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壱
しおりを挟む鴉が、鳴いた。
湿った雨が、霧のように降る朝のことである。
空を厚く覆う暗い雲が、妖気さえ含むように、黄色い大地に雫を落とす。
それは、天に住まう慈悲深い神々の恵でもあっただろうか。そして、恐ろしい災いをもたらす、神々の気まぐれでもあったに、違いない。
一九九六年、六月三〇日、香港。
亜熱帯の雨季、九龍に降ったその雨は、界限街の東南地域に、奇怪な現象を引き起こした。
その様を見た者の一人は、こう言った。
雨が降り始めて数時間ほど経った頃、ゆうるりと、それでも急速に、その区域の風景が溶けて行くのを見た、と。
公園や歴史博物館――それらが雨に煙るように陰となり、細い霧雨が触れる度に、その部分が霞んで消え失せた、と。
雨は細く冷たいものであった。霧がかかったように辺りを霞ませ、妙な妖気さえも放っていた。
その雨の中、九龍の一つの区域が消えたのだ。
ある者はそれを『溶けた』と表現し、またある者は、それを『塗り潰された』と表現した。細い雨の雫が、その区域の風景を、キャンバスに描かれた絵画の如く、繊細な筆のタッチで消して行ったのだと。
だが、最も適切な表現を用いることが出来る者は、ただの一人もいなかった。
そして、その雨がもたらした災いは、その一つだけには収まらなかった。
雨がやみ始める数時間前、全てが掻き消されたその区域に、再び新たな風景が浮かび始めたのだ。
その様を見た者は、こう言った。
細い糸のような雨が降り注ぐ度に、ゆうるりと、それでも急速に、数百ものビル群が築かれて行くのを見た、と。
何もかもが消え失せてしまったその空間に、雨が斜を描いて降り注ぐ度に、壁画のような景色が浮かび上がり、やがて全てが現れた、と。
雨は暗く冷たいものであった。
ヴェールを降ろすように辺りを包み、背筋が凍るような戦慄さえ放っていた。
その雨の中、三〇〇を越えるビル群が現れたのだ。
ある者は、それを『描かれた』と表現し、またある者は、それを『映し出された』と表現した。暗い雨の雫が、その区域に幻でも描くよう、巧妙な水の色彩で、その景色を生み出して行ったのだと。
だが、最も適切な表現を用いることが出来る者は、ただの一人もいなかった。
それが、その日の雨のもたらしたものであった。
そして人々は、その雨が降臨させたビル群を、以前の通り、魔窟、と呼んだ。
九龍城砦――。
地元の者でも、迷い込めば生きて戻れない、と実しやかに謳われたその魔窟は、亜熱帯の雨季、再びその地に甦ったのだ。
清朝以来、一世記半もの間、香港のシンボルとしてあり続け、永きの間、中国と英国の紛争の種として、英国領でもなく、中国の管轄にも属さず、治外法権区域としてあり続けた無法地帯――それが、これからも香港のシンボルであり続けようとするかのように、雨に紛れて甦った。
違法建築の雑居ビルが暗く陰鬱に建ち並び、悍ましい障気を放っている。
薄汚く、非衛生的で、臭く、異様な雰囲気が、周囲の空気をも淀ませている。
東洋最大で最後のカスバ――そう呼ばれた無国籍空間が、今日、この地に甦ったのだ。
麻薬密売、売春、賭博、人身売買、武器密売、犯罪者、不法入国者……あらゆる悪を蔓延らせ、また、あらゆる魔を受け入れて来た魔の巣窟が。
彼ら、九龍城砦の住人が受け入れなかったものといえば、立ち退きと強制取り壊しくらいのものであっただろう。
だが、それも香港の本土への返還を前にして、三年前の一九九三年、ついに中英間の同意の元、決行されることになったのだ。そして、同区の二.七平方キロメートル内の住民は、三月までに立ち退かされ、四月には建物の撤去が始まった。
あらゆる悪の温床、九龍城砦は、香港から姿を消したのだ。跡地は歴史博物館や公園となり、誰もがその悍ましい地のことを忘れようとしていた。
だが、一九九六年六月三〇日、暗い霧雨が降る中、九龍城砦は、再びその地に甦った。
魔窟降臨、である。
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