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捌
しおりを挟む深夜――。
九龍城の中央に位置する義学大楼――大王廟の正面に、異変が生じた。地上三メートルほどの空間に、陽炎が立ち昇るような歪みが生じたのだ。ゆらゆらと揺らめくその空間は、まるで、異界への入り口のようでもあった。
人一人、通れるくらいの大きさがあるだろうか。奇妙な現象であったが、この九龍城砦が甦ったことに比べれば、それほど奇怪な現象ではなかったかも、知れない。
それに、この九龍城砦でなら、どんなことが起こっても、決して不思議ではなかったのだ。
異次元空間が呼び出されたかのようなその現象は、この魔窟の住人の目を醒まさせるようなものでは、なかった。
ゆらゆらと揺らめく空間に、人の姿が浮かび始めた。徐々に鮮明な線を結び、その歪みを正して行く。
やがて、完全に歪みが無くなると、その人物の姿が露になった。
美しく玲瓏な青年であった。
彼に人の言うところの年齢があるのかどうかは解らないが、もしあるのだとすれば、まだ二十代の半ばであっただろう。
しかし、それが彼の実際の年齢に当てはまるとは思えない。何世紀も――或いは、何十世紀も生きていたところで、不思議ではなさそうな青年だったのだ。
切れ長の涼しげな黒瞳と、夜の神のような神秘を備えている。長い黒髪を一つに結い上げ、一糸の乱れも許さずに、背へと真っすぐ落としている。
身に纏っているのは、柔らかい翡翠色のローブであった。いつの時代を表すものなのかすら、判らない。帯も同色の衣を使い、物静かな雰囲気を醸し出している。
幻なのか――誰もがそう思ったことだろう。
玲瓏、という言葉こそ相応しい青年であったのだ。人外の麗容も、その身に帯びる雰囲気も、人が持ち得るものでは、ない。
「……幻術、ではないな」
悍ましいばかりのビル群を見渡し、青年は言った。
その呟きからしても、彼もまた、この九龍城砦の出現を確かめに来た人間の一人なのであろう。――いや、人間なのであろうか、彼は。あまりに幻想的なその姿は、彼こそ神々の生み出した一夜の幻想であるのだと、誰もが思ったに違いない。
果たして彼は、何者なのか。
「ほう。これは、人ならぬ御方も、この九龍城砦に興味をお持ちか」
嗄れた声が、闇から届いた。
その感嘆を、幻のような玲瓏な青年に向けたのは、皺深い面貌の老婆であった。干上がった沼の泥と、枯れ果てた古木の二つを混ぜ合わせて作れば、その婆婆にそっくりなものが出来上がるだろう。歯の抜けた口元が、不気味に嗄れた声を、紡いでいる。
それ以上に不気味なことは、その婆婆の面貌が、目の前の玲瓏な青年を見つめ、ぽっ、と染まっていることであった。
そんな老婆に頬を染めて見つめられては、誰もが発狂して狂い死にしたに違いない。
だが、目の前の青年は、表情一つ、変えてはいない。
「……。九龍城砦一の鍼灸師、この魔窟の主たる姥殿か」
と、老婆の方を振り返り、月の精霊の如き穏やかさで、驚きもせずにそう言った。
やはり、彼は人ではないのだろう。
「この年寄りに、もったいない御言葉を――。医師免許も持たない、もぐりの違法開業医に過ぎませぬ」
この婆婆も人とは思えない。――いや、人とは思いたくない不気味さである。
彼女は正しく、この九龍城砦の主であるのだ。
「姥殿は、この九龍城砦をどう見ておられる? 果たして、一雨を境に成し得るものや否や」
切れ長の瞳を細めて、青年は言った。
「さて。この婆婆は、伝説の幻術師たるあなた様が、我々、九龍城砦の住人の願いを聞き届けてくださったものだとばかり思うておりましたが」
「……生憎、これは私の楼ではない」
「ほう」
皺深い婆婆の面貌が、意外な言葉を聞いたかのように、わずかの間、皺を伸ばした。
「あなた様以外に、このような楼を創れる者がいるとは――。長生きはしてみるものですな。もっとも、あなた様から見れば、我々の生命など、取るに足らないものでありましょうが」
「……」
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