幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 36

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「いやだ……。やっと見つけたんだ……。ゲスな男たちに体を舐め回されても、畜生以下の扱いを受けても……水龍に逢うためだけに生きて来たんだ……」
「……」
「水龍がいるから生きて来れたんだ……」
 国龍は、喉が切れるような言葉を、吐き出した。
「……。言いたくはないが、私はこれ以上、手は貸せない」
 ラルフは言った。
「私にも、敵に回せない人物がいる。敵に回してはならない人物が――。ヘイエルダールはその一人だ」
「……解ってる。ありがとう、ラルフ。今まで良くしてくれて、とても感謝してる」
「――。生きている、と判っただけでは満足できないのか? 君の弟は、ノルウェーの海運王の養子として、金銭的にも社会的にも不自由のない暮らしをしている。もちろん、愛情も受けている」
「あなたらしくない言葉だな、ラルフ……。不自由のない暮らしをしているのなら、何故、水龍はぼくの写真集を手放さないんだい?」
「――」
「水龍はぼくを愛してる……。金があって、みんなに愛される生活を送っていても、水龍はぼくを探しているんだ。記憶を失ってさえ――。どんなにいい暮らしをしていても、いつも何か物足りない思いで過ごしているんだ。……ぼくも同じだよ。ここでどんなに良くしてもらっても、不自由のない暮らしをしていても、水龍とは代えられない。水龍だけが全てなんだ」
 他人だったのなら、八年の歳月の間に、その想いも薄れていただろう。
 だが、生まれる前から一緒にいた兄弟――双子なのだ。切り離すことなど出来はしない。況してや、忘れてしまうことなど……。
 たった一度手放してしまった手が、これほど長い別れになるなど、誰が思っていただろうか。
 口づけだけを交わして別れたあの日が、これほど長い空白の時になるなど、誰が思っていただろうか。
 ほんの少しの間、別れる積もりで離した、手、だったのだ。それが、これほど切ないものになるなど、誰が考えていただろうか。
 すぐに逢えると信じて離した手が、こんな結果になってしまうなど……。
「出て行ったら、もう戻っては来ないのだろうな」
 寂しげ、とも聞き取れる口調で、ラルフは言った。
「ぼくは犯罪者になる……。水龍を奪って逃亡する。だから、もう戻らない」
 国龍は、ラルフを見つめて、真っすぐに言った。
「私には……エドウィンドの気持ちがよく解る」
「ラルフ……?」
「君には愛情を持たない積もりでいた……。父から息子であると認めてもらえなかった私は、自分の力で今の地位までのし上がった。私を息子だと認めてくれなかった父の側で働くために――。息子として認めてもらえないのなら、仕事のパートナーとして、そして、人間として認めてもらうために――。その私と同じ境遇の君にも、同じチャンスを与えてやろうと思った。だから、あの置屋に会いに行った」
「……? 何の話を……」
「君の父親の名前は、黄中元だ」
「え……?」
 国龍は、突然の言葉に戸惑った。
 ラルフが秘書として仕える男が、国龍の父親だというのだ。
 そして、こうも言った。
 彼は、父親の側で働くためにのし上がったのだ、と。自分を息子だと認めてくれなかった父親に、人間として認めてもらうためにのし上がったのだ、と――。
 なら、その意味は……。
「だが、彼は、私を愛していなかったように、君のことも愛してはいない。息子だとも思ってはいない。もちろん、君も彼を父親だとは思わないだろう。彼は、自分にも他人にも厳しい人間だ。子供を千尋の谷へ突き落とす獅子のような人、と言ってもいい。私は彼に認めてもらうために千尋の谷を登ったが、君にはそれは必要ない。君は、私よりもずっと強い人間だ。そして、強くしてくれる人間がいる。その人間の処へ行けばいい」
 ラルフの言葉は夢の中のことを話すように淡々としていて、それでいて、遠くを見つめるように哀しげで、国龍には、戸惑うことしか出来ないものだった。――いや、戸惑ったのは、その話し方に、ではなく、ファー・イースト・ナショナル銀行の総裁、黄中元が、ラルフと国龍の父親である、といった言葉に、だったかも、知れない。
「ぼくと……ラルフは兄弟?」
 国龍は、震える声で、問いかけた。


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