7 / 40
朝凪の協奏曲(コンツェルト)
想い
しおりを挟むそこには、さっきまでホールでヴァイオリンを奏でていた、薫がいた。
「にーさ……」
「――ったく、どういう積もりだ、エリオット! おまえのお母さんから電話があって、おまえの様子を尋ねられた時は、返す言葉もなかったよ。――ニューヨークへ帰らず、何をしている? 世界で一番古い職業にでもついて、春を鬻ぐ積もりで――」
「あなたは他人のことまで気にするのかい、カオル・コウサカ?」
きつい眼差しで、エリオットは言った。
多分、そんな言い方をする積もりはなかった。薫がもっと優しい言葉をかけてくれて、自分のことを心配してくれていたのなら、きっと素直な言葉を返していただろう。――いや、それはエリオットだけでなく、薫の方も同じことだったかも知れない。エリオットが素直にニューヨークへ帰っていれば、卒業後に遊びに来ることくらい、許してくれていたかも知れない。
だが、エリオットは薫の言葉に傷ついていたし、薫もまた、過去の傷と、一人でドイツに残った義弟を心配して、五日間の時を費やしていたのだ。
お互い、瑠璃細工のように、壊れやすい心しか持ち合わせてはいなかった。
だから、素直になることが出来なかったのだ。
「この街では売春も政府に公認された正式な職業だよ。あなたにそんなことを言われる覚えは――」
「来るんだ」
薫の方が先にエリオットの手をつかんだのは、多分、この五日間、ずっとエリオットの心配をしていたからだろう。
そんな心配や優しい言葉を、互いに口に出せれば良かったのかも知れないが……。
薫に手をひかれるまま、エリオットはベンツの後部座席に乗り込んだ。
運転席には、リヒャルトがいる。
車は静かに走り出した。
こうして、薫が自分を見つけてくれることを期待して、あのホールに薫のヴァイオリンを聴きに行ったのだ、きっと……。
「……にーさんのヴァイオリン、聴いたよ」
エリオットは言った。
「ああ。リヒャルトから聞いた。リヒャルトがホールにいるおまえを見つけなければ、あのままどうなっていたか――。子供とはいえ、ニューヨークで生まれ育った人間が、知らない男たちにノコノコと付いて行くような真似をするとはな。正式な売春をしたければ、十八歳になってからやれ。それが許可年齢だ」
厳しい口調だったが、それがエリオットを心配しての言葉だということは、解っていた。だからもう、解らないフリをして、反抗して見せるような真似も出来なかった。
「……。嘘だよ。知らなかったんだ。カフェ・テリアの前で貼り紙を見てたら、その中からあの人たちが出て来て、声をかけられて――。だから、その店の人たちかと思って……」
「帰りのチケット代なら出してやる。さっさとニューヨークへ帰れ」
「にーさん――!」
「もう、金もないんだろう?」
確かに薫の言う通りである。だから、カフェ・テリアの貼り紙を見ていたのだから。
「……。仕事をするよ。もっとちゃんとした。ドイツで暮らしたいんだ。だから――」
「馬鹿なことを言うな! ガキのくせに何が仕事だ」
「ぼくは子供じゃない!」
「ハッ! ああ、立派な大人だ。呆れるくらいにな」
「――」
何故、こうなってしまうのだろうか。薫の心配や自分の愚かさは、充分過ぎるほど解っているというのに――。それでも、このままニューヨークに帰る訳には行かない。帰ってしまえば薫は、来年の春にはピアニストのマルゲリータ・ベッツと結婚してしまうのだから……。
「明日の朝の便を取ってやろう。今夜のホテル代も出してやる」
「ぼくは――っ」
思いの丈をぶちまけようとした時、
「おいおい、二人とも車の中で喧嘩はやめてくれ。気になって仕方がない」
運転席のリヒャルトが、顰めっ面で振り返った。
「ああ、すまない。このまま空港の近くのホテルへ運んでくれ」
少しも優しくない薫の言葉に、エリオットは唇を噛み締めた。
ずっとこの日を楽しみにしていたというのに――。夏休みをバイトで潰してお金を溜めて、雑誌の切り抜きを捨てることも出来ず、やっと、このベルリンへ来ることが出来て……。
それなのに……。
一言でいいのだ。一言、最初の言葉が出てくれば、後は、言いたかった言葉が、後に続く。
車はそんな雰囲気の中、ただ沈黙を乗せて、夜のベルリンを駆け抜けていた。
「夕食は? まだ食べていないんだろう?」
薫が言った。それは、エリオットが口を開く切っ掛けでも、あった。
「ぼくは……。ぼくは、にーさんと一緒にいたかったから……」
「……え?」
「いつだって、にーさんに逢いたかったんだ……。でも、ずっと我慢して……。夏休みにバイトをして、お金を溜めて……次の休みに……。そう思って我慢してたけど、ニューヨークの雑誌に、にーさんの記事が載ってるのを見たら、我慢できなくなって……。逢いたかったんだ。にーさんは少しも連絡をくれないし……勝手に引っ越すし……」
言葉は、次々と溢れ出した。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

記憶の代償
槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」
ーダウト。
彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。
そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。
だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。
昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。
いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。
こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。


初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
【完結】はじめてできた友だちは、好きな人でした
月音真琴
BL
完結しました。ピュアな高校の同級生同士。友達以上恋人未満な関係。
人付き合いが苦手な仲谷皇祐(なかたにこうすけ)は、誰かといるよりも一人でいる方が楽だった。
高校に入学後もそれは同じだったが、購買部の限定パンを巡ってクラスメートの一人小此木敦貴(おこのぎあつき)に懐かれてしまう。
一人でいたいのに、強引に誘われて敦貴と共に過ごすようになっていく。
はじめての友だちと過ごす日々は楽しいもので、だけどつまらない自分が敦貴を独占していることに申し訳なくて。それでも敦貴は友だちとして一緒にいてくれることを選んでくれた。
次第に皇祐は嬉しい気持ちとは別に違う感情が生まれていき…。
――僕は、敦貴が好きなんだ。
自分の気持ちに気づいた皇祐が選んだ道とは。
エブリスタ様にも掲載しています(完結済)
エブリスタ様にてトレンドランキング BLジャンル・日間90位
◆「第12回BL小説大賞」に参加しています。
応援していただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。
ピュアな二人が大人になってからのお話も連載はじめました。よかったらこちらもどうぞ。
『迷いと絆~友情か恋愛か、親友との揺れる恋物語~』
https://www.alphapolis.co.jp/novel/416124410/923802748
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる