幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 4

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 古くから対岸貿易港として発展した福州は、福建省の省都であり、漢代の紀元前二〇二年にビン越王が都と定め、唐代には、福州府が置かれた古都である。
 アヘン戦争の後に開港された五港の内の一つでもあり、日本とも縁が深い。
 もちろん、そんなことは、幼い二人の兄弟には、何の関係もないことだったが。
「海だよっ、国龍。海が見える!」
 馬車から指を差してはしゃぐ水龍の言葉に、豪快な笑いを飛ばしたのは、小柄な男だった。
「ハッハッ! あれは河だよ。ミン江だ」
 福州は、この福建省最大のミン江河口に存在しているのだ。
「やーい、水龍のバーカっ。河と海を間違えてやんの」
「国龍だって知らなかったくせにっ」
「オ、オレは知ってたさ」
 その街はまるで、異国のようだった。
 天高く聳える白い白塔パイタと、黒い鳥塔ウータは、さながら世界を見下ろすことが出来る神の位置であるかのように二人を見下ろし、見たこともない大きな建物は、もう開いた口も塞がらないくらい、ドキドとする何かをもたらしてくれた。
 港がある、ということは、いつの世も街に繁栄をもたらしてくれるものだったのだろう。
 だが、二人が連れて行かれたのは、ゴミゴミとした薄暗い雰囲気の、掃き溜めのような一角だった。
 おまけに、人々の話す言葉さえ、ほとんど聞き取れない状況になっていた。
 巨大な中国大陸では、地方によって、話す言葉が違うのだ。四川で育った二人に取って、福建人の話すビン南語(福建語)は、異国の言葉に等しかった。
 もちろん、幼い子供だった分、大人のように、田舎の言葉を恥ずかしい、と思うことはなかった。
 二人をここまで連れて来た小柄な男は、四川訛りの残るビン南語で、何やら別の男と話をしていた。時々、国龍と水龍の方を垣間見たりしている。
「あの人が美国に連れて行ってくれるのかなぁ?」
 小柄な男と話をする、もう一人の男を見て、水龍が言った。大柄で、二人を連れて来てくれた男とは、全く対照的な体躯をしている。
「すぐに美国に行ける訳がないだろっ。おまえの薬代とか、馬車代を返さなきゃならないんだ」
「あ、そーか」
 呑気な二人の会話を傍らに、男たちの交渉は続いていた。
「女の子ならいくらでも買い手はあるが、男の子じゃあなァ……」
 歪んだドアの前に立つ大柄な男が、顎に手を当てて渋ってみせた。
「あれだけきれいな子なら、欲しがる奴もいるだろう?」
 小柄な男が、また、二人の方を垣間見る。
「まだ小さ過ぎるさ。うちは、九つになってからでないと売らないんだよ」
「じきに九つになるさ。見かけは小さいが、二人とも、もう八つだ」
「……仕方がないな。――おい、坊主、こっちへ来てみろ」
 男の呼び声と手招きに、二人は顔を見合わせながら、トコトコと歪んだドアの前へと足を向けた。
 男が二人の背丈まで身を屈め、国龍から順番に、顎に指を掛けて、じろじろと顔を眺め始める。
「……なるほど。汚れてはいるが、きれいな子だ」
「それほどでもぉ……」
 と、照れながら、国龍。
 人に褒められることは、嬉しいものである。
「ハクシュンっ!」
 それは、水龍のクシャミだった。しかも、男がマジマジと顔を眺めている時だったから、タイミングが悪い。
「水龍のバカっ! 鼻水がおじさんの顔についちゃったじゃないかっ。あーあ、鼻クソまで――。クシャミくらい我慢しろよっ」
「だって……」
「あーっ、もう、汚いやつだなっ」
 などと言いながら、国龍は、鼻水よりも汚いと思える服の袖で、男の顔をゴシゴシと拭いたりしている。それが、純粋な好意だったことは、確かだろう。いつもの如く、手の掛かる水龍の面倒を見るように、怒られる前に気を遣ってやったのだ。
「ごめんね、おじさん。こいつ、すぐ体をこわすから。オレ、ちゃんと二人分、働けるからさ」
 男が沈黙だったことは、言うまでもない。これ以上はない苦い顔で、ぷるぷると肩を震わせている。
 プーン、と牛の糞の臭いさえ漂う服の袖口で顔を拭かれては、それも当然のことだっただろう。
 普通、服というものは柔らかい感触だが、その服はパシパシに強ばっていたりしたのだ。
 小柄な男も、肩を揺らして、懸命に笑いを堪えている。
「……坊主、その服はいつから着てるんだ?」
 やっと口を開いた男の言葉だった。かなり怒りを抑えていると思える、低い声である。
 それに、その男ももともと四川の人間なのか、二人には福建語を使うことはしなかった。
 同郷、血縁で繋がる中国人は、離れていても、その〃地と血の繋がり〃を持ってして、お互いの便宜を図り合うのだ。二人の男は、そういう地縁血縁で繋がっていたのだろう。
「えーと……。オレ、数のかぞえ方、わかんないし……」
 少し照れながら、国龍は言った。読み書き計算が出来ないことは、やはり子供でも恥ずかしいのだ。
 もちろん、汚い服を着ているほうが、もっと恥ずかしい、という意見もある。
 だが、そうして恥ずかしげに頬を染める国龍の姿は、誰が見ても可愛いものだったに、違いない。ただし、何日着ているか解らない服で顔を拭かれた男以外。
「なるほど。体だけでなく、頭の中にもしらみが蛆いていそうだな」
「えーっ! 耳から入ったのかな? ぜんぜん気がつかなかった」
「……」
 絶句。
 どうやら、男の方に返す言葉はないらしい。
 福州に来て、有頂天になっている二人には、明るい未来しか見えていなかったのだ。
「ぼく、草の上で寝てたとき、国龍の鼻の穴にアリが入って行くの、見た」
「えーっ! 何ですぐに言わないんだよ、このバカっ!」
「だって……見てる間に入ってったから……」
「おまえはいつもそうやって、ボー、っと見てるだけなんだよっ。グズっ。のろまっ」
「だって、国龍がすぐにクシャミをしたから、アリはきっと飛ばされちゃって――。それに、国龍、ムリに起こしたらきげんが悪いし――」
「もういいっ! おまえらの話を聞いてたら頭が痛くなる。さっさと中に入って、風呂に入れてもらえっ」
 疫病神に取り憑かれてしまったかのような、男の叫びだった。
「おまえが鼻水をかけたりするから、怒られたんだぞ、水龍。仕事がなくなったらどうするんだよっ」
「ちがうもんっ。国龍が汚い服で顔をふいたりするからだもんっ」
 最早、それだけの次元の問題ではないと思えるのだが、罪のなすり合いは、子供同士のケンカでは、ごく一般的なものだった。
 口だけなら、水龍も結構、気の強いところがあるのだ。この辺りは、さすがに双子と呼べるものだっただろう。



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