幸せの椅子【完結】

竹比古

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もう一つの椅子

Runaway 参

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 次の寄港先であるハワイ諸島の中の一島、オアフ島からのヘリが到着したのは、たっぷり二四時間以上が経ってからのことだった。今のように、ドクター・ヘリなどというものがそこかしこにあるわけでもなく、オアフの海軍基地から救助要請を受けて飛び立った軍用ヘリである。
 その島はアメリカ領であるために英語が通じることと、設備の整った医療環境があること――それが何よりの希望だったのだが、
「――家族は?」
 そう問いかける同乗の医師の言葉には、さすがにエドウィンドも腹が立った。
「丸一日以上待たせておいて、そんな連絡も伝わっていないのか! 一体、今まで何を――」
「坊ちゃ――エドウィンド様! そんなことより今は、搬送を!」
 船医の言葉に窘められ、エドウィンドは指を結んで、言葉を堪えた。
 腹は立ったが、問われるままに質問に応え、船医の書いた診療情報を手渡すと――、
「家族がいないのなら、どこに連絡を?」
 向こうの医師の言葉に、
「僕が一緒に逝きます」
「エドウィンド様っ。お父上の承諾もなく、そのような――」
「どうせ船も向かっているんだ。向こうで合流できる」
「……」
 オアフからの医師には、ただの患者の一人でも、エドウィンドにとっては、この二四時間、回復を願い続けてきた幼子なのだ。せめて船がオアフに着き――そして、出航するまでの間くらい、側についていてやりたかった。
 そして、共にヘリに乗り込んだのだ……。




 オアフ島に船が着いてから出航するまでの五日間は、あっという間のことだった。
 幼子の容体は安定しつつあるものの、意識が戻ったかのように目を開いては、またすぐに昏睡してしまう、ということの繰り返しで、予断を許さない状態だった。
 それでも、船に引き揚げた頃に比べれば、IVHから補充される輸液と、清拭された体は、人間らしい状態に近づきつつあった。
「残る――だと? 何を考えているんだ、おまえは!」
 父、シグール・ヘイエルダールの叱責にも、
「家族も誰もいないんです。こんなところに一人残して行くなんて――」
「ここはアメリカだ。アメリカの法で対処される」
「ノルウェー船籍の船が救助したんです。ノルウェー側が責任を持つべきです」
「明らかな密航者だ」
「本人はまだ何も話せません。決めつけるのは間違っている」
「……。で、どうしたいのだ、おまえは?」
「アメリカの対応など信用できません。福祉も何もかもノルウェーの方が遥かに充実している。この子が話せるようになったら、家族の有無も確認できる」
「――で、家族がいなくて、ノルウェーに行きたいと言ったら?」
「僕が責任を持って面倒を見ます」
「犬や猫を拾うのとは違うのだぞ」
「解っています。ですが、せめて、家族か里親が見つかるまでは……」
 そんな収拾のつかないやり取りの果てに、結局、折れたのは父親の方で、すでに成人であるエドウィンドの首に縄をつけて船に連れ戻すわけにもいかず、飛行機で帰る、というエドウィンドを残して、船は出航したのだった。
 それからというもの、一進一退を繰り返す幼子に付き添い、エドウィンドは重要な後継者教育の課題をこなすように、懸命に看病をし続けた。
 何故、そんなに一生懸命になったのかは、後になってからも解らなかったが、まるで、自分が拾った海の奇跡を、手放したくないような気持ちになっていたのかも知れない。
 栄養失調による色褪せた髪と、ささくれた皮膚、そして、開いていても虚ろな瞳は、今日もどこを見るでもなく、ぼんやりと天井を見上げている。
「――何故、彼は何も喋らないのですか?」
 意識が戻り、それでも何も喋らず、身動き一つしない幼子を見ながら、エドウィンドは側に来た医師に問いかけた。
 普通、目が醒め、意識が戻ったのなら、ここが何処なのか、自分はどうしてここにいるのか、そして――家族はどうなったのか、何よりも先に気になることだろう。それなのに、その幼子は何も口にしないのだ。それも、言いたくないから黙っている、という風でもなく……。
「神経科のドクターに診てもらわなくては判りませんが、恐らく、喋らないのではなく、喋れないのでしょう」
「喋れない? 言葉が通じないからですか?」
「いいえ。言葉を失っている――いや、記憶自体を失っている可能性もあります」
 生まれたばかりの赤子のように――。今の彼は、言葉も何も持ってはいない状態なのだ。もちろん、自分がどこの誰で、どんな生活をしていたのかも知らないだろう。
 なら、この幼子は、これから先、どうやって生きていけばいいというのだろうか。
 中国政府に問い合わせたところで、この子供が密航船から放り出された子供であるとは、決して認めたりはしないだろう。そして、家族が見つかるとも思えない。
「耳は聞こえているのですか?」
 その問いには、
「そうですね……。ぼんやりとでも、音に反応する時がありますから――。目は栄養失調で見えにくくなっているかも知れませんが、もう少し回復したら、一通りの検査が必要でしょう」
 血液検査や、CT、MRI……といった緊急性のある検査は済ませてあるが、身体機能の検査は、まだ出来てはいないのだ。
「そうですか……」
 耳が聞こえているのなら、赤ん坊が少しずつ言葉を覚えて行くように、この子も言葉を覚えて行くのだろうか。
「僕は、エドウィンドだ。――聞こえているか?」
「……」
 目は相変わらず虚ろで、声の方に視線を向けることもしない。
 それでも、明日、一週間後――一年後でも……。


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