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もう一つの椅子
Runaway 弐
しおりを挟む10万トンを超えるクラスのその豪華客船が、波間に漂うその小さな子供の姿を見つけたのは、本当に何万分の一の奇跡だったとしか、言いようがない。
世界中の金持ちだけを乗せる、ノルウェー船籍のその豪華客船は、ショッピング・アーケードやカジノにフィットネス、映画館、プール、テニスコート、バー、銀行、郵便局、病院……一つの街と呼べるほどに、何でも不自由なく揃っていた。
もちろん、こんな豪華客船に乗って、世界一周旅行をしよう、などという客は、多くが金と暇を持て余した年寄りで、後継者教育のためとはいえ、バカンス代わりに船に乗せられていたエドウィンドには、退屈極まりない旅だった。
その中、飛び込んできたハプニングは、二十歳を過ぎたばかりのエドウィンドには、何よりも興味を引かれるものだったのだ。
船へと引き上げられた幼子は、すでに心肺停止状態で、体も冷たくなっていた。それでも医師たちを急きたてて、救命措置を施すと、心拍が戻り、弱いながらも自発呼吸が戻って来た。
それからの忙しさと興奮は、この世の退屈というもの全てを、忘れさせてしまうものだった。
医師の話では、海の中での低体温での状態が、心肺停止した体を維持できていた理由ではないか、ということだった。もちろん、これ以上の心肺停止状態が続いていたら、とても助かりはしなかっただろうが。
「どっちにしても、これ以上の処置は船上では無理です。すぐヘリを要請しないと――」
「もちろん、しているさ。だが、時間がかかる」
ここは太平洋沖であり、船はノルウェー船籍で、そこは――船の上はパスポートの必要な国外だ。近隣の国に救助の要請を仰いでも、すぐには対処できないだろう。
「骨と……皮だけじゃないか……」
船旅の客人たちの相手をしなくてはならない海運王、父シグール・ヘイエルダールの代わりに、医務室――いや、病院としかいえない設備を整えるユニットに来て、エドウィンドは、その幼子の姿に目を瞠った。
幼子はもう何日も食べ物を口にしていないのか、枯れ枝のように痩せ細り、乾いた唇はひび割れて、水分さえ取れていなかったことが窺い知れる。
しかも……。
「生きたまま海に捨てられたのか?」
呼吸が戻ったということは、心肺停止してから、長く見積もっても十五分――。引き上げる時間を考えれば――、幼子を投げ捨てた密航船があるなら、見つけられない時間ではない。この船が見つけた時点では、まだ息があった、としか思えない。
考えられることと言えば、まだ生きているにもかかわらず、動けなくなった幼子の面倒を見切れず、海に投げ捨てた、ということだ。
「死んだように見えていたかも知れませんからね」
「……」
医師の言葉に指を結び、エドウィンドは幼子の眠るベッドの傍らに腰を下ろした。
「……中国人なのか?」
「恐らくは……。アメリカ行きの密航船から、放り出されたのでしょう」
どうして、そんなことが出来るのだろうか。
こんな幼い子供が、一人で船に乗っていたはずもない。家族も共に乗っていたはずなのだ。それなのに、こんな風に捨ててしまうなど……。
過酷な旅となる密航船で過ごす日々は、こんなことが出来るようになるほど、身も心も腐り果ててしまうのだろうか。
「父の言った通り、船の上で死者を出してはならない。ヘリが来るまで、何としても持たせるんだ」
エドウィンドは、父、シグール・ヘイエルダールの言葉を繰り返し、身動き一つしない幼子の指を、手に取った。暖かさも柔らかさもない、細い指である。
そけい部の中心静脈からはIVHが繋がれ、エドウィンドが取るのと反対側の手には、動脈血の酸素飽和度や脈拍をモニターするために、指にパルスオキシメーターがはさまれている。
時間の問題……なのだろうか。
一旦は戻った自発呼吸も、余りにも弱々しく、結局は人工呼吸器に繋ぐしか術はなく、心臓もいつまで持ってくれるのか判らない。
なら、この幼子は、何のために生まれて来たというのだろうか。
これから見つけるであろう楽しいことを、何も知らないままに逝ってしまう、この子供は――。
これから知る色々なことを、何も知らずに逝ってしまう、この子供は――。
「心配するな。僕が助けてやる……」
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