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もう一つの椅子
Runaway 玖
しおりを挟む思えば、あの時すぐに、ノルウェーへ帰ってしまえば良かったのだ。
仕事の予定など放り出して、写真集だけを抱えるマーニを連れて、空港に引き返せばよかったのだ。
そうすれば、マーニもその内、そんなことなど忘れてしまい、何でもないことのように、今までと同じ生活が続いていたはずなのだから……。
マーニはずっとその写真集を眺め、胸がドキドキとする気持ちを伝えるように、頬を紅潮させて、エドウィンドの顔を何度も見上げた。
何を言おうとしているのだろうか。
きっと、マーニ自身も、適切な言葉を見つけられず、エドウィンドが解ってくれるのを待っているのだろう。心や感情を表すためには、言葉はこれほどに不便なものなのだから。
写真集の中身を開くと、
「……ヌード写真集じゃないか! こんなもの、君には――」
「うーっ!」
もう手放してくれそうには、ない。
「……。解ったから、唸るな。――ほら、もうすぐ着く」
サンタモニカの海岸に着いても、マーニは写真集を手にしたままで、砂浜へと機嫌良く歩きだした。
ロサンゼルスの冬は、二月でも午前中は海辺で肌を焼き、午後からは山でスキーが楽しめる、という訳のわからない気候で、クリスマス・シーズンの今、三〇度から零度の気温差がある。
そんな訳で海岸には、肌を焼く人々や、休暇を満喫する人々が訪れていた。
「今日は疲れてるから、少しだけだ」
そんな言葉にも素直にうなずき、マーニは白い砂浜と、波打ち際を楽しんでいた。そして、写真集の効力か、帰る時もゴネたりせず、
「手が熱いな。眠いのか? ――車を回して来るから、ここにいるんだ」
「うん」
エドウィンドの言葉にうなずくと、マーニはまた海の方を振り返った。
だから、時々、不安になってしまうのだ。
マーニが海を眺める度に、全ての記憶を思い出して、エドウィンドの手から離れて行ってしまうのではないかと。
その海の先にいる誰かを待って、いつも海を眺めているのではないかと……。
「マーニ!」
駐車場から車を回し、エドウィンドは、誰かと話をしているマーニに呼びかけた。
――知らない人間と話をするなど……。
サングラスをかけた、この西海岸では珍しくもない装いの少年だった。黒髪の……マーニよりも少し年上だろうか。
エドウィンドの呼びかけに、マーニはくるりと翻り、すぐに足を踏み出した――が、
「アディオ!」
と、一度だけその少年を振り返り、エドウィンドの元へと走って来た。
「何を話してたんだ?」
そのエドウィンドの問いかけにも、ただ首を傾げるだけで、結局、何も判らなかった。――いや、ノルウェー語以外話せないマーニに、英語が解るはずもないのだが……。
そして、その日が訪れたのだ。
マーニによく似た少年が、エドウィンドの滞在するホテルを訪ねて来て……。
マーニが自分の弟である、と言った。
そして、マーニは――。
「愛してる、エドウィンド……」
そのマーニの言葉が、別れの言葉であることは、エドウィンドには、すぐに判った。
ずっと、その日が来るのを恐れていたのだから――。
そんな日が来なければいい、と、ずっと祈っていたのだから――。
あの幼い日、ベッドの上で辺りを見回し、見つからないと解ると、ぽろぽろと突然、涙を零し、マーニが泣き出してしまった時――彼は誰かを探しているのだと、エドウィンドは気付いていたのだから――。それでも気付かないフリを続け、ずっとマーニを独り占めしてきたのだから……。
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