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番外編 アール編

アール編 1

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 三年間の基礎医学教育を終え、次の臨床医学教育課程に進み、一年が経った。
 医学部では基礎と臨床を合わせて六年間のカリキュラムが組まれ、去年、臨床実習資格総合判定試験に受かったアールは、今、オックスフォード医学部の教育病院であるJ・ラドクリフ病院の診療チームに配属され、回診やカンファレンス、日直、当直はもちろん、学生向けの講義やセミナーに参加し、忙しい毎日を送っていた。
 同じように三年間の学部を終え、そのまま大学院へ進んだ階は、その年に従兄弟のエリックと婚約をし、叔父であり、保護者代わりであるアンドルゥに、十六夜の事業についてあれこれと教え込まれながら、イギリスと日本を往復していた。
 そんな訳でアールも、最終学年での海外実習の希望を出すために――日本の病院で実習を受けるため、当然、日本語の勉強もしていた訳で……階やアンドルゥとの会話は、全て日本語ですることになっている。
「あぁ……。一日が二四時間じゃ足りないよなぁ……」
 と、オックスフォード大学の学寮コレッジ――クライスト・チャーチ・コレッジの階の部屋に着くなり、早速、日本語で愚痴を零す。
 何しろ、アンドルゥからは首席卒業でない限り、十六夜には入れない、と釘を刺されているのだから――。臨床実習をしながら、さらに勉強をし、技術も身につけるのは、医者の家庭で育っていないアールには、時間がいくらあっても足りなかった。その上、日本語まで――いや、これは階に会う口実でもあるのだから、構わないのだが……。
「当直明けなんだから、無理して来なくてもいいのに」
 来るなりソファに横になるアールを見て、気遣うように言ったのは、階である。
 去年、エリックと婚約したとはいえ、こちらも、日本屈指の大財閥、十六夜グループの事業を継ぐ身として、忙しい。それなら大学院などへ進まず、日本に戻って正式に十六夜を継げばよかったのだが、それも……まだ自信がないとあって、しばしの猶予期間を得るために、院への逃げ道に飛び込んだのだ。
 まあ、確かにまだ若く、英国と日本の血を半分ずつ受け継いだその容貌は色素も薄く、華奢で小柄な体躯と共に、思わず抱きしめたくなるほど愛らしい。
「君に会うためなら、無理だってするよ」
 婚約者がある身の階に、アールは臆面のない言葉を持ち出した。――いや、婚約者がいるのはアールも同じで――といっても、家のための婚約で、後継ぎを作るためだけの契約のようなものなのだが……。
 今から一八〇年以上前、Y染色体を持たない女だけが新種の皮膚癌に侵され、地球上から絶滅した。学者たちは、慌ててその癌の原因を探り、それが有害宇宙線と、人間の作り出した突然変異誘発物質によって引き起こされたDNA障害であることが判った。そして、女たちを有害宇宙線の届かない安全な場所に隔離したが、その新種の癌は恐ろしい速さで転移し、遺伝子治療も追いつかないまま、女は地球上から絶滅した。一度浴びた有害宇宙線は、地下や屋内に潜ってからも、その進行スピードを落とさず、女の体を破壊したのだ。まだ一度も外へ出たことのない赤ん坊さえ、母親から受け継いだ異常遺伝子のために、癌を発症して、呆気なく死んだ。
 そして、この世は、染色体〈XY〉の男だけの世界となり、染色体〈XX〉の女は存在しなくなった。
 もちろん、女の姿形をした者は、いる。それは、女が絶滅したから、といって現れた特種な者ではなく、女がいた頃から存在していた性転換した男たちであった。彼らはトルソーと呼ばれ、上流階級では、未だ受け入れられてはいないが、中流階級以下では、そう珍しくもなく受け入れられている。――いや、問題はある。彼らは男としての生殖機能を捨ててしまうため、子供を造ることが出来ないのだ。
 だから、女ではなく、トルソー――胴体だけのマネキン人形――という名で呼ばれている。
 その中で、階はこの地球上に存在する、唯一の〈XX〉であった。――今までは。
 そう。今までは……。
「少し休んでからにする?」
 階の問いに、
「……その日本語の意味は、よく解らない。休憩するということ? それとも寝た方がいい、という意味?」
 曖昧な表現が多い日本語の解釈に、アールは訊いた。
 言葉だけ聞けば『休憩する』という意味だが、話の流れからすると『睡眠を取った方がいい』という意味に聞こえる。
 困ったことに日本語は、話の流れで主語や単語を省いて、どちらとも受け取れる表現を使うことが多いのだ。
 英語なら間違いようがない言葉でも、日本語では話の流れが解っていなくては、その意味さえ判断できない言葉が存在する。
「『寝る』方の休む」
「――君と?」
 再び――今度は、階の心を問うように、アールは訊いた。
「……それじゃあ、休むことにならない」
 真っ赤になって、階は言った。
 そういうところも、昔から変わってはいない。
「ふーん。少しは大人になったんだ」
 一緒に寝ることの意味に赤くなる階を見て、アールは言った。
「……からかってる?」
「まさか。少し欲求不満なだけで――。この使い方、合ってるかな?」
 異国の言葉なら、普段、言えないようなことでも、何故かすんなりと言えてしまう。
「――。もう日本語の勉強なんか必要ないと思う」
 ぷい、と横を向いて、階は言った。
 それだけ堪能に話せるのだから、忙しい中、週末ごとに日本語を勉強しに来るよりも、睡眠を取った方が有意義だ。
「使わないと忘れて行くだろ」
「アンディと話せば?」
 今度は階の攻撃である。アールが――いや、アールに限らず、その若きウォリック伯爵を苦手と思わずに話しが出来る人間など、階を除いてはいないのだから。
「……ぼくが悪かったです」
 早々に降参するしかない。それに、
「話せても、読み書きが出来ないと向こうで困るし」
 日本語は、ひらがなだけでなく、漢字もカタカナも使い分けなくてはならないのだ。アルファベット26文字だけで全てを表わしてしまう英語とは、複雑さが半端ではない。
 そして二人は、会話をノートで交換する、いつもの勉強を始めたのだった……。


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