幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 陸

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「今年はスキーに行かないの、エドウィンド?」
 生まれた時から滑っている、と言っても過言ではないノルウェーの冬の行事を前に、スキー板の手入れさえしていないエドウィンドに、母親である、サラが訊いた。
 不思議なことに、このノルウェーでは、アメリカやイギリスでのように、名前を短くして愛称で呼ぶ習慣がない。
 イギリスでなら、エドウィンはエドだったり、エディだったりするのだが、ここでは長い名前でも、そのままで呼ぶのが当たり前だ。
「全部、断った。ただでさえオアフから知らない家に連れて来られて不安になっているのに、マーニを置いて何日も出掛けていられない」
 大学にいる間でさえ、落ち着かないのだ。オアフからずっと側についていたエドウィンドの姿が何日も見えなくなったら、彼もきっと戸惑うだろう。
 名前は――つい、この間、決めた。
 最初は、自分で決めた名前を呼ぶことが気恥ずかしかったが、
「あら、北欧神話からとったのね。素敵だわ」
 と、母、サラが歓んでくれたこともあって、今では当たり前に呼べている。
 マーニは、といえば、相変わらず何も喋れないままではあるが、動くものを目で追ったり、時にはエドウィンドが笑うのを見て、同じように笑ったりするようにもなった。もちろん、ただ人を真似るだけの行為であり、楽しくて笑ったのではないのかも知れないが。
 それでも、マーニが少しずつ何かを覚え、昨日は出来なかったことが今日は出来るようになり――その姿を見て歓ぶことが、今のエドウィンドの日課だった。
 体調のいい日は普通の食事も取れるようになり、救助前の栄養失調と、長い寝たきりの生活に筋力が落ちているため、歩くことは出来なかったが、車椅子に座れるようになると、たっぷりと着込んで散歩をすることもできた。
「――レーゲドクター! 熱が下がらない!」
 少し油断すると、すぐに体調を崩し、寝たり起きたりの生活は長く続いた。
 言葉も一向に口にする様子はなく、それでも、時にはエドウィンドの手からスプーンを取り上げ、不器用に自分で食べてみたりすることもあった。
「……もう一年以上も経つのに、どうして何も喋らないんだろう」
 エドウィンドが言うと、
「まるで、子育て中の母親の悩みね」
 クスクスと笑いながら、サラが言った。
「母親って――っ」
 ムッとすると、
「うちの子は一歳を過ぎても喋らない。あそこの子は、一歳になる前から喋っているのに、ってね」
「……。マーニは赤ん坊じゃ……」
「あら、赤ん坊と同じでしょう。一歳で喋る子もいれば、二歳になって、やっと喋る子もいる。そんなことに一喜一憂するのが母親なの」
「……」
 本当に、喋るようになる日が来るのだろうか。
 声を発することは、時々ある。気に入らないことがあると、うーうーと唸るし、指でものを指して、気付いてもらおうと、あっ、あっと短い声で呼ぶこともある。
 だが、簡単な単語一つ、名前一つ、口にすることはない。
「もっと一緒にいて、ずっと話してあげられればいいんだけど……」
 と、言うと、
「今でさえ、べったりのくせに、それ以上ベタベタしたら、うっとうしがられてしまうわよ」
 母親と言うのは、時に厳しい。
「僕の方が懐かれてるからって、僻みにしか聞こえない」
 誰がマーニに一番、懐かれているか――それが、この家での優劣を表わすもののようになっていったのも、彼が誰もに愛されていることの証だった……。


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