幸せの椅子【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
1 / 51

Runaway 1

しおりを挟む


 夢を創るために逃げ出したのだ――女が夢を見る生き物なら、夢を創る男として……



 母が薬を飲んでいるのを、見た。
 何故だかとても不安になり、胃の奥が、キュ、っと冷たくなった。
 母が死んでしまうのではないか、と思ったのだ。
 今考えれば、母が飲んでいた薬、というのは、医者がくれるようなものではなく、薬草を煎じたまじないのような薬だったのだろうが、四川省の農村で、貧しい暮らしをしていた頃には、そんな知識さえ持ってはいなかったのだ。
 母は、所謂いわゆる、『雛妓チュージー』と呼ばれる少女売春婦であり、まだ十代の頃に、出稼ぎ先だった福建省で双子の兄弟を産み、その子供を四川省の実家に預け、年に数回、稼いだお金を持って、顔を見せに戻って来ていた。
 港のある福建省は、内陸部に位置する四川省とは違い、七〇年代からの改革解放によって繁栄を約束された広州と同様、未来を望める土地だった。その繁栄を求めて四川を始めに、中国全土から人々が農地を捨てて、その繁栄の地に集まり始めていたのだ。
 中でも、人々が福建省を選んだ理由は、そこにいれば、ある日、突然、『美国メイグオに行きたくないか?』と、制服姿の警官が現れて、美国アメリカ行の船に乗せてくれる、という話が、まことしやかに噂になり始めていたからだった。
 海に面したその都は、未来を夢見ることが出来る出発点だったのだ。
 もちろん、四川省の農家に育ち、母親の帰りだけを待っていた幼い国龍グオロン水龍シュイロンには、それは単なる噂であり、決して手の届く場所にあるものでは、なかったが。
 だが、その年の秋、母が、死んだ。
 一九八五年――。
 二人がまだ八つの時である。
 いつか見た、薬を飲む母の姿が、頭の中に蘇っていた。あの時感じた不安が現実となり、二人は互いを抱き締め合って、泣いた。
 農家には男手が必要であるから、売られることはないと思っていたが、それは国龍に限っての安堵であり、体の弱い水龍に取っては、お金を持って帰って来てくれる母がいなくなった今、すぐにも押し寄せて来る不安だった。
 熱を出す度にお金のかかる水龍が、貧しい農家の厄介者になることは、幼い子供でも容易に知り得たのだ。
「逃げよう、水龍。ここにいたら、離れ離れにされる」
 母親の死を哀しむ間もなく、幼い二人が出した結論だった。
「でも、行くところなんて……」
「美国に行くんだ」
「……美国?」
「ああ。シホンシュギの夢の国だ、って聞いたことがある」
「シホンシュギ……? なに、それ?」
「そっ、それは……っ。えーと、シャカイシュギの反対だよ」
「シャカイシュギ……? それ、なに?」
「だから――っ。この大陸のことなんだよっ。美国は、こことはぜんぜん違うんだ。あっという間に金持ちになれるんだ」
「金持ち……。ホントに?」
「ああ。行きたいだろ? もう熱を出したって、だれにもイヤな顔されないんだ。美国じゃ、治らない病気なんて一つもないんだ」
「国龍が行くなら……行きたい」
「じゃあ、決まりだ。――行くぞ」
「え……? 今から? もう夜だよ」
「明日になったら、おまえはどこかへ売られるかも知れないんだぜ。それでもいいのか?」
「……やだ。国龍といっしょに行きたい」
「なら急ぐんだ。――歩けなくなったら、オレに言うんだぞ。おぶってやるからな」
「うん」
 双子、といっても性格は全く違っていた。多分、体が弱かった水龍を、国龍が守る、という形がいつの間にか出来上がっていたためだっただろう。
 そして、国龍は、今まで自分一人で水龍を守って来た、と思い込んでいた。確かに、水龍が寝込んだ時、薬を飲ませてやったり、食事をさせてやったりするのは国龍の仕事だったが、その薬代も食事代も、決して国龍が稼いでいた訳ではないのだ。
 だが、水龍を売る、という話は、まだ母親が生きていた頃から持ち上がっていた話であり、その母親がいなくなった今、すぐにも実行されて不思議ではない話だった。
 実際、女の子しかいない家では、跡継ぎを作るために、男の子を欲しがっていたのだ。多少体が弱くても、跡継ぎさえ作れればいい、と。
 たいていの場合、男の子は家業を継ぐために、婿養子に出されることなどなかったから、水龍のような体の弱い子供でも、女の子しかいない家庭には、血を絶やさないために必要だったのだ。
 そして、貧しい内陸部では、子供を捨てたり、売ったりすることは、珍しくなも、なかった。
 今まで水龍が捨てられたり売られたりせずに済んでいたのは、母親が金を持って帰って来てくれていたからであり、国龍が水龍の分まで働いていたから、だっただろう。
 あまりにも無謀な、そして、あまりにも懸命な、八つの幼子たちの逃避行は、その日の夜に、始まった……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

熱い風の果てへ

朝陽ゆりね
ライト文芸
沙良は母が遺した絵を求めてエジプトにやってきた。 カルナック神殿で一服中に池に落ちてしまう。 必死で泳いで這い上がるが、なんだか周囲の様子がおかしい。 そこで出会った青年は自らの名をラムセスと名乗る。 まさか―― そのまさかは的中する。 ここは第18王朝末期の古代エジプトだった。 ※本作はすでに販売終了した作品を改稿したものです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...