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肆陸
しおりを挟むその日、九龍城砦の売春窟の一角に、凄まじい悪臭が立ち込めた。腐臭、汚臭、猥臭、異臭、刺激臭……どんな言葉を使っても言い表せないほどの、凄まじい匂いである。
「……今は何年何月何日の何時だい、ナイナイ?」
その異臭を纏い、九龍城砦に戻って来たのは、この美しい少年である。
激痛が襲う体を引きずりながら、あの地下水路から這い上がって来たのだ。そして、まず最初に持ち出したのが、その問いかけであった。
婆婆の顔は、何とも怪訝なものに変わっている。それでも、自ら針を打って、匂いを感じないようにし、
「どうやら、向こう側へ行って来たようだね。どうりでこのところ姿を見ないと思っていたよ」
と、まだ匂いが消えていないような顔で、輪の頭から爪先まで、視線を這わせる。それから、
「手ぶらだね」
と、輪の両手を、ジロジロと眺める。
どうやら、輪の怪我の心配をしてやる積もりはないらしい。もっとも、向こう側でついた傷は、この世界では無効となるらしく、今、輪の体に残っているのは、こちら側でついた傷――銃弾によるものだけである。それでも、瀕死の傷だ。
もちろん、向こうの世界にい続けていても、向こうで負った傷によって、死を迎えていたことだろう。以前、車の中で意識を失った時と違って、今回は、肉体ごとあの世界へ移動していたのだ。その肉体が、物質的世界――元の世界へ戻った途端、時間の限界を超越したツケを払わされることは、今までに集めた資料で、解っている。
「怪我人の質問に早く応えて……休ませてやろう……っていう気はないのかよ……」
「おや、いつから怪我人になったんだい? もう治ったから歩き回っていたんだろう? 怪我人っていうのは、おとなしくベッドで寝ているもんだよ」
この婆婆もかなり、意地が悪い。
「じゃあ、ずっとこの部屋にいて……いいんだな……?」
地下水路の悪臭が染み付いたままの服を見下ろし、輪は、その匂いを擦り付けるように、壁にゴシゴシと寄り掛かった。
一週間は、匂いが消えないかも知れない。
「何てことをするんだいっ、おまえはっ!」
婆婆の目玉も飛び出している。
「こんなこと」
輪は言った。
自分はもうこれ以上臭くなりようがないから、結構、平気なのかも知れない。その臭さに慣れている。
「年寄りを脅迫するなんざ、ロクな死に方はしないよ。さっさと出てお行き。今日は一九九六年七月三〇日だよっ」
婆婆もこうなると、引き下がるしかないのだろう。間違っても、手を触れたくはない状況である。
「……七月三〇日? たったあれだけの時間、向こう側にいただけで、五日も経ったのかよ……。百倍くらいの速さで時間が流れてる計算になるじゃないか……」
「さっさと出てお行きと言っただろっ。向こう一週間は、あたしにも、この部屋にも近づくんじゃないよ。客が通る廊下も歩くことは許さないからね」
どうやら、相当の臭さであるらしい。
「ぼくの治療は?」
「ハッ! あたしの知ったことじゃないね」
「……もっと、いい医者のところに行こ」
輪は、ぼそり、と呟いた。
「何か言ったかい?」
「別に……。ヘロインを打って寝よ、って言ったんだよ」
「それが賢明だね。他の医者へ行っても、その臭さじゃ診てくれないさ。――いや、おまえの顔を見ただけで逃げ出すね。もし、腰が抜けて逃げ出せなくなった医者がいたとしても、手が震えて役に立ちゃしないよ」
言いたい放題である。そして、かなり痛いところを突いている。
輪は、もう少し匂いを擦り付けてやろうか、とも思ったが、瀕死の重病人なので、仕方なく部屋へと戻り始めた。
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