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夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》
リハーサル
しおりを挟む一人になってしまうと、やることもない。考えることは、といえば、カオル・コウサカ――日本人青年ヴァイオリニストのことで――。何となく顔にも見覚えがあるのは、多分、どこかのポスターで見かけたせいだろう。
しばらく何をするでもなくポツンと佇み、
「よし」
ユージンは、鍵を手に取って部屋を出た。
外はいつもほど寒くはない。――いや、それは、薫にもらった暖かいセーターのお陰であっただろうか。
日本のように夏と冬の気温差がそうある訳でもなく、高緯度にあるとは言え、大西洋からの暖かい風のお陰で、耐えられない寒さは存在しないこの国は、一番気温の低い一月でも、平均気温は摂氏〇度前後であり、その代わり、夏の盛りの七月でも、平均気温は二〇度に達しない。
ユージンは、薫のスケジュール帳に記してあった今日の予定を思い出しながら、電車の駅へと向かい始めた。
「Nein! Nein!」
辺りが静まり返るほどの勢いで、ホールに怒鳴り声が響き渡った。
ヴァイオリンを下ろし、秀麗な青年がオーケストラを止めてしまったのだ。それだけではなく、恐ろしく早口のドイツ語で、憤りを露に指揮者に食ってかかっている。
指揮者の方も、もう六十歳を過ぎているであろうに、負けてはいない。
オーケストラのメンバーは、その二人の派手な騒ぎを止めるでもなく、呑気に笑いながら眺めている。
――目覚ましの音を聴かなくても不機嫌じゃないか。
ユージンは、空っぽのホールの片隅で、指揮者に食ってかかる薫の様子を眺めて、呟いた。
二人とも凄まじい勢いで怒鳴り合い、今にも床を踏み抜きかねない勢いで、互いの主張をぶつけている。
「ナイン! 違うと言っているだろっ!」
「ナイン! ナイン! この曲はそんなテンポじゃないっ!」
どちらも折れる様子はまるでない。
ユージンは、始まりこそ唖然としていたものの、今は緊張の面持ちで見つめていた。
昨夜の通りでの一件からしても、薫は指揮者を殴りかねない勢いである。そして、指揮者の方も――。いや、薫に殴られては、その年からして、一発であの世に逝ってしまうかも知れない。
確かにヴァイオリンは体力が要りそうだった。
少し違うかな、という気もしたが、そう納得する。どう見ても、これならケンカ慣れするとしか思えない光景であったのだ。
二人の揉め事の原因は、リハーサルのヴァイオリン協奏曲だった。薫が独奏でヴァイオリンを弾いているものだ。
自分の解釈こそ唯一、と信じ、日本人の言葉になど耳を貸さないドイツ人と、それでも怯まず自分の解釈をまくし立てる薫――。ガンコな指揮者を相手に、その怒鳴り声は続いていた。
――あいつ、やっぱり怖い……。
ユージンは、ホールに響き渡る口論に、少し身を縮めて後ずさった。その時だった。脇のドアが音もなく開き、大柄な男が姿を見せた。恐らく、関係者なのだろう。
「おい、坊主、そこで何をしてるんだっ」
と、ユージンの姿を見つけて、厳しく言う。
「あ……」
「今日はリハーサルだ。どこから入った?」
「あの……えーと、カオルの……」
「カオル?」
「あ、ああ、そうだよ。カオルの弟の知り合いなんだ。ほら、ニューヨークの。それで、遊びに来てて」
ユージンは、昨日、薫から聞いた話を口にした。
「弟……。そうか。あいつ、弟が死んでから変わったからな」
男は、ポツリ、と呟いた。
――死んだ?
ユージンには初耳である。薫の口からは、そんな話など出て来てはいなかったのだ。それどころか、今でも生きているような口ぶりだった。
「おっと、悪かったな。おまえさんの前でするような話じゃなかった」
男は、『薫の弟の知り合い』たるユージンの沈黙に、慌てるように言葉を被せた。
だが、ユージンの沈黙は、そのせいでは、ない。
「――カオルが変わった、って、どんな風に? 今みたいに凶暴になったのもそのせいなのか?」
と、不安を胸に問いかける。その凶暴さの被害に合う人間がいるとすれば、それは間違いなく、あの部屋に連れて来られたユージンなのである。
「凶暴? ――クックッ! こいつはいいっ」
男は、そのユージンの言葉を、心底楽しげに笑い飛ばした。
「なっ、何だよ。現に、別人みたいに怒鳴ってるじゃないかっ」
「クックッ……。あれは以前からさ」
「以前からあんなに怒りっぽいのかい?」
「気に入らないから怒るのさ」
「え?」
ユージンは、理解できない言葉に、首を傾げた。
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