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陸肆
しおりを挟むトルウの歌声は続いていた。
胸の傷は、変わらず血を流し続けているというのに、死力を尽くすように、優雅な呪歌を紡いでいる。
輪の瞼が、限界のように重く閉じた。
婆婆の瞼も、同じであった。
二人して、眠りを誘う呪歌の前に、敢え無く突っ伏す。
これが、呪歌の威力なのだ。
最後の弦が音を弾き、竪琴を奏でる指が、静かに止まった。
呪歌を唱える喉も、緩やかに閉じる。
「……この世のものではない御方には効きませぬか」
変わらぬ姿で虚空にいる蜃を見上げ、トルウは訊いた。
「さて。今の私は、この地に存在していない。――人前で、その少女を消し去ることに抵抗があるのか?」
「……。応えにくい問いを持ち出される」
トルウの表情が、自嘲に歪んだ。
「私の心が揺れるのを承知で、あの少年と、この少女の関係を明かされたのですか?」
「私は応えを出す者ではない……。応えを出してくれる者が現れることを、待っているのだ、異国の吟遊詩人よ。私の楼を要らぬものと決め、私と共に滅ぼす者が現れるのなら、それが正しき答えであれ、誤った答えであれ、私はそれを受け入れるだろう。もちろん、死力を尽くして楼を守った末に――。正しき答えなど、まだ誰も決めてはいないのだ。私が楼を守ろうとしていることも過ちであるかも知れないし、その少年が九龍城砦を守ろうとしていることも過ちであるかも知れない。誰かがその答えを出さなくてはならないのだ」
「……この九龍城砦を消し去ろうとすることも過ちであるかも知れない、と?」
「……」
蜃は、ただ無言であった。
ある者は、九龍城砦を守るために。
またある者は、九龍城砦を消し去るために。
そして、またある者は、己の楼を守るために。
今、その答えを出そうとしている。
「この九龍城砦は……決して正しき世界ではありません。客を取る女の姿を見ました。お腹を空かせている子供の姿を見ました。ヘロインを手に入れるために、人を殴り殺す男の姿を見ました。身ぐるみ剥がれる年寄りの姿を見ました……。この世界は確かに間違っているのです」
「ならば、そなたの出した答えこそ、正しいのであろう」
「……本当にそうなのでしょうか?」
トルウは、幻想的な青年を真摯に見上げた。
「あの少年は、ここでしか生きて行けない者もいる、と言いました。誰もが生きることを考えてここにいる、と……。そして、彼らは確かにここで生きています。私は……私には、彼らのように、この魔窟にいる弱き者の行き先を決めてやることは出来ません。それでも、私の答えは間違っていないのでしょうか?」
「私が『然り』と言えば気が済むのなら、そう言おう」
「いえ……。いえ。私はこの地を訪れる前から決めておりました。賢者殿とこの地を訪れることを決めた時から、この地で廻っている《再生の車輪》を、必ず断ち切らなくてはならないのだと……。御二人がその目的を遂げるために命を落とされたのなら、事の正しさは関係なく、私は自らの使命を果たすだけです……」
「ならば、そうされるがよい、吟遊詩人殿」
時計の針が深夜を指した。
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