ヴァイオリンのためのソナタ【完結】

竹比古

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夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》

フォルテシモ

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「とにかく、オレは物盗りでも不法侵入者でもない。鍵も持ってて、ここで暮らしてる。あんたが信じなくても」
 ユージンは言った。
「何ですって……」
 女の瞳が、大きく揺れた。
「カオルが他人と一緒に暮らせない人間だって? オレとは一緒にいるぜ。あんたがカオルに嫌われてて、部屋に入れてもらえないだけじゃないのかい?」
「――。失礼なことは言わないでちょうだい。私を誰だと思っているの? ピアニストのマルゲリータ・ベッツよ。私とカオルは、もう四年も付き合っているわ。彼のヴァイオリンに合わせられるのは、私のピアノだけなのよ」
「へェ。じゃあ、肌が合わないんだろ。――伝言があるなら聞いとくぜ」
 ユージンは肩を竦めて、冷ややかに言った。
 マルゲリータの表情が、再びきつく切り変わった。
「……そう。あなたが原因だったのね。いつ電話を掛けても留守で、何をしているのかと思えば」
「ゲスな詮索だぜ。カオルは――」
 ユージンが言いかけた時だった。
「あなたなんか死ねばいいのよ!」
 長い指が、喉に強く巻き付いた。
「く……!」
「あなたなんか死ねばいいのよ……。この薄汚いゲイ!」
 鍵盤を叩く指が、恐ろしい強さで、細い喉を絞め付ける。
「く……やめ……っ」
 ユージンは、喉を圧迫するその指に、苦しさの中、抗った。
 だが、マルゲリータの指は驚くほどの力で絡み付き、狂気とも呼べる憎悪で締め付けてくる。
 ピアニストには必要な力なのかも知れない。
 息苦しさが、込み上げた。
「薄汚いゲイなんて死んでしまえばいいのよ……。私には彼の子供がいるのよ」
 グっ、と指が食い込んだ。
「……ぅ」
「だけど、あんな男の子供なんてまっぴらだわ……。ゲイの子なんて……」
「く……っ! カオ……ル……は……ストレ……ト……だ!」
 痛みと吐き気が込み上げた。
「殺してやるわ!」
 マルゲリータは、フォルテシモの記号を見つけたように、さらに強く絞め上げた。
「――!」
 凄まじい力に圧倒され、二人とも、勢いよく床に倒れ込む。
「――っ!」
 衝撃に、マルゲリータの指が、刹那、緩んだ。
 だが、抗う間もなく、指はまたすぐに絡み付く。
「……ぅ」
 馬乗りで締め付けられる喉に、意識が朦朧と薄れ始めた。自分の死を眺めているような、そんな冷静な気分、だった。
 幼い日、何度もそんな光景を前にしたのだ。殺される、と思っていた。
 明け方に見た悪夢――。あれは、この出来事の予兆だったのだろうか。
 夢から醒めた時、側には薫がいた。
 だが、今は……誰も、いない。
 そんなことを考えながら、ユージンは抵抗をやめて、目を暝った。
 マルゲリータの指が離れたのは、その時だった。
 喉がフッと軽くなり、同時に酸素が喉に詰まった。
 苦しさと痛みが、消えもせずに、喉を責める。
 ユージンは、ままならない自発呼吸に噎せ返り、込み上げる嘔吐に咳き込んだ。
 なぜ指が離れたのかは、解らなかった。まだ、それを気にかける余裕もなかったのだ。
 何度も咳き込み、涙を滲ませ、懸命に酸素を取り入れる。
 酷い痛みが喉に、あった。それでも少しずつ呼吸が楽になる。咳きも止まり、吐き気も徐々に治まって行く。
 その時やっと、マルゲリータの声が耳に届いた。
「あぅ……っ。……! く――っ」
 マルゲリータは床の上に蹲り、脂汗を浮かべてのたうっている。背中を丸め、腹を抱えて痛みを堪え……。その下半身は、服を染め変えるほどの血で濡れていた。
 もちろん、それが何であるのか、ユージンには最初、解らなかった。
 それでも、マルゲリータの言葉を思い出し、その原因に思い当たった。
 流産――床に倒れた衝撃と、精神的なショックで流産したのだ。
「う……あ……っ!」
 苦しげな呻きは、続いていた。
 ユージンはその姿に茫然として、碧い瞳を見開いた。腰を擦るように後ずさり、ガタガタと震える体を抑えつける。
 立ち上がることは、出来なかった。どうしていいのか判らない光景に、鼓動が激しく脈打っていた。
 赤い血が、服を通して広がっていく。
 速い息遣いと呻きが、聞こえた。
 苦悶に歪む顔が、見える。
 そして……風が止まった。


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