幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 漆

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 それからも、マーニの記憶が戻ることはなく、エドウィンドの頼みもあって、マーニはこのヘイエルダール家の養子として迎えられた。
 あの日、マーニを拾ってから、二年が経過してのことである。
 この国では、金髪碧眼の北欧ノルマン人の両親に、黒髪のアジア人の子供がいても、ただ当たり前に受け入れられている。養子縁組は行政の管理下にある団体の元で行われており、その最も多い養子が、中国人だ。一人っ子政策で、親が育てられない女の子が圧倒的に多いが、両親と違う髪や肌の色をした子供が歩いていても、オスロでは誰も振り返ることはしない。
 そして、年々増え続けている。
 そういう国だからこそ、マーニも幸せに育っていけるに違いない。
 もちろん、エドウィンドも、髪の色や肌の色が違うマーニが、自分の弟である、ということに違和感はなかった。そんなことは特別珍しいことではなかったのだから。
「今日はもう少し歩けるかな。といって、無理をすると熱が出るし……。おいで、マーニ」
 屋敷に戻ると、こうしてマーニの相手をすることは、もはや呼吸をするのと同じように、エドウィンドの生活の一部になっていた。
 言葉はないものの、表情は豊かになり、骨と皮だけだった体にも柔らかさが戻り、意外なほど愛らしい笑顔が、そこにはあった。無邪気な天使のような、とでもいうのだろうか。この世の汚れを何も知らないその清らかで純粋な笑顔は、何よりも心が癒されるものだった。
 マーニが、まだ覚束ない足取りで、エドウィンドの方へと足を進める。
 言葉はなくても、言っていることは判るのだ。
 少しずつ筋力を取り戻すためのリハビリを続け、無理をせず、焦らないように毎日を過ごし――。
「えど……うぃ……ど」
 両手を差し出して、マーニが言った。
 確かに、マーニがそう言ったのだ。
 エドウィンドは刹那、差し出された手を受け止めることすら忘れそうになり、慌ててマーニの体を支えた。
「えーど……」
「ああ、エドウィンドだ……」
「えどうぃ……ど」
「ああ」
 本当に、過ぎてみれば、何でもない悩みだった。
 言葉が遅いとか、すぐに熱を出すとか、そんなものは、その子の個性の一つでしかない。
 待っていれば喋るようになるし、看病すれば熱は下がる。
 抱きしめられると、マーニは嬉しそうに声をたてて笑った。



 一つ言葉が出ると、次々に言葉は増えて行き、二つの言葉を繋げて言えるようになり、意味が伝わらないと癇癪を起し……と、本当に生まれてからの数年を、今またここで繰り返しているように、マーニな少しずつ成長を続けた。
 だが、成長と一緒に増えて行く心配もあり――壁を支えに伝い歩きが出来るようになると、色々な危険も付きまとい――。
 その日も、エドウィンドが屋敷に戻ると、部屋にマーニの姿は見当たらず、一人で伝い歩きをして、リビングの暖炉の前に座っていた。
「何をしているんだ? 寒いのか?」
 家の中は、外の寒さが嘘のように暖かくしてあるが、病気がちのマーニには、それでも寒く感じるのかもしれない。そう思いながら、マーニの方へと足を向けると、マーニが腰を下ろす毛皮の敷物の傍らに、茶色いカゴが置いてあるのが目についた。
 見覚えのあるカゴである。確か、栗が入れてあったカゴではないだろうか。焼き栗は、マーニの好物なのだ。
 だが、カゴに入れてあったのは生の栗で、今はそのカゴも空っぽである。
「マーニ……。暖炉に――火の中に栗を入れたのか?」
 エドウィンドがそう訊いた途端、パーン――っ、と激しい炸裂音がして、火中の栗が飛び出した。
「危ない――っ!」
 幸い、マーニに当たることはなかったが、マーニはびっくりしてその場に丸まり、エドウィンドはその体を包み込むようにして、マーニをかばった。
 何しろ、カゴの中は空だったのだ。火中の栗が、その一個であるはずもない。
 続けざまに数回、炸裂音が聞こえると、その内の何個かが、エドウィンドの背中に当たった。
――っ!」
 破裂しては、はじけ飛ぶ栗の錯乱は容赦がなく、その音と、エドウィンドの苦鳴に、マーニの体がガタガタと震えた。
 焼けた栗が、幾つも幾つも、エドウィンドの背中にぶつかり、部屋の中を飛び回る。
 どれくらいそうしていただろうか。火中の栗も尽きたようで、音がやみ、暖炉から飛び出してくる姿はなくなった。
 だが、部屋の中は栗だらけである。
「……当たらなかったか、マーニ?」
 エドウィンドが訊くと、
「う……。いたい? エドウィンド、いたい?」
 と、泣きじゃくりながら、顔を上げた。
 あんな大きな音を聞くのも初めてで、余程、恐ろしかったのだろう。それでも言葉は、エドウィンドの心配をしてくれている。
 もちろん、家族なのだから、そうであっても、不思議ではないが……。
「僕は大丈夫だ。――君に当たった方が、もっと痛い」
 エドウィンドが笑うと、
「ぼく……? ぼくにあたると、エドウィンドがいたい?」
 わけが解らなそうに、マーニが訊いた。
「ああ。――ここが、心配で痛くなる」
 と、エドウィンドは、マーニの心臓の位置を、指でつついた。そして、
「だから、暖炉に栗を――栗だけじゃなく、何も入れてはいけない」
「やきぐり……」
 不満そうに、指をくわえて、マーニが言った。
「明日、買って帰る。それまで我慢だ」
 本当に、成長するごとに、心配は尽きない……。



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