51 / 51
もう一つの椅子
Runaway 拾壱
しおりを挟む仔羊を煮たフェリコールや、山羊の乳で作ったチーズや白キャベツ、何より豊富な魚介類……バイキング料理を堪能して、冷え込む夜に暖炉の前で寛いでいると、マーニは疲れてしまったのか、安心してホッとしたのか、話もそこそこに、すぐに、うつらうつらと寝てしまった。
久しぶりの我が家と、慣れ親しんだ食事だったのだから、無理もない。
「君とマーニ――水龍、だったかな――のことを話してくれないか」
そのマーニを傍らに、エドウィンドは訊いた。
「そんな、いい話じゃないけど……」
国龍のその前置きの後に始まったのは、エドウィンドが想像すらしていなかった、過酷で残酷な運命だった。
二人が四川省の貧しい農家に生まれたこと。
少女売春婦だった母が死に、売られそうになる水龍を放っておけなくて、まだ八つの時に家を飛び出したこと。
福建に着くまでに出来た借金を返すために、置屋に売られたこと。
客を取る日を前に逃げ出したが、すぐに捕まって、死ぬほど殴られたこと。
二人一緒に逃げることを諦め、一人ずつ別々に逃げることにしたこと。
そして、水龍が逃げ出した後、連絡が途絶えてしまったこと。
その後も国龍は逃げ出せず、置屋で客を取り続けるしかなかったこと。
数年後、ラルフに身請けをされ、水龍を探すためにLAに渡ったこと。
そして、やっと水龍を見つけた時、水龍はもう、他人、になっていたこと……。
まだ十数年しか生きていない少年であるというのに、そこには何となく時間を費やしている人々の何倍――いや、何十、何百、何千倍の、人生の重さが綴られていた。
「そうか……。僕は、君たち家族も、密航船でマーニを見殺しにした一人だと思っていた……」
判ってみれば、こんなにも簡単に、お互いを解りあえることだったというのに……。何故、あの時もっと、彼の話を聞いてやろうとしなかったのだろうか。
いや、時が経ったことで、見えて来るものも、あったのだ。
離れたからこそ、知ることが出来ることも、あったのだ。
「マーニは、いつも誰かを――いや、きっと君を探していた。記憶がなくても、何かが足りないことを解っているように……」
そして、エドウィンドも、マーニとの八年間を話し始めたのだった……。
ロサンゼルスのラルフの屋敷に戻ると、コロコロとよく太ったメイド、倩玉が、涙をぽろぽろと零しながら、国龍をギュッと抱きしめてくれた。
いつの間にか、国龍の方が背が高くなり、抱きしめ返してあげられるほど、少し大人になっていた。
「ロン坊ちゃま……。ロン坊ちゃま……。黙って出て行かれるなんて……!」
倩玉の涙はしばらく枯れず、その涙の量だけで、体重が三キロほど減ったのではないかと思えるほどだった。
「ごめん……。これからは、ずっといるから……」
そう言って、国龍は、
「ラルフは?」
と、見当たらない姿に、所在を訊いた。
「それが、どうしても抜けられない仕事があるとかで――。今日くらいは仕事をお休みして、ロン坊ちゃまを迎えに行ってあげてくださいまし、とお願いしたんですが……。旦那様の大切な本を捨ててしまいましょうか?」
そう言いながら、倩玉がやっと顔を上げた。
「いいよ。その方がラルフらしい」
国龍が言うと、ワンワン、と庭の方から、賑やかな鳴き声が聞こえて来た。
「……犬?」
「ええ、ええ。散歩から戻って来たようでございますね。――ロン坊ちゃまが出て行かれてから、旦那様もお寂しくて、飼い始められたのですよ」
倩玉が言った。
「へェ……。ラルフは犬が好きなんだ。前にも、飼ってたって言ってたし――。アレックスだっけ?」
「ええ、ええ、そうでございますよ。可愛がっておられたのですが、老衰で……。その後、ロン坊ちゃまがお屋敷に来られて、すぐに賑やかになりましたけど」
もしかすると、その犬が死んで寂しかったから、あの置屋に国龍を引き取りに来たのだろうか。
そう言えばラルフは、国龍に最初、その犬の名前をつけようとしていた――。そして、国龍がいなくなったら、また犬を飼うということは……。
「犬の代わりだったのか、ぼくは」
少しムッとしないでもなかったが、ラルフが以外と寂しがりやなこと――それを知ったせいで、余計に、帰ってきて良かった、と思えたことも事実だった。
「――で、何て名前なんだ、あの犬?」
「え……。あ、まあ、それは……」
何となく、厭な予感がしないではなかったのだが……。
夢ではなく、四人掛けのティー・テーブルが、賑やかな会話と、甘いお菓子、紅茶のカップを傍らに、どの席も空くことなく、埋まっていた。
幸福は、始めから用意されているものでは、ないのだと――。
一つ一つ椅子を用意して、その席を埋めて行くことが、何よりの幸福であるのだと――。
逃亡の先に行きついたのは、そんな空席のない、幸せだった……。
え? ラルフが出ていない?
彼は仕事中だったもので……。では、少しだけ。
少し時間をさかのぼって――。
「何で、犬にぼくの名前をつけるんだよっ!」
仕事から帰って来たラルフに向かって、開口一番、国龍は言った。
「いや、まあ、考えるのも面倒で……。いや、正式名はロナルドと言うんだ。それを皆が愛称で呼ぶから――」
「じゃあ、これからは絶対、そう呼ぶんだな?」
「む……。大体、ここにはもう帰らない、と言ったのは君だろう?」
「それは――。それと犬の名前は別だろ!」
「じゃあ、名前を変えるか」
「当然だ」
「弟が北欧神話の月なんだから、太陽でどうだ?」
「ぼくの名前を変えるのかよ! 普通、犬の方だろっ!」
そんなこんなで、ラルフも見た目以上に嬉しそうで……。
逃亡者たちの行きついた先は、結局……そんな風に心待ちにしてくれる人々の元だったのだ……。
了
1
お気に入りに追加
8
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
熱い風の果てへ
朝陽ゆりね
ライト文芸
沙良は母が遺した絵を求めてエジプトにやってきた。
カルナック神殿で一服中に池に落ちてしまう。
必死で泳いで這い上がるが、なんだか周囲の様子がおかしい。
そこで出会った青年は自らの名をラムセスと名乗る。
まさか――
そのまさかは的中する。
ここは第18王朝末期の古代エジプトだった。
※本作はすでに販売終了した作品を改稿したものです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
《 XX 》 ――性染色体XXの女が絶滅した世界で、唯一の女…― 【本編完結】※人物相関図を追加しました
竹比古
恋愛
今から一六〇年前、有害宇宙線により発生した新種の癌が人々を襲い、性染色体〈XX〉から成る女は絶滅した。
男だけの世界となった地上で、唯一の女として、自らの出生の謎を探る十六夜司――。
わずか十九歳で日本屈指の大財閥、十六夜グループの総帥となり、幼い頃から主治医として側にいるドクター.刄(レン)と共に、失踪した父、十六夜秀隆の行方を追う。
司は一体、何者なのか。
司の側にいる男、ドクター.刄とは何者なのか。
失踪した十六夜秀隆は何をしていたのか。
柊の口から零れた《イースター》とは何を意味する言葉なのか。
謎ばかりが増え続ける。
そして、全てが明らかになった時……。
※以前に他サイトで掲載していたものです。
※一部性描写(必要描写です)があります。苦手な方はご注意ください。
※表紙画:フリーイラストの加工です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる