異国の楽園
しおりを挟むスイス国境を越え、イタリアへ――。
翠緑珠の海と、碧青珠の空。強い陽光と、ムーア風の白い家々。
ここは南の島……。
緑の鎧戸、赤茶色の屋根、美しく咲き乱れる真紅のブーゲンビリア。
地上の楽園、カプリ。
一番気温が下がる二月でさえ十一度、夏の暑い日でも二五・七度という温暖な気候は、王侯貴族や、裕福な実業家たちが挙って別荘を建てた所以でもある。
「すごいや……」
眼下に海を臨む白い幻想――カプリの白い岩。その崖に貴族たちの別荘が幻想的なまでに聳えている。
ヴィラ・サン・ミケールから臨む紺碧の海。
世界のサロンと呼ばれるほどに多くのカフェが取り巻く、ウンベルト一世広場。
白いドームを持つサン・ステファノ教会と、時計塔。そこからカメレッレ通りを下った高級ホテル。そこに、二人はいた。
「疲れただろう。ゆっくりするといい」
窓の外を眺めるユージンに、薫は微笑ましい思いで言葉を向けた。
「疲れてなんかいないさ。ずっと運転してたのはそっちだろ」
椅子に腰掛ける薫の姿を振り返り、ユージンは言った。
「ナポリからのフェリーで、今にも死ぬようなことを言っていたのは誰だ?」
「あれは――っ。本当に気分が悪かったんだよ。魚が腐ったみたいな匂いがするし、周りは海ばっかだし……」
「クックッ」
長い車の旅でたどり着いた島は、異国情緒溢れる、どこかけだるい楽園であった。
ギリシア植民地時代も、ローマ以後、ゲルマン、サラセン、トルコ、ノルマン、スペイン、フランス、英国と移り変わった外国支配の元でさえ、この島は楽園であったのだ。
「……あの女が意識を取り戻したら、あんたまで追われることになるかも知れない」
ユージンは言った。
薫が玄関に戻った時、リタはまだ息をしてたのだ。もちろん、子供は流産していたが、母体は助かる見込みを備えていた。
そのリタを自宅へ運び、救急車を呼んだのは、薫だった。
「彼女は自宅のバス・ルームで足を滑らせて、流産したんだ。血痕はシャワーで流され、残っていなくても不思議じゃない。彼女は、私の家にも来ていないし、君も彼女とは逢っていない。全て彼女の妄想だ」
薫はユージンの頭を抱き寄せながら、淡々と言った。
「何で……」
「――ん?」
「何で、オレなんかをかばって……」
ユージンは小さな顎を持ち上げて、薫の瞳を辛そうに見つめた。
――何故……。
「……エリオットにはしてやれなかった。国境を越える前に死んだんだ」
「……え?」
「彼が望むものを与えてやれず、傷つけ、一人にした。彼は、男たちに凌辱を受け、その男たちを、殺した」
「――」
「私は、彼を警察に渡したくなかった……。だから、エリオットを連れてイタリアへと向かった。やっと優しくしてやれた。――だが、雨に凍えて高熱を出した後のエリオットの体は、とても弱っていたんだ。彼は眠るように……。本当に静かに死んだ。風の凪ぐ刹那のように……」
薫は、あの日のエリオットの美しさを、静かに、語った。
『ねむい……』
そう言って、エリオットは眠ったのだ。
そして、もう目を醒ますことは、なかった。
「これは、あの日の変奏曲……。どうしてもエリオットに優しくしてやりたかった」
優しく……。
「オレに優しくすれば気が晴れるのかい?」
「フッ……。残念なことに、君がエリオットでないことは、充分過ぎるほどに判っている。どうしてもそこまで狂うことが出来ない。いっそ、狂ってしまった方が楽だろうに……。狂想曲のような空想の世界に棲み、君をエリオットだと信じ込めた方が……」
風のような碧い瞳、海に跳ね返る光のような柔らかい金髪……。
砂浜に波が打ち寄せるように、白い唇が重なった。
多分、それ以上の言葉は必要なかった。
白い幻想の島で肌を重ね、光を浴び、曲を奏でる。
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