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玖
しおりを挟む「この婆婆に正体を明かされる積もりはございませぬかな、伝説の御方。この老いぼれの眼がまだ生きているや否や」
ほとんど皺と同化している双眸を持ち上げ、老婆は言った。
「……。九龍城砦の主は目端が利く」
「この婆婆の眼に間違いはないとおっしゃってくださるか。――なら、伝説の通り、蜃様とお呼び申し上げましょう」
その言葉に、月光の如き微笑が、柔らかく灯った。
「おお、その玲瓏さ。最初、御姿をお見かけした時から、この婆婆の眼に間違いはないと思うておりました。その御姿も実体ではありますまい。無論、あなた様の実体がどこにあるのかなど、訊きはしませぬが」
伝説の幻術師、蜃――。生きながらに伝説と謳われるその青年は、一体、どれほどの存在であるというのだろうか。
聞いたことはないだろうか。
古代中国では、蜃の吐く気で出来た楼こそ、海市蜃楼――即ち、蜃気楼であると考えられていた、という話を。
その伝えがあったから、彼の名がついたのか、彼の名があったから、その伝えが生まれたのか、それを知る者は、人の世にはいない。
だが、彼が伝説の幻術師、蜃であることは間違いなかった。
「これがあなた様の生み出された楼ではないのだとすれば、一体、誰が?」
不気味な――難しい顔で、婆婆は訊いた。
今の今まで、この九龍城砦の出現が、蜃の幻術によるものだと思っていたからこそ、出て来た問いかけである。
「私もそれが知りたい、姥殿」
蜃は言った。
「その後はどうなさるお積もりかな」
「壊す――と言ったら、姥殿はどうなさる?」
老婆の頬さえ染めさせる麗容が、人外の神秘を放って、婆婆を見据えた。
その美しい面貌で見つめられて、抗える人間などいはしないだろう。
だが――。
「……敵になるしかございませぬな」
事もなげに、婆婆は言った。
やはり人間ではないのだ、この老婆は。
「九龍城砦は、この婆婆の生命――。いや、ここを故郷とする全ての住人の――。度重なる立ち退き命令や強制取り壊しに抗議して来た以前と同じよう、我らを追い出そうとする者を、敵として排除するしかありますまい」
「一度敗れても、屈せぬか」
「我らは九龍城砦の再建を誓って、一時、ここを明け渡しただけのこと――。敗れたことなどございませぬ。たとえ本土に返還されようと、ここは治外法権の無法地帯。国籍を持つことはありますまい」
あらゆる悪の巣喰う魔窟――そんな無秩序な無法地帯を、伝説の麗人に逆らってまで守り抜こうというのか、この婆婆は。
幻の麗人は、ただ瞳を細めただけであった。
物腰が静かであるだけに、優しげ、とも受け取れる。
だが、何を考えているのかは、判らない。
抑、この魔窟を甦らせたのは、一体、誰であるというのだろうか。
いつ訪れても危険しか出迎えることのない東洋最大で最後のカスバ――これを甦らせた人物とは。
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