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もう一つの椅子
Runaway 肆
しおりを挟む少し体を起こせるようになると――といっても、電動ベッドごと起き上がるだけの状態だが、視界が変わったせいか、幼子はゆっくりと辺りを見渡した。
医師は外部からの刺激の多い四人部屋をすすめたのだが、生憎、高額な個室しか空いておらず、ICUを出た幼子は、今、その個室のベッドの上で、何も喋らず、何も見つめず、ずっと虚ろに過ごしていた。
遠くを見つめるその視線が、いつしか何かを探すように不安げに揺れ、それでも見つからないと知ると哀しむように、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
エドウィンドは突然のことに虚を突かれ、急いで廊下に飛び出した。
「レーゲ! レーゲ――っ! 急に泣き出した! ――どこか痛いんじゃないのか?」
と、たまたま通りかかった医師を捕まえ、英語すら忘れて、部屋の中へと引きずり込む。
医師はしばらく様子を見て、脈をとり、聴診器をあて、体の部位を軽く叩いたり、押したりして、それでも苦痛の表情が診られないのを確認すると、
「体の痛みとは関係ないと思いますよ」
「ですが、この子は『痛い』と自分で言えなくて――」
「痛みがあるのなら、表情や反応である程度判ります」
「……。それなら……」
「まあ、涙が出るのは、痛い時ばかりではありませんからね」
――痛い時ばかりでは……。
なら、彼は何が原因で泣き出した、というのだろうか。
「記憶が戻ったとか……?」
「何か喋りましたか?」
「いえ、まだ何も」
「焦らないことです。大人でも耐えがたいような経験をして、長い間、死の淵を彷徨っていたのですから――。感情が戻って来たのなら、言葉に反応するようになるのも近いかも知れません」
その医師の言葉に反して、幼子は一向に言葉に反応を示さなかった。もちろん、自分が使っていた言語でなかったこともあっただろうし、泣くこと以外は、笑うことも、不満をぶつけることもなかったのだから。
「――せっかくベッドを起こしたことだし、ゼリーでも食べるか?」
まだ消化器官が正常な働きをしていないため、スープやゼリーなどを少し口に出来る程度だが、味もよくわからないのか、もっと欲しそうにすることも、嬉しそうにすることもなかった。
口元にスプーンを運んで唇に当てると、赤子と同じように口を開くのだが――。
「おいしいだろ? もう一口食べるか?」
スプーンを持ち上げ、エドウィンドが問いかけても、無反応で……。
焦らないこと――。それはその通りだが、エドウィンドにも無限に時間がある、という訳ではない。世界一周クルーズの間の三ヶ月半――いや、もう半月ほどしか残ってはいないが――その日が来たら、ノルウェーに戻って大学に行かなくてはならないのだ。
エドウィンドは、口元へスプーンを運びながら、もどかしい思いで、残りの時間に歯噛みをした。
すると、幼子が口を開き、エドウィンドの方へと視線を向けた。
視線が合った、のだ。
何と言えばいいのか判らないが、今日、初めて彼と視線が出会った。
幼子は、次のゼリーを待つように、口を開いて、エドウィンドの方を見つめている。
そんなことのどこがそれほど胸を突かれるようなことだったのか――そう訊かれるかもしれないが、それは、今までのどんなことよりも、エドウィンドの胸を高鳴らせた。
幼子が自分の存在を認めてくれたような気がして――彼だけしか住めない世界へ、エドウィンド受け入れてくれたような気がして、体が震えるほどに嬉しかった。
「あ、ああ、ゼリー……だな」
エドウィンドは、スプーンにすくったゼリーを口に運び、
「おいしいだろ? これは、ゼリーだ」
「……」
欲を出してはいけない。
落胆をしてもいけない。
他人を認識できるようになったからといって、すぐに言葉が出るはずもない。
「一緒に、ノルウェーに行こう……。僕が必ず父を説得するから」
そうすれば、もっと、時間が出来る……。
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