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朝凪の協奏曲(コンツェルト)
永遠の都へ
しおりを挟む車は、夜に染まる美しい街並みを、静かな振動で駆け抜けていた。
助手席では、エリオットが毛布に包まり、スヤスヤと寝息を立てている。
あれから、薫はエリオットを乗せて、イタリアへと陸路を辿っていた。
三時間も走っただろうか。
車は、バッハやゲーテを初めとする芸術家を育てた、ザクセン地方に乗り入れた。
エルベ川の川岸に開けたこの街、ドレスデンは芸術の都であり、薫がこの街を通ることにしたのも、決して偶然ではない。
「見てごらん、エリオット。ツヴィンガー宮殿の『王冠の門』が浮かんでいる」
堀の前で車を止め、薫は、夜に幻想的に浮かび上がる美しい門壁を視線で示した。
ドイツ・バロック様式を代表するその宮殿は、アウグスト一世の離宮として建てられ、十九世紀に北側部分をイタリア・ルネッサンス様式で構造し、現在の形になった。
ドイツからイタリアへと移り変わったその形は、今の彼らに相応しいものではなかっただろうか。
ポゥと光り輝き、水面に映し出されるその姿は、溜め息が零れるほどに神秘的で、光りに包まれるゼンパー・オペラ座の堂々とした正面や、宮廷教会、レジデンツ宮殿……全てを幻想的に映している。
薫が助手席のシートを起こすと、エリオットは薄く瞳を開き、闇に浮かぶ幻想の宮殿へと視線を向けた。
あどけない横顔が、その宮殿以上に、夜の中に美しく映える。
「宮殿の裏手には、妖精の泉がある」
喜ぶかと思って告げたその言葉にも、
「……ねむい、カオル」
夢現のように、不満を零して、目を擦る。
本当に、小さな子供そのものだった。
「ああ、そうだな。眠るといい」
薫はエリオットの肩まで毛布を引き上げ、再びシートを後ろに倒した。
車を走らせる中、胸には充足感が広がっていた、今まで得られることのなかったものである。
愛しさだけを募らせ、優しさだけを見つめる、そんな……。
同じ傷を持つのなら――、同じ痛みを知るのなら――、もう互いを傷つけ、心を痛めることもないだろう。
地中海を臨み、温暖な地に静かに暮らし、受けた傷を、与えた痛みを、共に癒しながら過ごせばいい。
イタリア――永遠の都で……。
徐々に夜が色づき初め、翠の森が黄金色に輝き始める。そんな、光が満遍なく降り注ぐ時間になると、心地よい風が吹き抜けた。
薫は、光溢れる森の中で車を止め、その風を取り入れるように窓を開けた。
エリオットは静かに眠っている。
「寒いかな」
そう呟いて、エリオットの肩に毛布を掛け直した時、流れていた風が、不意に、止まった。
睫一つ揺れない眠りと、光りに彩られる唇が、冷たく凍るように夜明けの色を映して、いる。
「……エリオット?」
薫は震える声で、その静かな眠りに呼びかけた。
エリオットは目を醒ます訳でもなく、ただ沈黙を守っている。
「エリオット……」
触れた頬が、冷たかった。
呼吸が止まっていることも、上下しない胸や、口元に当てた指から、伝わって来た。
幻のように白く儚い横顔は、夜に浮かぶ王冠の門以上に美しく、開かない瞳も、動かない唇も、人の温もりを忘れていた。
「エリ……」
息苦しさに、胸が詰まった。
視界が霞み、頬に熱い雫が零れ伝う。
こんなことになるなど、誰が思っていただろうか。
高熱に蝕まれたばかりのエリオットの体には、耐えられる旅ではなかったのだ。
『ぼくは……にーさんに逢いたかっただけなんだ……』
『にーさんは、ぼくの理想だったんだ……』
『ぼくも大きくなったら、カオルみたいになるんだ』
――エリオット……。
「地中海へ……行こう……エリオット……。かつて、多くの芸術家たちが南の国に憧れ、アルプスを越えたように……。メンデルスゾーンが焦がれた地上の楽園へ……。ワーグナーが生涯を終えた光の国へ……。小さな海辺の街に暮らして、二人、静かに……。無風の奏でる協奏曲のように、静かに暮らして……」
車は、涙で曇る視界の中、イタリアへと走り始めた。
あまりに静かに逝ってしまった少年……。
誰よりも美しく、誰よりも穏やかに、まるで、風の凪ぐ朝を見つめるように……。
彼は、朝凪……。
夏――。
地中海の入り江にあたるティレニア海岸は、断崖や岬を背景に、海面にきらめく白い光を、眩しいほどに波に映して散りばめていた。
その岬の町に、美しいヴァイオリンの歌声が響き渡った。
「素敵ね……」
「カオル・コウサカでしょう? 今、彼のチケットを手に入れるのは大変ですもの」
「以前にドイツで彼のヴァイオリンを聴いたことがあるけど、息が詰まるほどに切ない響きで、哀しくて……。でも、今の彼のヴァイオリンは何て言うか……彼の音だけじゃないような……。陸からの風と、海からの風が交差するような」
「それじゃあ音も何もない『無風』じゃない」
「それでも音が聴こえるのよ。とても暖かい歌声が……」
風の凪ぐ刹那――朝凪のような協奏曲が……。
※夕凪の変奏曲へ続く
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