幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 伍

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 父、シグール・ヘイエルダールも、こういう展開を予測していたのか――もちろん反対はされたが、残り半月の間に結局、折れて、その幼子がノルウェーで生活出来るよう、色々と骨を折ってくれた。
 もちろん、アメリカ側も、もともとノルウェー船籍の船が拾った子供であり、治療費も入院費用も全てヘイエルダールが負担し、ノルウェーへの搬送時には、医師も機内設備も全て整えた専用機を用意し、ノルウェーへ連れて行ってくれるというのだから、何の異存もないようで――。
「ノルウェーは美しい国だ。きっと、君も気に入る……」
 スカンジナビア半島の西側を占めるこの国は、二〇〇〇キロにも及ぶ海岸線が延び、内陸に切り込んだフィヨルドには、エメラルドの水が満ちている。
 耕地の少ないこの国では、遥か伝説の時代から、人々は海を向いて生きて来た。バイキングたちは白夜や極光の下に船を出し、畏れ知らずの歴史を残して来たのだ。
 山と氷河、数千の湖と群島……ムンクやイプセンなどの芸術家を生み出した国、ノルウェー――。
 その首都、オスロ――。
「これからはどんどん日が短くなっていくし、寒くなる。服を買わないと、な」
「おいおい、外出できるのはもっと先だろう? ――それより、名前は?」
 やっとオスロ市内の屋敷に着き、同じようにベッドの傍らに腰を下ろす父、シグール・ヘイエルダールが、エドウィンドの言葉に目を丸くして、もっとも肝心と言えることを口にした。
「名前……ですか?」
「今まで何と呼んでいたんだ?」
「別に……何とも――」
 会話が成立するどころか、やっと視線が合うようになって、食べたい、という意思を伝えることが出来るようになった程度だったのだ。そんなものは必要なかったし、考えてみたことも、エドウィンドにはなかった。
「まず必要なのは名前だろう? 身元不明の記憶喪失で人道的救済を名目に入国させても、今後は何をするにも名前がいる」
 ――名前……。
 誰かに名前を付けるなど、そんな親だけの特権のような役目を、自分がしてしまってもいいのだろうか。――いや、それ以前に、皆、どうやって名前をつけているのだろうか。
「考えてからでないと……」
 エドウィンドは言った。
 急に、名前、と言われても思いつかない。
「それより、パジャマとカーディガンがいるでしょう? オアフで使っていた半袖のままでは風邪をひいてしまう」
 屋敷の中は、冬でも暖かくしてあるが、寒さが日ごとに深まる秋には、羽織るものがあった方がいい。
 あれやこれやと世話を焼き、最初はいい顔をしていなかった両親でさえ、小さな子供は可愛いらしく、エドウィンドが一人っ子だったこともあって、誰もがその小さな子供の面倒をみることに夢中になっていた。もちろん、一番、夢中になっていたのは、一人っ子だった本人のエドウィンドだったのだが……。



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