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Runaway 1
しおりを挟む夢を創るために逃げ出したのだ――女が夢を見る生き物なら、夢を創る男として……
母が薬を飲んでいるのを、見た。
何故だかとても不安になり、胃の奥が、キュ、っと冷たくなった。
母が死んでしまうのではないか、と思ったのだ。
今考えれば、母が飲んでいた薬、というのは、医者がくれるようなものではなく、薬草を煎じた呪いのような薬だったのだろうが、四川省の農村で、貧しい暮らしをしていた頃には、そんな知識さえ持ってはいなかったのだ。
母は、所謂、『雛妓』と呼ばれる少女売春婦であり、まだ十代の頃に、出稼ぎ先だった福建省で双子の兄弟を産み、その子供を四川省の実家に預け、年に数回、稼いだお金を持って、顔を見せに戻って来ていた。
港のある福建省は、内陸部に位置する四川省とは違い、七〇年代からの改革解放によって繁栄を約束された広州と同様、未来を望める土地だった。その繁栄を求めて四川を始めに、中国全土から人々が農地を捨てて、その繁栄の地に集まり始めていたのだ。
中でも、人々が福建省を選んだ理由は、そこにいれば、ある日、突然、『美国に行きたくないか?』と、制服姿の警官が現れて、美国行の船に乗せてくれる、という話が、まことしやかに噂になり始めていたからだった。
海に面したその都は、未来を夢見ることが出来る出発点だったのだ。
もちろん、四川省の農家に育ち、母親の帰りだけを待っていた幼い国龍と水龍には、それは単なる噂であり、決して手の届く場所にあるものでは、なかったが。
だが、その年の秋、母が、死んだ。
一九八五年――。
二人がまだ八つの時である。
いつか見た、薬を飲む母の姿が、頭の中に蘇っていた。あの時感じた不安が現実となり、二人は互いを抱き締め合って、泣いた。
農家には男手が必要であるから、売られることはないと思っていたが、それは国龍に限っての安堵であり、体の弱い水龍に取っては、お金を持って帰って来てくれる母がいなくなった今、すぐにも押し寄せて来る不安だった。
熱を出す度にお金のかかる水龍が、貧しい農家の厄介者になることは、幼い子供でも容易に知り得たのだ。
「逃げよう、水龍。ここにいたら、離れ離れにされる」
母親の死を哀しむ間もなく、幼い二人が出した結論だった。
「でも、行くところなんて……」
「美国に行くんだ」
「……美国?」
「ああ。シホンシュギの夢の国だ、って聞いたことがある」
「シホンシュギ……? なに、それ?」
「そっ、それは……っ。えーと、シャカイシュギの反対だよ」
「シャカイシュギ……? それ、なに?」
「だから――っ。この大陸のことなんだよっ。美国は、こことはぜんぜん違うんだ。あっという間に金持ちになれるんだ」
「金持ち……。ホントに?」
「ああ。行きたいだろ? もう熱を出したって、だれにもイヤな顔されないんだ。美国じゃ、治らない病気なんて一つもないんだ」
「国龍が行くなら……行きたい」
「じゃあ、決まりだ。――行くぞ」
「え……? 今から? もう夜だよ」
「明日になったら、おまえはどこかへ売られるかも知れないんだぜ。それでもいいのか?」
「……やだ。国龍といっしょに行きたい」
「なら急ぐんだ。――歩けなくなったら、オレに言うんだぞ。おぶってやるからな」
「うん」
双子、といっても性格は全く違っていた。多分、体が弱かった水龍を、国龍が守る、という形がいつの間にか出来上がっていたためだっただろう。
そして、国龍は、今まで自分一人で水龍を守って来た、と思い込んでいた。確かに、水龍が寝込んだ時、薬を飲ませてやったり、食事をさせてやったりするのは国龍の仕事だったが、その薬代も食事代も、決して国龍が稼いでいた訳ではないのだ。
だが、水龍を売る、という話は、まだ母親が生きていた頃から持ち上がっていた話であり、その母親がいなくなった今、すぐにも実行されて不思議ではない話だった。
実際、女の子しかいない家では、跡継ぎを作るために、男の子を欲しがっていたのだ。多少体が弱くても、跡継ぎさえ作れればいい、と。
たいていの場合、男の子は家業を継ぐために、婿養子に出されることなどなかったから、水龍のような体の弱い子供でも、女の子しかいない家庭には、血を絶やさないために必要だったのだ。
そして、貧しい内陸部では、子供を捨てたり、売ったりすることは、珍しくなも、なかった。
今まで水龍が捨てられたり売られたりせずに済んでいたのは、母親が金を持って帰って来てくれていたからであり、国龍が水龍の分まで働いていたから、だっただろう。
あまりにも無謀な、そして、あまりにも懸命な、八つの幼子たちの逃避行は、その日の夜に、始まった……。
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