魔窟降臨伝【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
9 / 65

しおりを挟む

「この婆婆に正体を明かされる積もりはございませぬかな、伝説の御方。この老いぼれの眼がまだ生きているや否や」
 ほとんど皺と同化している双眸を持ち上げ、老婆は言った。
「……。九龍城砦の主は目端が利く」
「この婆婆の眼に間違いはないとおっしゃってくださるか。――なら、伝説の通り、シェン様とお呼び申し上げましょう」
 その言葉に、月光の如き微笑が、柔らかく灯った。
「おお、その玲瓏さ。最初、御姿をお見かけした時から、この婆婆の眼に間違いはないと思うておりました。その御姿も実体ではありますまい。無論、あなた様の実体がどこにあるのかなど、訊きはしませぬが」
 伝説の幻術師、蜃――。生きながらに伝説と謳われるその青年は、一体、どれほどの存在であるというのだろうか。
 聞いたことはないだろうか。
 古代中国では、オオハマグリの吐く気で出来た楼こそ、海市蜃楼ハイシーシェンロウ――すなわち、蜃気楼であると考えられていた、という話を。
 その伝えがあったから、彼の名がついたのか、彼の名があったから、その伝えが生まれたのか、それを知る者は、人の世にはいない。
 だが、彼が伝説の幻術師、蜃であることは間違いなかった。
「これがあなた様の生み出された楼ではないのだとすれば、一体、誰が?」
 不気味な――難しい顔で、婆婆は訊いた。
 今の今まで、この九龍城砦の出現が、蜃の幻術によるものだと思っていたからこそ、出て来た問いかけである。
「私もそれが知りたい、姥殿」
 蜃は言った。
「その後はどうなさるお積もりかな」
「壊す――と言ったら、姥殿はどうなさる?」
 老婆の頬さえ染めさせる麗容が、人外の神秘を放って、婆婆を見据えた。
 その美しい面貌で見つめられて、抗える人間などいはしないだろう。
 だが――。
「……敵になるしかございませぬな」
 事もなげに、婆婆は言った。
 やはり人間ではないのだ、この老婆は。
「九龍城砦は、この婆婆の生命――。いや、ここを故郷とする全ての住人の――。度重なる立ち退き命令や強制取り壊しに抗議して来た以前と同じよう、我らを追い出そうとする者を、敵として排除するしかありますまい」
「一度敗れても、屈せぬか」
「我らは九龍城砦の再建を誓って、一時、ここを明け渡しただけのこと――。敗れたことなどございませぬ。たとえ本土に返還されようと、ここは治外法権の無法地帯。国籍を持つことはありますまい」
 あらゆる悪の巣喰う魔窟――そんな無秩序な無法地帯を、伝説の麗人に逆らってまで守り抜こうというのか、この婆婆は。
 幻の麗人は、ただ瞳を細めただけであった。
 物腰が静かであるだけに、優しげ、とも受け取れる。
 だが、何を考えているのかは、判らない。
 そも、この魔窟を甦らせたのは、一体、誰であるというのだろうか。
 いつ訪れても危険しか出迎えることのない東洋最大で最後のカスバ――これを甦らせた人物とは。


しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

Link's

黒砂糖デニーロ
ファンタジー
この世界には二つの存在がいる。 人類に仇なす不死の生物、"魔属” そして魔属を殺せる唯一の異能者、"勇者” 人類と魔族の戦いはすでに千年もの間、続いている―― アオイ・イリスは人類の脅威と戦う勇者である。幼馴染のレン・シュミットはそんな彼女を聖剣鍛冶師として支える。 ある日、勇者連続失踪の調査を依頼されたアオイたち。ただの調査のはずが、都市存亡の戦いと、その影に蠢く陰謀に巻き込まれることに。 やがてそれは、世界の命運を分かつ事態に―― 猪突猛進型少女の勇者と、気苦労耐えない幼馴染が繰り広げる怒涛のバトルアクション!

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

処理中です...