幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 39

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 一九九五年、冬――。
「え? おなかが痛い? 寝冷えしたのかなァ……」
 腹痛を訴える水龍を見て、国龍は言った。
「うーっ……」
 多分、それは抗議の訴えだっただろう。
 その抗議の内容は――。
「ん? メシ? オレも同じもん食ったぜ。ちょっと腐ってたけど、オレ、何ともないし……」
「うーっ!」
「うー、うー、唸るなよっ! さっさと英語を覚えるか、中国語を思い出すかしろよっ。これじゃあ会話にもならないじゃないかっ」
「Jea har diare(下痢してる)――」
「そんな言葉、わかんねーよっ。第一、あの金持ちのバイキングの家で、丈夫にしてもらったんじゃないのか? 何で腐ったもん食ったくらいで腹が痛くなるんだよっ」
 普通、それが普通である。
 この日、水龍がエドウィンドと離れたことを、ちょっぴり後悔したことは、言うまでもない。
 そう――。あの後、『愛している』と、エドウィンドに別れを告げた水龍は――そう、あれは、別れの言葉、だったのだ――その水龍は、何も思い出してはいないというのに、国龍の元へ、真っ直ぐ、あの頃のままに飛び込んで来た。
 覚えていなくても、解っている、とでも言うように――。
 そして……。
 水龍の言葉に、別れを察したエドウィンドは、それを茫然と見つめていた。




「なぁ、水龍……。本当にオレのこと、何も覚えてないのか?」
「う……」
「そうだよなぁ……。覚えてりゃあ、中国語だって思い出してるよな」
「……」
「まっ、いっか。忘れたって、一目惚れすりゃ、同じだもんな」
「???」
 ちょっと違うような気もする。
「あー、言葉わかんない奴と話してても全部独り言じゃねーかっ。――ラルフの奴、何がノルウェー語ぐらいすぐに覚えられるだよ」
 英語を覚えた時と同じくらいに一生懸命やれば、という但し書きは、どうやら国龍の頭の中からは消えているらしい。
「いいこと教えてやろうか、水龍? ――って言ってもわかんねーだろうけど――。オレとおまえの兄貴は凄い奴なんだぜ。あ、親父も――。多分、二人とも人間じゃねーな。おまえにも逢わせてやりたいけど、オレ、犯罪者だしなぁ……。誘拐の時効って何年だっけ?」
「……?」
「おまえに訊いてもわかんないよなぁ。今が逃亡中だってことも解ってないんだもんな。あのバイキング、おまえの戸籍だけは手放さないんだからな」
「バイキング? エドウィンドっ?」
「ああ、そーだよっ。おまえを好き勝手に、我がまま放題、育てやがって。お陰で、オレがどれだけ苦労してると思ってんだ」
 写真集の印税も、いつまでもあるわけではないのだ。
「Ikke ver redd」
「ふんっ。おまえに慰められたかねーよ」
「解る? 国龍。言うこと。言葉――」
「あーっ、苛々するっ。英単語連発するのやめろよっ」
「いつも……こうしてたような、気が、する……」
 そして、こうして過ごすことが、長い間の夢だったような、気が……。





                 終





 と、幸せな二人のその後だけを描いて終わるのは、フェアではないだろう。彼らには、二人の兄がいるのだ。




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