幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 2

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「ねェ、国龍。美国、ってどこにあるのかなぁ?」
 田畑の合間を進む中、水龍が大きな瞳を持ち上げた。
「そ、そんなもん、決まってるだろっ。船に乗って行くんだから、海の向こう側だよ」
「海……。海ってどんなのかなぁ」
「魚がいっぱい、いるんだよ」
「じゃあ、船に乗っても食べるものに困らないねっ」
「ああ、もちろんさ」
 黄色い大地の広大さも知らない頃の、会話だった。
 社会主義の巨大な大陸がどれほどの国土を有しているのか、海というものがどれほどの広さを持っているのか、幼い二人に解るはずも、なかった。ただ互いに離れたくない一心だったのだ。
 村の人々の噂だけを頼りに、広州や福州に出稼ぎに行っている人々の土産話だけを頼りに、ただ夢だけを抱いて歩いていた。
 祖父母や伯母夫婦、親戚たちが、もっと二人を心配して捜し回ってくれていれば、或いは、二人はずっと一緒にいられたのかも、知れない。
 だが、そうはならなかったのだから、今更そんな仮定を持ち出したところで、どうにもならないだろう。
 畑仕事の手が減るのは困る、という理由だけで――もちろん、貧しい農家ではそれはとても重要なことなのだが、親戚一同は、人手を割いてまで、二人の行方を追おうとはしなかったのだ。もちろん、腹が空けば戻って来る、行く当てがなくて戻って来る、ということも、念頭にあったに違いない。
 二人の逃避行を妨害するものは、差し当たって何もなかった。――いや、あった。
 国龍が心配していた通り、夜の内には、もう、水龍が歩けなくなっていた。ハァハァ、と荒く息をつき、ぐったりと国龍の肩に凭れ掛かって来たのだ。
「ほら、背中に乗れよ。おぶってやるから」
 そう言って水龍をおぶり、歩き出したものの、国龍も、そう遠くまで歩けるほど、体力を持っていた訳では、なかった。畑から家までおぶって行くのとは違うのだ。
 まだ互いに、たった八つの幼子だった。
 そして、歩いても歩いても、目指す海が見えて来ることは、全く、なかった。
 秋草の露も、小さな足を辛くするだけのものだったのだ。
 その日の夜は、何もない草の上で、眠りについた。
「……さむい」
「待ってろよ」
 上着を脱ぎ、国龍は、体を縮める水龍の肩にかけてやった。そして、自分もその上着の中に潜り込み、ぴったりとくっついて、寄り添った。
「こうしていれば、さむくないだろ?」
「うん」
 いつも、そうしていたのだ。寒い冬の日も、そうして眠れば、体はすぐに暖まった。
 その日もまた、同じだった。
 多分、不安もなかった。
 もちろん、二人には、後どれくらい歩けばいいのかも、何日こうして過ごせばいいのかも、全く解ってはいなかったが、それでもまだ、それが不安の要因になることはなかったのだ。
 まだ一日目であり、二人の胸には、夢と希望だけが存在していた。
 船に乗って美国へ行けば、全て変わる。そう信じて疑ってはいなかった。
 二日目も、夢を見ていれば幸せだった。
 だが、三日目は――。
「おなかが空いたよ、国龍……。もう歩けない……」
「歩けない? おまえはちっとも歩いてないじゃないかっ! いつだってオレがおぶってやって――。オレの方がよっぽどおなかが空いて、疲れてるんだっ」
 まだ子供、だったのだ。
 いつまでも弱い水龍のことばかり気遣ってやれるほど、国龍はでは、なかった。疲れて、おなかが空いて、足が痛くて、頼れる人間がどこにもいなくて、苛立ちばかりが募っていたのだ。
「だって……歩けなくなったら、おぶってやる、って……。国龍がそう言ったから……」
「おまえを可哀想だと思ったからだろっ! ――おまえなんか連れて来るんじゃなかった。オレはあの家にいても良かったんだ。おまえと違って仕事もできるし、売られる心配もなかったんだ。オレは、おまえが可哀想だと思ったから、連れて来てやったんだ!」
 多分、誰もが予測していたことだったかも、知れない。八つの子供に、相手の気持ちを考えてやれ、という方が無理なのだ。まだ自分のことさえ、自分一人では持て余す、非力な存在でしかなかったのだから。
「歩けないなら、おまえはここにいろよ。オレは一人で行くからな」
 国龍は、ふんっ、と鼻を鳴らして、歩き始めた。もちろん、水龍が後からついて来る、と信じて歩き出したのだ。
 多分、一人で生きて行けないのは、水龍だけでなく、国龍も同じだった。――いや、むしろ国龍の方が、一人になることに脅えていた、と言ってもいい。水龍がいてこそ、国龍は強い人間でいられたのだ。
 母が薬を飲む姿を見て不安になったように、国龍にとって、自分一人取り残されることは、何よりも恐ろしいことだった。
 苦しげな呼吸が後からついて来るのを感じて、国龍は、その時も、安堵していたのだ。
「……ったく。しょうがねーな。来いよ。おぶってやるから。食べ物は、夜になったら何か持って来てやるさ」
 面倒臭げに言いながらも、水龍が自分がいなければ生きて行けないのだ、ということを確認した気分になって、国龍はとても満足していた。
 疲れた時に頼られても腹が立つが、全く頼られないと、もっと腹が立つのだ。
「ごめんね、国龍」
 その言葉だけで、また歩いて行くことが、出来た。
 そして、悪いことでも何でも、出来るようになっていた……。


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