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陸伍
しおりを挟む《ルグナサーの宵》が始まった。
自然と超自然の障壁が開かれ、特種の超自然的エネルギーに充たされる。
開かれた塚から、あらゆる神性を持つものや、死人の霊が人間の世界に干渉し、この世に生ける人間も、知らずに彼の地へ迷い込む。
ある者は冥界の入り口に、ある者は地下に隠れた精霊の地に、またある者は、神々の堕ちた海の底に。
トルウは、癒しのための呪歌を紡ぎ、傷の癒えたその体で、少女の前に足を進めた。
少女は気持ち良さそうに眠っている。長き黒髪が、白い四肢が、あまりに無垢に輝いている。
善も悪も知らない無垢であるが所以に、彼女は人を畏れようとはしない。そして人は、そんな無垢な乙女を、畏れなくてはならない。
彼女ほど、何物にも犯されていない――善にも悪にも傾いていない無垢な心を持つ者はいないのだ。
トルウはその少女の前に腰を下ろし、竪琴を優しく胸に抱いた。
呼吸を整え、静かに弦に指を添える。
恐らく、声が先であっただろう。喉が紡ぎ出す呪歌に従い、弦が音を弾いたのだ。
自然と一体になるようなその声は、あまりにも自然に溶け込み過ぎて、ふと、我に返った時、竪琴の音しか聴いていなかったような錯覚さえ、起こさせる。
朗々と続く呪歌の中、少女の黒髪が、わずかに震えた。
目醒めてしまうというのか、彼女は。
彼女の覚醒は、この九龍城砦の消滅に外ならない、というのに。呪歌の解放に従ってしまうというのか。
長い睫が小刻みに震え、白い指先が微かに動いた。
トルウはさらに、呪歌を綴った。刹那であった。
「く――っ!」
突然、背後から喉に絡み付いた二の腕に、トルウは竪琴を取り落とした。
絡み付く腕は、喉を潰す強さで、トルウの喉を締め付けている。
しかし、一体、誰が――。
輪も婆婆も眠りにつき、トルウの背後には、蜃一人しかいなかったのではないか。
「ぐ……う……」
苦しみの中、トルウは、絡み付く二の腕を解こうと、懸命にその腕に指を掛けた。
だが、腕は微動ともせず、トルウの首を締め付けた。
傍らから、また別の――シミだらけの干からびた腕が、竪琴に伸びた。
「ま……さか……」
トルウはその光景を見て、目を瞠った。
トルウが取り落とした竪琴を拾ったのは、婆婆であった。
なら、背後から喉を締め付けているのは――。
「ナイナイ、もう針を抜いてくれよ。音が何も聞こえない、ってのは、ちょっと気味が悪い。自分の声だって聞こえないんだぜ」
輪である。彼にはトルウの呪歌はもちろん、その他のあらゆる音も聞こえていないのだ。自らの声すら。
そして、婆婆も。
「え? 何だって? 何を言ってるのか聞こえやしないよ」
彼らは、眠りを誘う呪歌に気づいた時、その呪歌を聞かなくても済むように、婆婆の針によって聴覚を完全に封じ込め、倒れたフリをしていたのだ。
何という二人なのであろうか。
「こんな……ことが……」
二人の会話が聞こえているトルウには、目を瞠るしかない出来事であった。
「あ、こいつ、また何か喋ってる」
喉の震えを感じたのか、輪が再びトルウを見下ろした。
「でも、何て言ってるのかわかんない」
と、眉を顰める。
結構、可愛い。
婆婆は、自らの針から先に、抜き始めている。極細の不可視の針を首の後ろから抜き取り、続けて輪の針も、同じように首から取り出す。
「あー、音が聞こえる。音のある世界がこんなにホッとするものだとは思わなかった。チビどもが騒いでる時は煩くて仕方がなかったのに、今思えばあれも可愛いかも知んない」
チビども、とはもちろん、婆婆の売春窟にいる子供たちのことである。
「何とか間に合ったようだね。たったあれだけの歌を聴いただけでも、眠気を堪えるのに苦労したよ」
「伝説人は眠ってないみたいだぜ」
輪の視線の先には、何ら変わりのない面貌をした蜃が、いた。
彼は、輪と婆婆が起き上がり、トルウの背後に忍び寄るのを見ていたはずなのに、邪魔どころか、口出し一つしなかったのだ。
「心を入れ替えて、ぼくたちの側につくことにしたのかい? それとも、ぼくの妹に一目惚れしたとか?」
言葉は軽いが、その腕はまだ、トルウの喉を凄まじい力で締め付けている。
「……私は、彼が答えを出すのを聞き、彼に全てを託した。私の言葉にも左右されぬ、と言った彼の答えに……。私が手を出すことではないだろう」
「ふんっ。あんまり長生きし過ぎると、あんたみたいにロクでもない生き物になるらしいな。ぼくが一番気に食わないのは、こいつらじゃなくて、あんただよ」
「……」
多分、輪の言葉は正しかったのだろう。蜃は何も、言わなかった。
「あんたが管理してる楼には、静かに眠れる場所があるかい?」
輪は訊いた。
「……人の言葉を借りるなら、彼所は穏やかで美しい楽園らしい」
飽くまでも、自分の考えなど軽々しく口にしないのだ、この青年は。
「じゃあ、その穏やかで美しい楽園とやらに、ぼくの妹の部屋を創ってくれよ。ぼくの部屋に置いとくと、チビどもが煩くて、目を醒ますかも知んないからさ」
「……次にいつ逢えるのか判らなくなるが、それでもいいのなら」
「ああ、構わない」
「承知しよう」
一体、何を考えている、というのだ、この二人は。
たった今気に食わないと言った敵に、自分の妹を預けようとしている少年にしても、その少年の言葉をあっさりと受け入れてしまう青年にしても――。
きっと、彼ら二人の胸の内は、常人の頭で理解できるものではないのだろう。――いや、人が想像できる範囲のことで、彼らのことを安易に理解してはならないのだ。
「いい加減、その若者から手を離しておやり、輪。もう気を失ってるよ」
意識なく項垂れるトルウを見て、婆婆は皺くちゃの顔を、さらに顰めた。
「あ、ホントだ。苦しむ顔を見るのを忘れてた」
「後ろから締めてちゃ見えないだろうが」
もっともである。
「まあ、そんなものよりもっと見たいものがあるし」
赤みがかった瞳を細め、輪はトルウの顎を持ち上げた。
「やめておおき。おまえの悪趣味はたくさんだよ。その若者は、あたしの売春窟で稼いでもらうんだからね」
「えーっ。ぼくにくれる、って言ったじゃないか――」
「おまえの傷の手当をしてやったのは、誰だと思ってるんだい」
「……くそババァ」
「何か言ったかい?」
ギロ、っと一瞥。
「別に」
二人が悍ましい会話を続ける中、蜃の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
仔猫のように眠っていた少女の姿も。
ここではいつも、そんな風にして、突然、姿を消す人間がいる。
だから、ここは魔窟と呼ばれるのだ。
「針を使って従順にすれば、この若者もたっぷりと腰を使って稼いでくれるよ。喉を潰されて謳えなくなった吟遊詩人というのも、この九龍城砦には似合いの住人さ」
東洋最大で最後のカスバ、九龍城砦――この街はこれからもずっと、無国籍の魔窟であり続ける……。
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ありがとうございました!
伍弐まで
ここまでの血みどろの過程に、竹比古さんのように、残虐シーンを臆することなく書けるようになりたい、と切に思ってしまいました。
ケルト暦や再生の車輪、異界で起こりうる不可思議なことのいろんな可能性に想像力をかき立てられました。
いよいよクライマックス、ルグナサーの宵へ。楽しみです。
萩尾さん、ありがとうございます! 元々、バイオレンスアクションを書いていた昔があって、(webでは需要がないため)今はサスペンスやサイコを書いている、的な部分もあります(笑)。そして――。>>残虐シーンを臆することなく――。いえいえ、萩尾さんは今のままが素敵だと思います。そちらで繰り広げられるケルトの世界を楽しみにしています!
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