幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 捌

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 徐々に熱を出す回数も減って来て、会話として成り立つ言葉も増え、マーニを外に連れ出せる時間も多くなり、夏にはバカンスと仕事を兼ねて、冬にはクリスマス休暇を利用して、海外に連れて行くことも出来るようになっていた。
 マーニが海へ行きたがるので――水に入るのは怖そうなのに、海辺にいるのは好きらしく、バルト海や地中海はもちろん、ここ数年は仕事の関係で、カリフォルニアを訪れることが多かった。
 アメリカ西海岸の、遊びを大切にする金持ちたちの船旅を、ロサンゼルスの旅行社と共に売り込むためである。もちろん、そこには銀行グループや数々の企業もからんで来ていて……。
「午後からはファー・イースト・ナショナル・バンクの総裁と会うことになっているから、部屋で大人しくしてるんだ。それまではサンタモニカに――」
 エドウィンドが言いかけた時、海岸へと向かう車の中で、マーニが突然、騒ぎ始めた。
「うーっ! うーっ!」
 と、言葉にならない声で唸りながら、窓の外にあるものを、懸命な眼差しで訴える。その一生懸命さは、今までに見たことがないほどのもので、エドウィンドは車を路肩に寄せながら、
「解った、解った。今、連れて行ってやる。――何があったんだ?」
 と、ブレーキを踏んだ。
 北欧の高級車が、滑らかな動きで、スーッと止まり、それと同時に、マーニが勝手に車のドアを開けて、飛び出した。
「え――? 駄目だっ、マーニ! 一人で――」
 エドウィンドもすぐに車を降り、マーニの後を追いかけた。
 原因はすぐに、判明した。
 本屋の前に貼り出してある、写真集の広告ポスターである。そして、
「この顔……」
 胸を一掴みされるような思いだった。
 ポスターに映る人物は、雰囲気こそ違っていたが、マーニとそっくりな顔をしていた。――いや、同じアジア人だから、似ているように見えるのかも、知れない。
 だが……。
 その写真集のモデルの名前は、ロン・ウェイ――。十七歳の中国系アメリカ人で、コーエンの個展を切っ掛けに、彗星のごとく現れた、エキゾチックな謎の少年、ということになっている。
「中国系……アメリカ人……」
 この少年も、あの日、あの時、マーニを投げ捨てた密航船に乗っていたのだろうか。そして、死にかけのマーニを海へ捨てて、自分と家族だけは無事にアメリカに辿り着き、こうして他人からちやほやされる暮らしをしているというのだろうか。
 その間、マーニは……。マーニは死んでもおかしくないほどの毎日を過ごし、何年もリハビリを続けて歩けるようになり、言葉を口にするのさえ、二年の歳月がかかったというのに……。
 エドウィンドは、体が震えるほどの憤りに、手のひらに爪を食い込ませた。
 ――こんな……こんなところで、マーニの素性を明らかにする手掛かりをつかむなど……。
 いや、マーニの家族は、自分たちしかいない。こんな、顔立ちが似ているだけの少年など、マーニの家族であるはずがない。家族なら、マーニを捨てたりするはずがない。
「……行こう、マーニ。ここは、気分が悪い」
 エドウィンドは言って、ポスターを食い入るように見つめるマーニを促した――が、
「うーっ!」
 マーニは、唸るばかりで、離れようとしない。
「マーニ! こいつは君を――」
「うーっ!」
「……。君を……」
 ――君を捨てた人間だというのに……。
 全てを思い出したのだろうか。――いや、思い出したのなら、そう言うだろう。
 だが、それなら、何故――。
 何故、マーニはこのポスターに拘っているのだろうか。何も思い出してはいないのなら、何故……。
 顔が自分と似ているから――。そんな理由で、車を飛び出して駆けつけた、というのだろうか。
 それとも……。
 それとも、マーニには解るのだと――。記憶を持っていなくても、この少年が自分の肉親であると判るのだと――そう言うのだろうか。
「――ねェ、あの子、ロン・ウェイに似てない?」
「え? どこどこ?」
「ホラ、あの本屋のポスターの前」
「えーっ、そうかなァ……。客寄せじゃないの?」
 ポスターの前で騒ぐマーニを見て、そう囁き合う声が聞こえた。
 エドウィンドは、ハッとして、
「行こう、マーニ。こんなところでいつまでも――」
「うーっ!」
 マーニは、意地でも動きそうにない。
「……。解ったよ。すぐに買ってくるから、大人しく待ってるんだ」
 エドウィンドは本屋の中へと足を踏み入れ、ロン・ウェイの写真集を手に金を払うと、ポスターの前で待つマーニに手渡して、
「これで、車に戻ってくれるだろう?」
 と、その小さな肩を促した。
 すると、やっと、マーニも納得してくれたようで、その写真集を手に、素直に車の方へと戻り始めた。目は、もう写真集の表紙に釘づけである。
「……なんで、そんなものが欲しいんだ?」
 エドウィンドがそう訊いても、マーニは困ったように首を傾げるだけで、自分でもよく解っていないようだった。
「そうか……。もういい。サンタモニカへ行こう。君が大好きな海だ」
 車は、大きな蟠りを抱えたまま、青い海へと走り出した。
 そのことが、あんな結果を招いてしまうなど……。


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