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夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》
禁問
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夜中近く――。
ベルリン・ドイツ・オペラ座の幕が、閉じた。
夕刻に始まったオペラが、やっと終わったのである、ユージンにとっては。
「アー、腰が痛いっ」
と、不機嫌を露に、席を立つ。
「若い人間が何を言ってるんだ」
「夕方からずっと座ってるんだぜ」
「大袈裟だな。休憩があっただろう」
「休憩時間よりも、上演時間の方が長かったじゃないか」
「当然だ」
薫は冷ややかに一瞥を送り、溜め息混じりに歌劇場を後にした。
冷え込む夜にコートを纏い、車の方へと足を向ける。
「で、結局、あの女は何で死んだのさ?」
車に乗り、鑑ていなかった、と言わんばかりに、ユージンが訊く。
「疑念を吹き込まれたエルザが禁問をするからさ」
「禁問?」
「白鳥の騎士に、『名と素性を尋ねてはならない』と言われていたのに、エルザは婚礼の晩にそれを尋ねてしまう。そして騎士は『聖杯の騎士ローエングリン』であると名乗り、名乗った以上、帰らなくてはならず、宿命のままに立ち去る。そして、エルザは哀しみのあまり、息絶える」
車は夜の通りを走っていた。
「ふーん。――あんたにも禁問ってあるのかい?」
ユージンの視線が、薫の横顔を覗き込んだ。
「さあな」
はぐらかしたわけではないが、薫としては、あるともないとも言いようがない。
「弟、死んだんだってな。この前、聞いたよ」
「――」
まさか、ユージンがそんなことを知っているとは、思ってもいなかったのだ。だから、表情がわずかに、強ばった。
ハンドルを握る指先が、夜明けのように、白く、染まる。
「これは禁問かい?」
ユージンが訊いた。
「……。義理の弟だったんだよ。私の兄の結婚相手の弟で」
「アメリカ人?」
「ああ。……小さい頃から、私の周りをうろついていた。愛らしい赤毛と、ソバカスだらけの無邪気な顔をしていた」
静かな口調で、薫は言った。
まだ七つの頃から、薫のそばをうろついていた子供――。その幼子が、十年経って、このベルリンへ薫を訪ねて来たあの日――。愛らしい赤毛は、柔らかい金髪に変わり、ソバカスなど一つも見当たらず、風のような碧い瞳で、カッフェとプレーツェルを手に歩いて来た。
かつて愛した女性――兄と結婚した彼の姉にあれほど似ていなければ、或いは、傷つけずに済んだかも、知れない。
『ぼくは……にーさんに逢いたかっただけなんだ……』
『生憎、俺はゲイじゃない。ニューヨークで生まれ育ったおまえとは違うんだ。そういう相手が欲しいのなら、ニューヨークで探せ』
その言葉に、彼は車を飛び降り、駆けて行った。
柔らかい金髪と、碧い瞳をした少年、エリオット……。
「――肺炎だったんだって?」
柔らかい金髪と、碧い瞳を持ち上げ、ユージンが訊いた。
「……。ああ」
「その弟――エリオットって、オレに似てるのかい? 前に、オレをそいつの名前で呼んだだろ?」
「質問攻めだな」
「……」
「君が考えている通り、弟を亡くしてから頭がおかしくなって、君をあそこから拾って来たのさ」
スピードを落として、駐車場へと車を入れる。
「オレ、別にあんたのことを調べ回ったりしてた訳じゃないぜ。ただ、偶然耳にして、それで……」
「それで?」
「それで……。禁問をしたから追い出すかい?」
ユージンが、眉を下げて、上目使いに薫を見上げる。
どこかコケティッシュで、そんなところがおかしかった。
ベルリン・ドイツ・オペラ座の幕が、閉じた。
夕刻に始まったオペラが、やっと終わったのである、ユージンにとっては。
「アー、腰が痛いっ」
と、不機嫌を露に、席を立つ。
「若い人間が何を言ってるんだ」
「夕方からずっと座ってるんだぜ」
「大袈裟だな。休憩があっただろう」
「休憩時間よりも、上演時間の方が長かったじゃないか」
「当然だ」
薫は冷ややかに一瞥を送り、溜め息混じりに歌劇場を後にした。
冷え込む夜にコートを纏い、車の方へと足を向ける。
「で、結局、あの女は何で死んだのさ?」
車に乗り、鑑ていなかった、と言わんばかりに、ユージンが訊く。
「疑念を吹き込まれたエルザが禁問をするからさ」
「禁問?」
「白鳥の騎士に、『名と素性を尋ねてはならない』と言われていたのに、エルザは婚礼の晩にそれを尋ねてしまう。そして騎士は『聖杯の騎士ローエングリン』であると名乗り、名乗った以上、帰らなくてはならず、宿命のままに立ち去る。そして、エルザは哀しみのあまり、息絶える」
車は夜の通りを走っていた。
「ふーん。――あんたにも禁問ってあるのかい?」
ユージンの視線が、薫の横顔を覗き込んだ。
「さあな」
はぐらかしたわけではないが、薫としては、あるともないとも言いようがない。
「弟、死んだんだってな。この前、聞いたよ」
「――」
まさか、ユージンがそんなことを知っているとは、思ってもいなかったのだ。だから、表情がわずかに、強ばった。
ハンドルを握る指先が、夜明けのように、白く、染まる。
「これは禁問かい?」
ユージンが訊いた。
「……。義理の弟だったんだよ。私の兄の結婚相手の弟で」
「アメリカ人?」
「ああ。……小さい頃から、私の周りをうろついていた。愛らしい赤毛と、ソバカスだらけの無邪気な顔をしていた」
静かな口調で、薫は言った。
まだ七つの頃から、薫のそばをうろついていた子供――。その幼子が、十年経って、このベルリンへ薫を訪ねて来たあの日――。愛らしい赤毛は、柔らかい金髪に変わり、ソバカスなど一つも見当たらず、風のような碧い瞳で、カッフェとプレーツェルを手に歩いて来た。
かつて愛した女性――兄と結婚した彼の姉にあれほど似ていなければ、或いは、傷つけずに済んだかも、知れない。
『ぼくは……にーさんに逢いたかっただけなんだ……』
『生憎、俺はゲイじゃない。ニューヨークで生まれ育ったおまえとは違うんだ。そういう相手が欲しいのなら、ニューヨークで探せ』
その言葉に、彼は車を飛び降り、駆けて行った。
柔らかい金髪と、碧い瞳をした少年、エリオット……。
「――肺炎だったんだって?」
柔らかい金髪と、碧い瞳を持ち上げ、ユージンが訊いた。
「……。ああ」
「その弟――エリオットって、オレに似てるのかい? 前に、オレをそいつの名前で呼んだだろ?」
「質問攻めだな」
「……」
「君が考えている通り、弟を亡くしてから頭がおかしくなって、君をあそこから拾って来たのさ」
スピードを落として、駐車場へと車を入れる。
「オレ、別にあんたのことを調べ回ったりしてた訳じゃないぜ。ただ、偶然耳にして、それで……」
「それで?」
「それで……。禁問をしたから追い出すかい?」
ユージンが、眉を下げて、上目使いに薫を見上げる。
どこかコケティッシュで、そんなところがおかしかった。
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