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陸参
しおりを挟む何ということであろうか。だが、それならば説明もつく。
何故、『再生の車輪』がこの地で廻り始めたのか。当初からの謎であったその説明が。
東洋最大で最後のカスバ、九龍城砦が甦った理由が。
美しき魔物たるその双子は、古の血を継ぐ者たちであったのだ。だからこそ、ケルトの神々の落とし物をこの地に呼び寄せ、起動させることが、適った。
そして、輪がその少女に懐かしさを感じたのも、当然のことであったのだ。彼女は輪の片割れであり、心をも共有しあっていた。
「……こういうの、ナルシストっていうのかな。ぼく、ちょっとその娘にドキドキしちゃったんだけど」
輪は言った。
どうやら、自分の氏育ちに興味はないらしい。
「生きて産まれて来たなら、よく稼いでくれただろうにねぇ」
婆婆の方は、がめついままだったりする。
「ぼくの妹だぜ、ナイナイ」
「そうだったね。疫病神が増えるだけだったやも知れん」
そんな会話が続く中、少女は気持ち良さそうに眠っている。長い睫も、薄紅色の唇も、至福の一時を纏っている。
「――で、あんたは、吟遊詩人が竪琴の弦を張り替えるまでの時間稼ぎに出て来たのかい、伝説の蜃?」
「……君がそう思うのなら」
「ふんっ。いつ聞いてもスカした奴」
蜃の出現によって中断されていた戦いの中、トルウはすでに弦を張り替え、時計の針は、じきに一二時を指そうとしていた。
あと数分で、《ルグナサーの宵》を迎えるのだ。
「多分、今のぼくなら、あんたの衣も斬り刻むことが出来ると思うぜ」
唇の端を不敵に持ち上げ、輪は言った。
「……かも知れぬな。血の繋がりというのは不思議なものだ。他人とは確かに違っている。それに――そなたの血は、この地だけのものではない」
「なら、行くぜ」
カッ、と赤みがかった双眸が、閃いた。
拾い上げたガラス片を美しく構え、回転をつけて蜃の元へと投げ付ける。
蜃は動かず、そこにいた。
だが、決して動けなかった訳ではないだろう。動かなかったのだ。衣を構え、襲い来るガラス片を振り払う。
キーン、ときらめくような音が、鳴り響いた。
「ほう」
婆婆が零した感嘆であった。
翡翠色の衣が柔らかく舞い、ガラス片を払った刹那に生じたその音は、感嘆を零すのに相応しいほど、玲瓏で美しいものであったのだ。
そして――。
「……九龍城砦の住人だな」
人外の血を持つ者、とは言わず、敢えて、九龍城砦の住人、という、今のこの場に最も相応しい言葉で、蜃が言った。
ネイルさえも弾き返したはずの翡翠色の衣は、ガラス片の一線に切り裂かれている。
「幻を斬ったって面白くもないけど、ちょっといい気分かな」
輪は言った。
その言葉も当然であっただろう。実体を斬るより、幻を斬る少年の方が、数倍も恐ろしいとは言えないか。これも、向こう側の血、所以なのであろうか。それとも、この九龍城砦の――。そうであろう。彼はこの魔窟で生まれ育った魔窟の住人なのだ。
竪琴の音が広がったのは、そのすぐ後のことであった。
澄んだ音が繊細に重なり、空気を細かく震わせる。
自然と一体となって喉を震わせるトルウの姿は、神々しい、とさえ呼べるものを放っていた。
「体の……力が……」
輪は、目を見開いて、膝を折った。
流れ出す旋律は心地よく、子守唄のように暖かく、人を嬰児に還元させるような呪力を含んでいる。
眠気が襲い、体も動かず、その中、輪は、眠るまい、と必死に指を結んだ。
婆婆の指先が微かに動いた。
その動きは果たして、蜃の目に止まったであろうか。
彼一人、眠気に誘われる様子もなく、地上三メートルの空間に、浮かんでいる。
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