魔窟降臨伝【完結】

竹比古

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 ビルの谷間に、血生臭い足音が跳ね返ったのは、婆婆と月の精霊のような青年が、共に沈黙を守っていた時のことであった。
「へェ。凄い美人を見つけたじゃないか、ナイナイ(婆婆)。そいつにも客を取らせるのかい? 血の気がないところはぼくの趣味じゃないけど、別の意味で興味がわく。――ナイフで切り刻んでも血は出ないんだろ、そいつ? それとも、血の代わりに月の光でも溢れ出すのかい?」
 皮肉な口調でそう言ったのは、血生臭い足音の主、壮絶な美貌の少年であった。赤みがかった髪と瞳も、人の血を吸って、それほどに赤いのではないかと思わせる。
「輪か」
 婆婆が言った。
「輪……」
 玲瓏な青年、蜃の眼差しが、少年の方へと移り変わる。
 三人の畏怖されるべき人物が、ここに揃った。
 一人は真性のサディストと呼ばれる少年、輪。
 一人は魔窟の主たる鍼灸師、婆婆。
 今一人は、伝説の幻術師、蜃。
「また一つ死体が出来たぜ、――。内臓は潰してないから、高く売れる。クーラーに放り込んでおいたからさ」
 宙に浮かぶ幻想的な青年を見て驚くでもなく、いつもと変わりない口調で、輪は言った。
 彼は、切り刻めば血が出て痛みを訴える人間にしか、興味がないのだ。
「この前みたいに、腐った内臓を放り込んでおいたんじゃないだろうね?」
 悍ましい輪の言葉に驚くでもなく、この婆婆もまた、仏頂面で、悍ましい言葉を口にした。
 これが彼らの日常の会話なのだとすれば、何と恐ろしい二人なのであろう。
「……姥殿、その少年は?」
 そう訊いたのは、玲瓏な青年、蜃であった。
 こちらも、その二人の悍ましい会話に驚いてはいないらしい。
「この年寄りが取り仕切っている売春窟の娼婦が産み落とした災いの種でございます。九つになって客を取らせ始めたのはいいが、いきなり客のあそこを咬みちぎって――。それからというもの、人をいたぶり殺すことを覚えて、この婆婆にも手に負えない始末です。こんな男娼がいたのでは、商売にもなりますまい。今は好き勝手に暮らしております」
「……九龍城砦の住人だな」
他所よそではこのような子は産まれますまい。死者と共に生まれたせいかも知れませぬな。この婆婆もいつ切り刻まれることか、知れたものではない」
「ハッ! 神経も通ってない干からびた婆婆を切り刻んだところで、面白くもないさ。ぼくは、ぼくの思い通りに泣き叫んでくれる人間でないと厭なんだ。今日の奴も、ぼくを怒らせるから、つい、うっかり殺しそうになっちゃったよ。お陰で、ちょっとしか楽しむ時間がなかった」
 不機嫌をありありと顔に出し、美貌の少年、輪は、その面を美しく歪めた。
 つい、うっかり殺しそうになる、という恐ろしい言葉も、その少年には、相応しいものであった。
 美しい者なら、きっと何をしても許されるのだろう――そんな気さえ、した。
「ところで、その時代遅れどころか、いつの時代の格好かも判らない服を来た幻は誰なんだ? あんたが畏れるほどの化け物なのかい、ナイナイ?」
 最後の言葉は、決して皮肉ではなかっただろう。ここにいる誰もが、正しくズバ抜けた力を持つ化け物なのだ。
「私は、蜃。姥殿にはそう呼んでいただいている」
 青年は言った。
「蜃? へェ……。伝説人か。また九龍城砦が刺激的になりそうだな」
 妖気すら含む赤みがかった瞳が、魅惑的な形に、細まった。
「その瞳……。ケルトの神話に出て来る邪眼のバラールを思い起こさせる。その妖しい眼力で、眼を合わせた者の戦意を喪失させるという」
「本当にそうかも知れないぜ」
 輪は言った。
 しばらくの間、沈黙が流れた。
 だが、それは何を意味する沈黙であったのだろうか。
 口を開いたのは、蜃であった。
「……。の世は人間の時間の限界を超越する。そこを訪れて帰って来る者は、物質的世界に触れた途端、老い衰え、或いは呆気なく塵と化してしまうだろう。そこはまた、全ての空間的な定義をも超越する。地下に、或いは海の底に存在しているかも知れないし、遠い島の中にあるかも知れない。現実の世界と同じ広がりの上にあるかも知れないし、突然現れたり消えたりする家か、宮殿かも知れない。或いは、そこの人々が住んでいる広く変化に富む世界を包む、草に覆われた小さな丘であるかも知れない。洞窟を通ったり、湖の中を抜けたり、魔法の霧の中を抜けたり……或いは、単純に突然の洞察を許すことで行けるところかも知れない」
 と、ゆうるりと言う。
「――何の話なんだ?」
 淡々と続く蜃の言葉に、輪は瞳を細めて問い返した。
「アイルランドの、初期の文学の中でも、近代の民話の中でも愛好されているモチーフだ。そこは平和と調和の国と認識されているが、そこの住人は、戦いをやめる必要はない。時と場合によって違う形を取ることもあるが」
「そんな説明で人に理解してもらえると思ってるのかい? もしそうなら、相当我が儘な人間だぜ、あんた」
「理解する必要はない。君には要らぬ言葉だろう」
「喰えない奴だな」
 フッ、と漆黒の瞳が、夜に溶けた。
 だが、そのモチーフの意味するところは、何であったのだろうか。
 その玲瓏な青年には、この九龍城砦の初めと終わりが見えた、とでも言うのだろうか。
 中国と英国の管轄権の真空の中で、治外法権区域としてあり続けた魔窟――その魔窟が再びこの世に現れた原因が解った、とでも。
 ゆら、っと空間に歪みが生じた。地上三メートル、蜃の立つその位置の空間が、陽炎にでも包まれるかのように、ゆらゆらと揺らめき始めたのだ。
「もうお戻りになられるか」
 そう訊いたのは、婆婆であった。
「調べたいことが出来た。――また逢うことがあるやも知れぬ」
 その言葉を残して、蜃の姿は歪みの中に、ゆうるりと消えた。
 蒸し暑い香港の夏には、一際、幻想的な出来事であった……。


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