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朝凪の協奏曲(コンツェルト)
優しいカオル
しおりを挟む「しっかりするんだ、エリオット。俺はここにいる。カオルはここだ」
震える肩を優しく包み、自分を呼ぶエリオットの声を受け止める。
碧い瞳が、薫の方へと持ち上がった。
「見えているだろう、エリオット? もう心配ない。俺はここにいる」
その言葉に、戸惑うような時間が流れた。
そして、くすっ、と屈託のない、笑み――。
「やだな。カオルはまだ十七さいだよ。ぼくと十さいしかちがわないんだ。あなたのことじゃないよ」
あまりに無邪気に、エリオットは言った。仕草も笑みも、まるで幼子のように、あどけない。
「あなたも日本人? カオルといっしょだね。カオルもね、日本から来たんだ。すごくかっこいいんだよ」
「……エリオット?」
「あなたに、すこし、にてる」
一体、何が起こった、というのだろうか。
「何を……。どうしたんだ? 何があった、エリオット? 俺はカオルだ! おまえの目の前にいるのがカオルだっ」
普通ではないエリオットの様子に、胸が握りつぶされて行くようだった。
「……? くすっ。あなたもカオルっていう名前なの? じゃあ、それもいっしょだね」
「……」
――このエリオットは……。
「あのね、カオルはね、とてもやさしいんだ。いつもぼくとあそんでくれて、いっぱい、いろんなことを教えてくれる」
「エリ……」
「ぼくも大きくなったら、カオルみたいになるんだ」
このエリオットは、まだ薫と出会ったばかりの――やっと七つになった頃の、小さく幼いエリオットなのだ。そしてそれは、彼が今、一番望んでいる姿であったに違いない。まだ薫が、自分に優しくしてくれていた、あの頃の……。十年前の優しい薫を、エリオットは、今の薫に求めている。
「……。シャワーを浴びて服を着替えよう、エリオット」
彼をこんな風にしてしまったのは、優しくできなかった薫自身だったのだ。
「でも……。家に帰らないと、マミーが心配するから」
「マミーとダディには俺が連絡をしておく。 ――おいで」
「うん。――カオルにもしてくれる?」
「……。ああ」
何故、こんなことになってしまったのだろうか。
それとも、こうなることでしか、エリオットには、薫に優しくしてもらえる手段を見つけることが出来なかったのだろうか。
だとすれば、そこまで彼を追い込んでしまった、薫は――。
薫もまた、このまま無傷ではいられない。自分だけが傷ついているような顔をして、本当は、傷つく前に相手を傷つけてしまっていた頃のようには……。
バス・ルームでシャワーを注ぐと、その飛沫に、エリオットが迷惑そうな顔をした。
「い……いたい」
と、熱いシャワーに体を縮める。
「体が冷えきっているからだ。もう少し我慢していれば慣れる」
「う……」
「――擦り傷に染みるのか?」
エリオットの体は凍えているだけではなく、そこかしこに擦り傷や打ち身のような痕があった。
あのボロボロになった服の有様からしても、どこかでケンカでもしたのかも知れない。
「ここ……いたい」
エリオットが体を捩って、滲みる個所を薫に示した。
ケンカではない――、のだ。
「……何があったか覚えているか?」
薫は訊いた。
「???」
エリオットが首を傾げる。
「いや、いい。思い出す必要はない」
聞かずとも、エリオットのあの怯えた様子を思い出せば、何があったのかは察することが出来る。そして、そこに追い込んだのは、他でもない薫自身――。
薫を慕い、ただ一生懸命に、真っすぐな気持ちで逢いに来た少年を、捨て切れない過去と重ねて、残酷な言葉で撥ね付けた。それが、全ての原因であったのだ。
シャワーを終えて、パジャマを着せると、エリオットが、心配そうに口を開いた。
「ミスター……」
「カオルだ。――何だ?」
「ダディとマミーは、いつ迎えに来てくれるの? カオルも――ぼくの家のとなりのカオルもいっしょに来る?」
今のエリオットには、もう薫は『カオル』ではないのだろう。
「……。ああ。すぐに迎えに来てくれるさ。カオルも一緒に。――お腹が空いているだろう?」
「うん」
「すぐにスープを暖めてやろう。座って待っているといい」
今さら優しくしてやるくらいなら、何故、最初から優しくしてやれなかったのだろうか。
何故、もっと彼を見てやろうとしなかったのだろうか。
キッチンへと向かう中、薫はきつくこぶしを結んだ。
汚れてボロと化したエリオットの服が、廊下の隅で丸まっている。草の汁や泥以外にも、何かのシミが広がっていた。濃い色の服であることと、土砂降りの雨に濡れたせいで、元の色は判らないが。
薫はそれを拾って、ゴミ箱へ捨てた。
『ぼくも大きくなったら、カオルみたいになるんだ』
――俺みたいに……。
リヒャルトが姿を見せたのは、外がすっかり明るくなってからのことであった。
ベッドに眠るエリオットの事情を説明するのに、そう長くは掛からなかった……。
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