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夕凪の変奏曲《ヴァリエーション》
夕凪
しおりを挟むカッフェの匂いが、部屋の中に立ち込め始める。
「私が食べさせてやる。理由は、君が気に入ったからだ」
「――。金持ちの日本人の気まぐれかい?」
「ああ」
カチャカチャとカップを取り出す音が、重なった。
クゥ、と鳴ったおなかの音に、
「あ――」
ユージンは慌てて、おなかを押さえた。
「クックッ。カッフェよりも、食事の支度の方が良かったな」
黒い瞳が楽しげに細まり、心地よい笑いが広がった。
「ちょうど腹が減る時間だったんだよっ」
ユージンは、真っ赤になって言い返した。そのユージンを横目に、薫の表情は、思いがけないほど、優しい形に変わっていた。
――こいつ、イカれてるけど、結構……。
「クックッ……。すぐに用意してやろう」
と、小刻みに肩を震わせながら、冷蔵庫の中を覗いている。笑いをかみ殺しているのだ。
ユージンはその姿を憮然と睨みつけ、白い唇を尖らせた。
殴ってやろうか、とも思ったが、それは勝ち目がなさそうなので、踏み留まった。
「あんたが作るのかい?」
と、むっつりとしながら、問いかける。
「私のことはカオルと呼べばいい。料理は全く出来ない。指を怪我したくないのでね」
「……どーだか。カールを思いっ切り殴ってたじゃないか」
「――ん?」
「い、いやっ。別に……っ」
ユージンは慌てて首を振った。
所謂、触らぬ神に崇りなし、というやつである。
「心配しなくても、料理に毒は入っていない。週に二度、ヘルパーが部屋を掃除した後、置いて行ってくれる。後は外食だ。以前は友人がやってくれていたんだが……ケンカ別れをしてね」
冷蔵庫から取り出した食事をレンジに入れながら、薫が言った。
「ふーん……。ま、あんたの性格ならそんなとこだろうな」
ここでも、『それが、あんたがフラれた恋人かい』とは訊かない。君子危うきに近寄らず、というやつである。
少しすると食事の支度も整い、テーブルの上に、暖かい料理が並び始めた。
「好きなメニューならいいが――」
「ハッ! イギリス人じゃなくても、食い物に文句をつけたりはしないさっ」
ユージンは両手を広げて天を仰ぎ、遠慮なく料理を頬張り始めた。
「……そう尖らなくてもいい。牙を剥いて威嚇しなくても、ここには君を傷つけるものはいない」
「……え?」
「ニューヨークに、君と同じくらいの年の弟がいる。こっちも結構、気が強い」
「エリオット――って奴じゃないよな。日本人の名前じゃないだろーし」
「……。さあ、食べるといい」
何となく不思議な食事の時間が続いた。
イカれてる割りには優しい日本人と、通りで拾われた街娼。
風が、凪ぐ……。
無風の空間に、音が、広がる。
これは、夕凪……。
夕方、海辺で、海からの風と、陸からの風が代わる時、一時、風が止まる。
その夕凪のように、無風が音を奏でる。
これは、夕凪の変奏曲……。
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