幸せの椅子【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
30 / 51

Runaway 30

しおりを挟む

 サングラスの向こうに映ったものは、胸苦しいほどに懐かしく、そして、愛しい弟の姿だった。
 顔立ちや仕草は、国龍よりも、ずっと、幼い。――いや、国龍の方が、大人び過ぎているのかも、知れない。それでも確かに、双子と呼べる面貌だった。
「あ……」
 頭の中が真っ白になり、言葉すら忘れてしまったかのように、喉の奥が、苦しく、なった。
 手足が震え、席を立つ時に、コーヒーを、零した。
「水龍……」
 国龍は、震える足で、踏み出した。
 一歩、一歩、半身に、近づく。
 幼い頃のままの笑みが、国龍を、見つけた。
「水龍」
 国龍は、弾けそうな思いで、名前を呼んだ。
 水龍は、首を傾げて、戸惑っている。水龍にしても、こんなところで国龍に逢うなど、思ってもいなかったのだろう。少なくとも、国龍はそう思っていた。
 だが――。
「Hvem er du(あなた、誰)?」
 水龍の口から零れたのは、その言葉だった。――いや、水龍ではない、のだ。どこの国の言葉なのかも判らないその問いかけは、彼が旅行者であることも示していた。フランス語でも、ドイツ語でもなく、況してやスペイン語でも、アジアの言葉でもない、異国の言葉。
「あ……あの……えーと……」
「Hva(何か)?」
「あの……いえ、人違いを……。すみません」
 国龍は、一気に夢の底へと突き落とされるように、指を結んでうつむいた。
 水龍によく似た異国の少年は、不思議そうに首を傾げている。
 声が飛んだのは、その時だった。
「マーニ!」
 と、黒のボルボの側に立つ青年が、少年を呼んで、手招きをする。まだ二七、八歳だろうか。長い金髪と青い瞳が、秀麗な面貌を際立てている。
 水龍によく似た少年は、その声を聞いて、振り返った。そして、タカタカと青年の方へと駆け出した。――が、途中で、パタ、と足を止め、国龍の方を振り返った。
「アディオ!」
 と、人懐っこい笑顔で、愛らしく言い、また、青年の方へと駆けて行く。
「アディオ……」
 国龍には、その言葉の意味も、況してや何語であるのかも、判らなかった。ただ、聞き取れたのは、青年が発した〃マーニ〃という言葉と、少年が残したその言葉だけだったのだ。
 その夜、国龍は、午前一時までラルフの帰りを待ち、その言葉の意味を訊いてみた。
「アディオ? ノルウェー語だな。マーニというのは名前だろう」
 と、ラルフは言った。
 いつも思うのだが、彼には解らないことなどないのではないだろうか。
「ノルウェー……?」
「ああ。『Good bye』という意味だ」
「Good bye……」
 そんな簡単な意味だったのだ。
「それがどうかしたのか?」
「……別に」
 国龍は、サンタモニカでのことを思い出しながら、視線を落とした。
 他人の空似、というには、あまりにも水龍に似ていたのだ。――いや、国龍に似ていた、と言った方がいいだろうか。そして、水龍の面影を備えていた。もちろん、八年も会っていないのだから、今、水龍がどんな風に変わっているかなど、国龍には解らないことだったが。
 それに、太平洋で行方不明になった水龍が、何かの間違いでノルウェーに流れ着くなど、どう考えてもあり得ない。
 それでも、もしかしたら――。そう考えてしまうのは、諦めが悪いからだろうか。
 もし、国龍がサングラスを掛けていなければ、あの少年はどういう反応を示していたのだろうか。
 大事そうに、国龍の写真集を抱えていた、あの少年は……。
「あの、ラルフ……」
「ん?」
「ノルウェー語って難しい?」
 国龍は訊いた。
「英語を覚えた時と同じくらいに一生懸命やれば、すぐに覚えられるさ。――勉強したいのか?」
「……。クリスマス休暇中に覚えられる?」
「二週間で? 随分、無茶なことを言うんだな。――何かあったのか?」
「……話をしたい人がいるんだ。多分、クリスマス休暇を利用して来てる観光客だから、その間に」
「んー……。大抵のノルウェー人は、英語を話せると思うが、な。中年以上の年代には無理だろうが、若い人間なら――。今日、私もノルウェーの海運王の子息と少し話をしたが、上手な英語を使っていたし」
「ノルウェー語を覚えたいんだ。今すぐに」
 無理を承知で、国龍は言った。
「もう決めているのなら、何を言っても無駄だろう。――何の話をしたい? 日常会話を覚えたい訳ではないだろう?」
 ラルフの言葉は、暖かかった。
 国龍は、サンタモニカでのことを、ラルフに話した。
「――だから、訊きたいんだ。マーニ、って呼ばれてたその少年が、何故、ぼくの写真集を持っていたのかを……」
「……。レコーダーを持っておいで。必要な言葉を教えてやろう」
「ありがとう、ラルフ……」
 少し早い、クリスマス・プレゼントのような時間だった……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

《 XX 》 ――性染色体XXの女が絶滅した世界で、唯一の女…― 【本編完結】※人物相関図を追加しました

竹比古
恋愛
 今から一六〇年前、有害宇宙線により発生した新種の癌が人々を襲い、性染色体〈XX〉から成る女は絶滅した。  男だけの世界となった地上で、唯一の女として、自らの出生の謎を探る十六夜司――。  わずか十九歳で日本屈指の大財閥、十六夜グループの総帥となり、幼い頃から主治医として側にいるドクター.刄(レン)と共に、失踪した父、十六夜秀隆の行方を追う。  司は一体、何者なのか。  司の側にいる男、ドクター.刄とは何者なのか。  失踪した十六夜秀隆は何をしていたのか。  柊の口から零れた《イースター》とは何を意味する言葉なのか。  謎ばかりが増え続ける。  そして、全てが明らかになった時……。  ※以前に他サイトで掲載していたものです。  ※一部性描写(必要描写です)があります。苦手な方はご注意ください。  ※表紙画:フリーイラストの加工です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

処理中です...