幸せの椅子【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
5 / 51

Runaway 5

しおりを挟む

 家の中に入り、風呂場で洗濯物のようにゴシゴシと洗われた二人は、再び、大柄な男を前にしていた。
 お世辞にも〃きれい〃とは呼べない一室で、のことである。
 クモの巣の張った天井と、黄色く染まったカーテン、ヒビの入った壁、奥にある鶏小屋から漂う独特の臭い、煙草の臭い、人間の臭い……それらが染み付き、暗く淀んだその部屋で二人が聞いた言葉は、借金の金額だった。
「……一千圓チッチェンコー(元)?」
 水龍の薬代と、ここまでの馬車代は、一千元という途方もない金額になっていた。
 その金額を、大柄な男は、あの小柄な男に立て替えて支払った、というのだ。
 さらに、美国に行くには、その何十倍もの金がいる、という。
 数の数え方さえ解らない二人には、もう想像すらできない金額だった。もちろん、最初の一千元という金額も、何度も説明を受けなければ、解らなかった。
「まあ、借金を返したら、渡航費用の一割を稼いで、残りは美国に着いてから返すことになるだろうな」
 男はそう言い、
「おい、ナイナイ(婆婆)、このチビにも仕事を回してやってくれよ」
 と、干からびた、いかにもごうつくババア、といった感じの老女に声をかける。
 老女は、フンっ、と鼻を鳴らしただけだった……。



 二人の仕事は、着いたその日から、あった。掃除や洗濯、食事の支度の手伝い、鶏の餌やり、小屋の掃除……やることは多かったが、それでも農家での力仕事や、あちこち走り回る仕事に比べれば、随分、楽なような気がしていた。
 一週間後に、二人合わせて、七元のお金をもらったが、それは、借金の返済と、ここでの食事代、洋服代に消え、手元には全く残らなかった。
 返済に回す稼ぎよりも、食事代や雑費の方が多くかかるのだ。
 数週間働いても、借金を返せる見通しはおろか、美国へ行くための金が溜まる見通しさえ、全く、つかなかった。
 そんな生活に不安を感じていた時、婆婆にこう言われたのだ。
「早く金を稼ぎたきゃ、客を取ることだね」
「……客?」
 国龍も水龍も、その言葉の意味を知らない訳では、なかった。置屋に売られる子供はたくさんいたし、ここも、その置屋の一つだったのだ。
 だが、それは、二人よりももっと大きな、それも女の子の話であり、男である彼らには関係のないことだったはずなのだ。
「おまえたちのように、きれいな男の子と遊びたがる客もいるのさ。男の子は九つになるまで客は取らせないが、やりたいものを止めやしないよ」
「……」
 やりたいのか、やりたくないのかは、国龍にはまだ、判らなかった。――いや、それで金が稼げるのなら、多分、やりたかった。ただ、それがどんなことであるのかまでは、解らなかったのだ。客が、幼い子供とどういう風に遊びたがっているのかが。
「ぼく……ぼく、やだ……。女の人が泣いてたの、知ってる……。男の人にいじめられて、たすけて、とか、ゆるして、とか言ってた……」
 国龍の服の裾をつかんで、水龍が言った。
 その水龍の言葉を、心底楽しげに笑い飛ばしたのは、婆婆だった。
「ハッハッ! 女は男に乗られて喜んでいるのさ。あんまり良くってね。――おまえたちも、九つになったら厭でも客を取なきゃならないんだから、それくらいは覚えておきな」
 と、歯の抜けた薄気味悪い口で、ニヤリ、と言う。
「……九つになったら?」
「ああ、そうさ。たっぷりと稼いでもらわないとね」
 その婆婆の言葉に、水龍はすっかり脅えていた。客に苛められている女の声を聞けば、誰でもそうなるだろう。今にも死んでしまいそうなほどの、苦しげな声を上げるのだ。
 だが、国龍は――。
「オレ……オレ、やってもいい。金たくさんくれるのなら、明日から、やる」
「……国龍?」
 目を瞠ったのは、水龍だった。
「女の人が、いじめられて泣いてたんだよ。ひどいことされるんだよ。それなのに――」
「うるさいなっ。どうせ九つになったらやるんだから、いっしょだろっ」
 怖くなかった訳ではないのだ、国龍にしても。それでも、お金が欲しかったし、何より、水龍の前で怖がっているところを見せるのは、小さなプライドが許さなかった。
「ホゥ。いい眼をした坊やだ」
 もう引くことも、出来なかった。
「オレ……やるけど、どうやったらいいのかわからないし、どんなことするのかも……」
「ただ客に言われた通りにしていればいいのさ。横になって寝ていれば、すぐに済む」
「……」
 その日の夜、国龍は、なかなか寝付くことが出来なかった。水龍が眠っているのを確かめては、婆婆のところへ「やっぱり、やめる」と言いに行こう、と何度も思った。
 だが、結局それは、出来なかった。
 今から思えば、幼い子供に無理やり客を取らせることより、自分の意志で客を取らせることの方が、よほど残酷なことだったに、違いない……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

熱い風の果てへ

朝陽ゆりね
ライト文芸
沙良は母が遺した絵を求めてエジプトにやってきた。 カルナック神殿で一服中に池に落ちてしまう。 必死で泳いで這い上がるが、なんだか周囲の様子がおかしい。 そこで出会った青年は自らの名をラムセスと名乗る。 まさか―― そのまさかは的中する。 ここは第18王朝末期の古代エジプトだった。 ※本作はすでに販売終了した作品を改稿したものです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

《 XX 》 ――性染色体XXの女が絶滅した世界で、唯一の女…― 【本編完結】※人物相関図を追加しました

竹比古
恋愛
 今から一六〇年前、有害宇宙線により発生した新種の癌が人々を襲い、性染色体〈XX〉から成る女は絶滅した。  男だけの世界となった地上で、唯一の女として、自らの出生の謎を探る十六夜司――。  わずか十九歳で日本屈指の大財閥、十六夜グループの総帥となり、幼い頃から主治医として側にいるドクター.刄(レン)と共に、失踪した父、十六夜秀隆の行方を追う。  司は一体、何者なのか。  司の側にいる男、ドクター.刄とは何者なのか。  失踪した十六夜秀隆は何をしていたのか。  柊の口から零れた《イースター》とは何を意味する言葉なのか。  謎ばかりが増え続ける。  そして、全てが明らかになった時……。  ※以前に他サイトで掲載していたものです。  ※一部性描写(必要描写です)があります。苦手な方はご注意ください。  ※表紙画:フリーイラストの加工です。

処理中です...