魔窟降臨伝【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
32 / 65

参弐

しおりを挟む


「――ったく、年寄りをこき使うなんざ、何て子だろうね。ここまで一人で帰って来れたのなら、もう少し歩いたって死にやしないよ」
 第一声が、その言葉である。
 子供たちは、波が引くように、ザザっ、と部屋の隅に下がっている。
 子供たちが針や注射が嫌いなことは、どこの国でも変わりがない。そして、医者というだけでも恐ろしいのに、その婆婆はもっと恐ろしいのだ。
「この手前で……車を打付けたんだよ……。エンジンも……かかりゃしない……」
 チャイニーズ・マフィアの元から車を拝借して、この九龍城砦まで戻って来たものの、今の言葉の通り、視界が霞んでビルの壁に車を打付け、エンジンも掛からず、仕方なく、そこから近いこの売春窟に戻って来たのだ。
「死にたくなけりゃ、喋らないことだね」
 婆婆の言葉であったが、言っていることがムチャクチャである。さっき、死にやしない、と言ったばかりではないか。
 包帯代わりの布を解き、傷口を確認した上での言葉であった。婆婆の面貌も、難しいものに変わっている。
「何で生きてるんだい、おまえは」
 と、そんな言葉まで、吐いてみせる。
 輪の唇が、微かに、動いた。
「あいつを……見た……」
「ん? 何だい?」
「あいつ……。幻みたいに……きれいな……」
 言葉はそれ以上、続かなかった。
 輪の意識は、疲れを癒すように、眠りについた。
 その脳裏に過ったものは、夜の神のように幻想的な、一人の青年の姿であっただろうか。
 伝説の幻術師――シェン
「あの御方の意志なら、仕方がないね」
 針と医療具を手に、婆婆は呟くように言って、治療を始めた……。




 闇と光の、混沌たる世界であった。
 人工の川や海には、たえず水銀が注ぎ込まれ、人魚の膏を使って灯してある、永久に消えない燈りがあった。
 宮殿も、ある。――いや、宮殿の模型、と言った方がいいだろうか。人の住める大きさでは、なかった。
 他にも、数千に上る等身大の官吏や兵士、絢爛たる模型には、模型でありながら、とてつもない規模であると思わせる、豪華さと広さが備わっていた。
 複道(二階建の通路)によって、他の宮殿空間と連結され、巡り巡った閣道(重層の回廊)によって、地下宮殿に繋がっている。
 ふと、闇色の空間に、ひずみのような揺らめきが、生じた。陽炎でも立ち昇るかのような、ゆがみであった。
 そこから、美しい青年が、姿を見せた。
 柔らかい翡翠色の衣は光に輝き、射干玉の如き艶やかな黒髪は闇に際立ち、涼しげな切れ長の黒瞳は、静かに輪を見つめている。
 伝説の幻術師――シェン
「今回は幻ではなさそうだな」
 確かな質量を持つ美しい青年を見て、輪は言った。
「あんたが、ぼくをここに連れて来たのかい? ここは一体、どこなんだ?」
 と、奇妙とも言える空間を、ぐるりと見渡す。
 銃弾を受けた傷が痛まないことも、呼吸が楽に出来ることも、さして不思議とは思わなかった。
 心臓はすでに停止し、酸素を運ぶための血液も、送り出されては、いない。普通なら、呼吸困難どころか、死んでいて当然の状態である。
 それに、ついさっきまで――たった今まで、車に乗っていたはずなのだ。チャイニーズ・マフィアの元から抜け出して、九龍城砦の婆婆の元へと行く積もりで。
「……私が君を連れて来た訳ではない。君が自らここへ訪れたのだ」
 静かな口調で、蜃は言った。
「へー。覚えはないけど。――で、ここは何処なんだい?」
 割りと、深く考えないタチなのである、この少年。
驪山りさん始皇陵しこうりょう驪山陵りさんりょう)……そう呼ばれている」
 驪山陵――秦の始皇帝が建築した宮殿の一つ、地下宮殿のことである。
「驪山陵? ハッ! 秦の始皇帝はとっくにくたばって、阿房宮あぼうきゅうにも驪山陵にも足跡一つつけられないの世の人だぜ。それとも、ぼくは時間も空間も越えて、ここへ辿り着いた、とでも言うのかい?」
 紀元前二四七年、始皇帝が秦王になると同時に開始された驪山陵の造営は、天下統一後、その建設計画も大幅に拡張され、阿房宮に勝るとも劣らない規模を持つ、絢爛たる地下宮殿を完成させた。
 人間的な君主のレベルを超え、天地冥界をも含めた全ての支配者になろうとした始皇帝の、妄執の地の一つである。
 紀元前二二〇年、宇宙の支配者になろうとした始皇帝は、極廟を築き――極、即ち、天の中心に輝く北極星のことである――さらに、八年後、天帝の棲むとされる紫微宮に対応して、阿房宮を建設した。
 そして、冥界を支配するための地下宮殿、驪山陵――。
 自らが神にならんとして、夥しい数の宮殿を建築して行ったのである。


しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

Link's

黒砂糖デニーロ
ファンタジー
この世界には二つの存在がいる。 人類に仇なす不死の生物、"魔属” そして魔属を殺せる唯一の異能者、"勇者” 人類と魔族の戦いはすでに千年もの間、続いている―― アオイ・イリスは人類の脅威と戦う勇者である。幼馴染のレン・シュミットはそんな彼女を聖剣鍛冶師として支える。 ある日、勇者連続失踪の調査を依頼されたアオイたち。ただの調査のはずが、都市存亡の戦いと、その影に蠢く陰謀に巻き込まれることに。 やがてそれは、世界の命運を分かつ事態に―― 猪突猛進型少女の勇者と、気苦労耐えない幼馴染が繰り広げる怒涛のバトルアクション!

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

処理中です...