ヴァイオリンのためのソナタ【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
36 / 40
夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》

血塗れの死体

しおりを挟む


《期待の演出家、リヒャルト・シュレーダー、新作オペラに挑む――。氏は、作曲家から演出家へと才能の幅を広げ……》
 ――リヒャルト……。
 その名を胸に留めて車を降り、薫は読み終えた新聞を屑カゴに、捨てた。そして、自分の部屋へと足を向ける。

『なあ、カオル、考え直せ。あの子はニューヨークの親元に帰して……』
 リヒャルトはあの日、そう言った。
『あの子は罪にはならない。――確かに酷い殺し方だが、まだ未成年で、そうでなくとも精神鑑定を――』
 公園での事件が報道された日、リヒャルトは薫の部屋に飛んで来たのだ。
『おまえがどうしても行くと言うなら、俺は警察に通報する』
 ――警察に……。
 エリオットと、リヒャルト――どちらを選ぶか決めなくてはならなかった。
『エリオットは……。エリオットは怖かったはずなんだ。気が強くても、たった十七歳の子供だ。男たちに押さえ付けられ、輪姦され……。怖くないはずがない。――警察や精神病院へ連れて行って、また、あの日を思い出させろと言うのか? 心を失うほどの恐怖を、また与えろと言うのか? 誰にもそんなことはさせない。たった一人で怖かったはずなんだ……。もう誰にも傷つけさせはしない。俺があの子を守る』
 ――守る……。
 薫はそう言って、リヒャルトの言葉に背中を向けた。
 その日から、もう三年……。




 ドアを開けた刹那、異様な臭いが鼻を突いた。生臭い――大量の血液が流れたための、血臭だった。
 玄関には、女が血塗れで倒れている。その姿を見て、薫はその場に凍り付いた。
「……リタ?」
 思いがけないことだったのだ。それでも喉を開いて、声をかける。
 マルゲリータは、ピクリ、ともせずに、横たわっている。
 ハッ、とした。三年前のあの日の光景が、脳裏を過った。
 三年前――。四人の男たちに輪姦され、その男たちをナイフで滅多切りにして、放心状態で戻って来た、エリオット――。雨に濡れ、心を彷徨わせ……。
「ユージン! どこにいるんだ、ユージンっ。――ユージン!」
 薫は急いで部屋に入り、脅えているであろう少年に呼びかけた。
 ユージンは、薫の寝室に籠もっていた。ベッドの前に蹲り、膝を抱えて震えている。
「ユージン……」
「ち、違う……! オレじゃないっ。オレは何もしていない。何もしていないんだ!」
「ユージ――」
「首を絞められて、床に倒れて、そしたら勝手に――。本当にオレは……!」
 と、すがるように訴える。
「……。ああ、解っているさ。何があったか話せるか?」
 薫はその細い肩に毛布を掛け、静かな口調で問いかけた。
「オレじゃない……。オレは……」
「リタが――彼女が君の首を絞めたのは?」
「オレ……ここに暮らしてる、って……。あんたと一緒に暮らしてる、って言っただけで……」
 ユージンは、薫の服にしがみつきながら、震えて、言った。
「……そうか。心配しなくてもいい」
「警察はイヤだ……っ。きっと捕まる。オレが何を言ったって、あいつら信じてくれない。オレは本当に何も……」
「ああ、そんなことはしない」
「助かったかも知れないんだ……。オレが救急車を呼べば……。だけど、オレ、喉絞められて苦しくて、気がついたらあの女が血塗れで……それで、オレ……」
「もういい。君のせいじゃない。私が守ると言ったはずだ」
 薫は腕の中にユージンを収め、柔らかい金髪をゆっくりと撫でた。
「……?」
 ユージンが、碧い瞳を戸惑うように持ち上げる。
「オレ……あんたの恋人を……子供を見殺しに……」
「君じゃない。リタが私をどう思っていたにせよ、私に応える積もりはなかった。一人にして悪かった。――喉を見せてごらん」
 顎を持ち上げると、白い喉に痛々しい指の跡が残っていた。相当な力で絞め付けられのだろう。これは証拠になる。エリオットの時と同じように、ユージンは罪にはならない。
 ただ一つ、救急車を呼ばなかった、ということを別にすれば……。
「オレ、本当はもっと酷いことも言ったんだ。あの女が、カオルは他人を部屋に入れたりしない、っていうから、オレ、自分が特別扱いされてるみたいな気分になって、カオルはあんたを嫌ってるから部屋に入れないんじゃないか、って。そうしたら――」
「もういい、ユージン。落ち着くんだ」
 早口でまくし立てるユージンに、薫は頬に手を当てて、言葉を止めた。
「……ああ」
 ユージンは、コクリ、と一つ、うなずいた。
 指示をしてくれる人間がいることで、少し楽になったのだろう。
「ドイツから出たことはあるか、ユージン?」
 薫は訊いた。
「……え?」
「海辺がいい」
「海……。オレ、一度も行ったことないや」
「川や湖と違って、体が浮く。夕方になると、海からの風と陸からの風が代わって、一時、風が凪ぐ。夕凪だ」
「夕凪……」
 ユージンはその言葉をゆっくりと繰り返した。
「どこへ行きたい、ユージン?」
「オレ……国の位置とか、海の場所とか、あんまり知らない」
「地図を見て考えるといい。他のことは何も考えなくていい」
 薫は世界地図をユージンに渡し、玄関に向かった。
 死体を放って置く訳にはいかなかった。
 出発は夜中になった……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

記憶の代償

槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」 ーダウト。 彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。 そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。 だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。 昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。 いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。 こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

【完結】はじめてできた友だちは、好きな人でした

月音真琴
BL
完結しました。ピュアな高校の同級生同士。友達以上恋人未満な関係。 人付き合いが苦手な仲谷皇祐(なかたにこうすけ)は、誰かといるよりも一人でいる方が楽だった。 高校に入学後もそれは同じだったが、購買部の限定パンを巡ってクラスメートの一人小此木敦貴(おこのぎあつき)に懐かれてしまう。 一人でいたいのに、強引に誘われて敦貴と共に過ごすようになっていく。 はじめての友だちと過ごす日々は楽しいもので、だけどつまらない自分が敦貴を独占していることに申し訳なくて。それでも敦貴は友だちとして一緒にいてくれることを選んでくれた。 次第に皇祐は嬉しい気持ちとは別に違う感情が生まれていき…。 ――僕は、敦貴が好きなんだ。 自分の気持ちに気づいた皇祐が選んだ道とは。 エブリスタ様にも掲載しています(完結済) エブリスタ様にてトレンドランキング BLジャンル・日間90位 ◆「第12回BL小説大賞」に参加しています。 応援していただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。 ピュアな二人が大人になってからのお話も連載はじめました。よかったらこちらもどうぞ。 『迷いと絆~友情か恋愛か、親友との揺れる恋物語~』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/416124410/923802748

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

キミの次に愛してる

Motoki
BL
社会人×高校生。 たった1人の家族である姉の由美を亡くした浩次は、姉の結婚相手、裕文と同居を続けている。 裕文の世話になり続ける事に遠慮する浩次は、大学受験を諦めて就職しようとするが……。 姉への愛と義兄への想いに悩む、ちょっぴり切ないほのぼのBL。

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

処理中です...