幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 27

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「……ぼくは疲れたので、これで」
 まだ記者たちの質問が続く中、国龍は蒼冷めた面で立ち上がった。
 血の気が引き、息が詰まり、足も心なしかフラついている。
「え、ちょっと待ってくださいよ、ミスター.ロン・ウェイ――」
 国龍を引き留めようとした記者の言葉は、突然現れた長身の男を見て、ハッ、と止まった。
 言葉が続かない内に、長身の男は、国龍を支えて控室へと翻る。
「お、おい……今の男、黄中元の片腕、ラルフ・リーじゃないのか……?」
 二人の姿が見えなくなると、記者の一人が、呆然としながら口を開いた。
「じゃあ、あの少年のバックに政財界の大物がついてる、って話も、やっぱり本当だったのか……?」
「下手なことは書けないぜ。こっちの首が飛んじまう……」
 創る側が芸術を志していようと、それを扱う側は、決して芸術だけでは動かないのだ。金が絡まり、コネクションが絡まり、その中、常に人の顔色を窺いながら動いている。
「大丈夫か?」
 控室に入り、そう訊いたのは、ラルフだった。国龍をソファに座らせての、問いかけである。
「水龍は……死んだかも知れない」
「……」
「体が弱かったんだ……。ぼくは、海の広さも知らなかった。だから、水龍に逃げろと言ったんだ。海には魚がいるから、食べるものにも困らない、と思っていた。――でも、今は色々なことを知っている。あんな広い海を、水龍が渡れたはずもないんだ。海を渡り切るまで、水龍の体が持ったはずがないんだ。あの写真は……あのカットは、ぼくじゃない。あれは……あれは、水龍の姿が写っているんだ。海に沈んだ水龍の姿が……」
「……。少し休むといい。やっと目的に辿り着いて、精神が不安定になっているんだ」
「違う……。怖いんだ」
「国龍?」
「怖い……。これで水龍が見つからなければ……。水龍がぼくの前に姿を見せなければ、水龍は、もう……。そう思うと、怖くて……不安で……ぼくはどうしたらいいのか解らない……」
 国龍は、頭を抱え込むようにして、震える声で呟きを落とした。
 今までは、水龍が連絡をして来ないのは、国龍の居場所が解らないからだ、と思い込むことが出来ていたのだ。そう思い込むことで、水龍が生きている、と信じ込むことが出来ていた。水龍がラルフの処に姿を見せなかったのも、長い船旅でラルフの名前を忘れてしまっていたからだと――。
 だが、今回は、違う。この個展を切っ掛けに、国龍の顔と名前が全米に知れ渡ることになれば、そんな逃げ道は通用しなくなってしまうのだ。
 水龍が生きているのなら、ロン・ウェイが国龍であると察し、国龍の前に姿を見せるはずである。もし、姿を見せなければ、それは――。今までの国龍の八年間は、根底から覆されることになってしまう。
「い……いやだ……」
「国龍?」
「いやだ……。水龍は死んでなんかいない……。ぼくと水龍は双子なんだ……。水龍が死んで、ぼくだけが生きているなんてことは――」
「眠るんだ、国龍。今は私の言うことを聞け。君を精神病院へ入れることになるのは、ごめんだ」
「……」
「さあ、目を暝って……。何も考えてはいけない」
「ぼくは……」
「黙って――。写真を撮られることは、気分を高揚させるし、別の人格を見せられたような気分にもなる。その昔、写真を撮られると魂を抜かれる、と信じていた民族がいるように……。君は写真のセットの中に迷い込んで、知らない内に精神まで引き込まれていたんだ。コーエンがテーマにしている《狂気》のせいもあっただろう。自分の狂気を見せつけられて、平気でいられる人間などいない。――さあ、眠って。眠れば落ち着く。そのために私がいるんだ」
 そのために、ラルフが……。
 そのラルフの言葉は、国龍の頭の中に、心地よい振動で伝わっていた。
 慰めの言葉を持ち出すでもなく、くだらない励ましをかけるでもなく、また、余計な期待を持たせるでもなく……。そんなラルフの心遣いが、国龍には何より心地よかった。
 たとえ、ラルフが『水龍は必ず生きている』と言ったところで、国龍は、信じることもしなかっただろう。そして、ラルフも、そんな調べてもいないことを、軽々と口に出したりはしなかったに違いない。――そう。ラルフは一度として、水龍がまだ生きている、と言ったことなどないのだ。ただ、探すのを手伝ってやる、と言っただけで――。他の誰に、そんな真似が出来る、と言うのだろうか。
 個展は変わらず、続いていた。
 悲しい歌を聴けば、気分も沈むように、狂気の写真を目の当たりにすれば、心もそれに引きずられる。その写真が美しければ美しいほどに、ショッキングであればショッキングであるほどに、人々の精神に深く巣くくる。
 幻想的な狂気が、魅惑的な妖気が。
 もちろん、それは当人だけではない。見た人間、全てに。
《逃亡者》は、人々の精神に強烈な衝撃を植え付け、一般公開が始まる二日目からも、人々の魂を奪い続けた……。


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