幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 拾壱

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 仔羊を煮たフェリコールや、山羊の乳で作ったチーズや白キャベツ、何より豊富な魚介類……バイキング料理を堪能して、冷え込む夜に暖炉の前で寛いでいると、マーニは疲れてしまったのか、安心してホッとしたのか、話もそこそこに、すぐに、うつらうつらと寝てしまった。
 久しぶりの我が家と、慣れ親しんだ食事だったのだから、無理もない。
「君とマーニ――水龍、だったかな――のことを話してくれないか」
 そのマーニを傍らに、エドウィンドは訊いた。
「そんな、いい話じゃないけど……」
 国龍のその前置きの後に始まったのは、エドウィンドが想像すらしていなかった、過酷で残酷な運命だった。
 二人が四川省の貧しい農家に生まれたこと。
 少女売春婦だった母が死に、売られそうになる水龍を放っておけなくて、まだ八つの時に家を飛び出したこと。
 福建に着くまでに出来た借金を返すために、置屋に売られたこと。
 客を取る日を前に逃げ出したが、すぐに捕まって、死ぬほど殴られたこと。
 二人一緒に逃げることを諦め、一人ずつ別々に逃げることにしたこと。
 そして、水龍が逃げ出した後、連絡が途絶えてしまったこと。
 その後も国龍は逃げ出せず、置屋で客を取り続けるしかなかったこと。
 数年後、ラルフに身請けをされ、水龍を探すためにLAに渡ったこと。
 そして、やっと水龍を見つけた時、水龍はもう、他人、になっていたこと……。
 まだ十数年しか生きていない少年であるというのに、そこには何となく時間を費やしている人々の何倍――いや、何十、何百、何千倍の、人生の重さが綴られていた。
「そうか……。僕は、君たち家族も、密航船でマーニを見殺しにした一人だと思っていた……」
 判ってみれば、こんなにも簡単に、お互いを解りあえることだったというのに……。何故、あの時もっと、彼の話を聞いてやろうとしなかったのだろうか。
 いや、時が経ったことで、見えて来るものも、あったのだ。
 離れたからこそ、知ることが出来ることも、あったのだ。
「マーニは、いつも誰かを――いや、きっと君を探していた。記憶がなくても、何かが足りないことを解っているように……」
 そして、エドウィンドも、マーニとの八年間を話し始めたのだった……。




 ロサンゼルスのラルフの屋敷に戻ると、コロコロとよく太ったメイド、倩玉チンユイが、涙をぽろぽろと零しながら、国龍をギュッと抱きしめてくれた。
 いつの間にか、国龍の方が背が高くなり、抱きしめ返してあげられるほど、少し大人になっていた。
「ロン坊ちゃま……。ロン坊ちゃま……。黙って出て行かれるなんて……!」
 倩玉の涙はしばらく枯れず、その涙の量だけで、体重が三キロほど減ったのではないかと思えるほどだった。
「ごめん……。これからは、ずっといるから……」
 そう言って、国龍は、
「ラルフは?」
 と、見当たらない姿に、所在を訊いた。
「それが、どうしても抜けられない仕事があるとかで――。今日くらいは仕事をお休みして、ロン坊ちゃまを迎えに行ってあげてくださいまし、とお願いしたんですが……。旦那様の大切な本を捨ててしまいましょうか?」
 そう言いながら、倩玉がやっと顔を上げた。
「いいよ。その方がラルフらしい」
 国龍が言うと、ワンワン、と庭の方から、賑やかな鳴き声が聞こえて来た。
「……犬?」
「ええ、ええ。散歩から戻って来たようでございますね。――ロン坊ちゃまが出て行かれてから、旦那様もお寂しくて、飼い始められたのですよ」
 倩玉が言った。
「へェ……。ラルフは犬が好きなんだ。前にも、飼ってたって言ってたし――。アレックスだっけ?」
「ええ、ええ、そうでございますよ。可愛がっておられたのですが、老衰で……。その後、ロン坊ちゃまがお屋敷に来られて、すぐに賑やかになりましたけど」
 もしかすると、その犬が死んで寂しかったから、あの置屋に国龍を引き取りに来たのだろうか。
 そう言えばラルフは、国龍に最初、その犬の名前をつけようとしていた――。そして、国龍がいなくなったら、また犬を飼うということは……。
「犬の代わりだったのか、ぼくは」
 少しムッとしないでもなかったが、ラルフが以外と寂しがりやなこと――それを知ったせいで、余計に、帰ってきて良かった、と思えたことも事実だった。
「――で、何て名前なんだ、あの犬?」
「え……。あ、まあ、それは……」
 何となく、厭な予感がしないではなかったのだが……。




 夢ではなく、四人掛けのティー・テーブルが、賑やかな会話と、甘いお菓子、紅茶のカップを傍らに、どの席も空くことなく、埋まっていた。
 幸福は、始めから用意されているものでは、ないのだと――。
 一つ一つ椅子を用意して、その席を埋めて行くことが、何よりの幸福であるのだと――。
 逃亡の先に行きついたのは、そんな空席のない、幸せだった……。



 え? ラルフが出ていない?
 彼は仕事中だったもので……。では、少しだけ。




 少し時間をさかのぼって――。
「何で、犬にぼくの名前をつけるんだよっ!」
 仕事から帰って来たラルフに向かって、開口一番、国龍は言った。
「いや、まあ、考えるのも面倒で……。いや、正式名はロナルドと言うんだ。それを皆が愛称ペットネームで呼ぶから――」
「じゃあ、これからは絶対、そう呼ぶんだな?」
「む……。大体、ここにはもう帰らない、と言ったのは君だろう?」
「それは――。それと犬の名前は別だろ!」
「じゃあ、名前を変えるか」
「当然だ」
「弟が北欧神話のマーニなんだから、太陽ソールでどうだ?」
「ぼくの名前を変えるのかよ! 普通、犬の方だろっ!」
 そんなこんなで、ラルフも見た目以上に嬉しそうで……。
 逃亡者たちの行きついた先は、結局……そんな風に心待ちにしてくれる人々の元だったのだ……。





                        了


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