幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 25

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 傲慢で自己中心的なフォト・アーチスト、スティーブ・F・コーエンが、国龍を撮りたい、と思った理由は、いくつか上げられるだろう。
 そして、それは、当人が口にするまでもなく、周囲の人間にも容易に知り得ることだったに違いない。
 人を惹きつける何かがあるのだ、国龍には。東洋人独特の神秘性や、その美貌はもちろん、普通の少年には持ち得ない何かが。
 だからこそ、コーエンも国龍を撮りたいと思ったのだろう。
 レンズを通して何が浮かび上がって来るのかを。
 妙に大人びた瞳を持つ少年が、何を見つめているのかを。
 夢と絶望、狂気と安らぎ、逃亡と戦……それらの果てに何があるのかを。
 もちろんそれは、国龍に取っては、どうでもいいことだったが。
「どうだ、撮影の方は?」
 夜中近くに帰って来たラルフが、ネクタイを毟り取りながら、近況を訊いた。
「んー……。別に。写真の腕にも、出来栄えにも興味なんかない」
 ニュースを見ながらソファに寝転び、片手間のように、国龍は言った。
「まあ、そんなところだろうな。――だが、個展が当たれば、君の名は一躍LA中に知れ渡る。コーエンの名で売れる訳ではない。君という全く新しい被写体が、ビジュアル・アーチストの腕を凌いでのし上がるんだ。――楽しみに待っていろ。個展が成功して名が上がるのはコーエンではない。君だ。君という未知数の存在が、新しい時代を創り上げる。羨望と妬み――形は違っても、君の名を知らない者などいなくなる。そして、それは、君が目的に近づくための、一番の近道だ」
 何という自信家なのだろうか。彼は、自分の腕を確かなものとして自負しているのだ。
 そして、そんな彼の言葉は、誰もがうなずいてしまうほどに、確信に満ちたものだったに違いない。
「楽しみにしてろ、って言われても……。今日なんか、カメラの前で三回も手淫マスターベーションさせられたんだぜ。『人間が一番、人間としての理性を失くす狂気に近い瞬間だ』、とか訳のわかんないことを言ってさ。あいつ、精神科医サイキアリストじゃなくて、患者の方だったんじゃないのか? でなけりゃ、マッド・シュリンクとか」
「……。あー、コホン。別に、何から何まで言うことを聞く必要は、だな……」
「別にヌードだって何だっていいんだけどさ。顔さえ写ってれば」
 何とも言えない顔のラルフを傍らに、国龍は無関心な口調で、テレビを消した。
 国龍も、幼い日は、ラルフのいうサクセス・ストーリーを夢見たことがあったのだ。
 だが、今は、もっと別の目的を持っている。
「でも、ぼくのヌードなら、倩玉も喜んで見てくれるかも知んないな。『まあ、ロン坊っちゃまもご立派になって』とか言って」
 と、得意げな顔で、太ったメイドの口真似をする。
「あのなァ……」
 ラルフの疲労がピークに達したことは、言うまでもない。
「まあ、一応、あのマッド・シュリンクの話では芸術作品らしいから――。ぼくも悪口を言う気はないけど、あんたみたいな人間と長く暮らしてると、どいつもこいつもつまらないまがい物にしか見えなくなる」
「……フッ」
 それは、最高の褒め言葉だったかも、知れない。
 そう――。コーエンは決して、腕の悪いアーチストではないのだ。それどころか、独特の感性を高く評価されている最高の芸術家アーチストである。彼の創り上げる作品は批評家を黙らせ、人々を呆然と圧倒させる。
 それでも、国龍が冷めた眼で見てしまうのは、やはり、さっきの言葉通り、ラルフとの暮らしが長かったせいだろう。
 撮影は、以後も順調に進んでいた。――いや、進んではいたが、その順調さとは裏腹に、舞台裏では、金を使っての醜い攻防が続いていた。あのパーティでコーエンに写真集の契約を断られた女優が、業界での顔とコネクションを使って、国龍とコーエンを潰しにかかったのだ。また、それだけのことを本当にやってのける力のある女優でもあった。もし、今回の個展の計画が、国龍とコーエンの二人だけのものだったなら、二人は個展を開くことも出来ず、どこのマスコミにも相手にされなくなっていただろう。
 だが、そうはならなかったのだ。
「妨害をやめろですって? どういうことなのよ」
 弱腰になるマネージャーへ向けての、女優の言葉だった。
「私は顔を潰されたのよ。あんなチビの中国人と、頭のイカれたアーチストに――」
「それどころじゃないんだ。政界や実業界から、とんでもない圧力がかかっている」
「当然でしょ。あの二人が私にしたことは、潰されても仕方のないことだわ」
「逆だ。あの二人にではなく、君とプロダクションに、だ」
「――。何ですって……。どういうことなのよ!」
「知るもんかっ。とにかく、これ以上、個展の邪魔をするようなら、潰されるのは君の方だ、ということだ。あの少年には、とんでもないバックがついている」
「そんなことって……」
 ラルフのやることには、いつも微塵の抜かりもなかった。それを自分の仕事――本来の秘書という仕事と両立しながらやっているのだから、まさに、神業、としか言えなかっただろう。
 そして、そうして頭を使って生きている時が、彼には一番楽しい時なのだ、ということも、国龍には解っていた。多分、初めて心を許すことが出来た他人が、ラルフ、だったのだ。
「何か臭うな……。何の匂いなんだ、これは?」
 そのラルフの言葉に、
「まだ臭う? 二回も風呂に入ったんだけどなァ……」
 クン、と自分の匂いを嗅いで、国龍は言った。
「訊きたくはないが……何をしたんだ?」
 今まで遭って来た被害からすれば、当然の問いかけだっただろう。
「あのマッド・シュリンクに、いきなり下水道に連れて行かれてさ。臭いのなんのって――。今日はそこで撮影してたんだよ」
「……ご苦労様」
 仕事でついた匂いとなれば、ラルフも文句は言えないらしい。
「個展のタイトル、決まったよ」
「ほう。――何だって?」
「Runaway」


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