上 下
290 / 443
番外編 オックスフォード編

オックスフォード 1

しおりを挟む

 オックスフォードでの授業は、教師一人に対して、生徒一人――もしくは数人の個人指導テュートリアルが中心で、普通の講義も行われているが、そちらの方は必ずしも出席しなくてもいい。
 もちろん、専門によって違いはあるが、個人指導テュートリアルは週に一回から二回で厳格に進み、日本の大学のような一般教育課程はなく、学部の三年間は、専門教育に当てられる。
 それだけ聞けば、随分、楽なように聞こえるが、実際には、その週一、二回の個人指導テュートリアルをクリアするために、毎日、ひたすら勉強しなくてはならない、というのが現実だった。
 そして、今日も――。
 クライスト・チャーチ・コレッジの図書館で、階が個人指導テュートリアルのための自習をしていると、
「よかったら、今度の週末、オペラにでも行かないか?」
 と、一人の学生が、階の隣に腰掛けた。が――。
「おい、よせよ――。ローレンス・シアーズの婚約者だぜ」
 と、すぐに他の生徒に、引っ張って行かれる。
 階は、フゥ、と息をついた。
 離れた席では、さっきの学生を含む数人が、下世話な会話を続けている。
「ローレンス・シアーズって、あの銀髪プラチナ・ブロンドの、だろ?」
「ああ。怒らせると怖いんだから、やめとけって」
「ちょっと待てよ。フェリックスはバートと付き合ってるんじゃないのか?」
「バート?」
「医学部のアルバート・レヴィー・フレイザーだよ。よく一緒にいるじゃないか」
「ああ、アールか。イートンでは、アールって呼ばれてたんだよ」
「じゃあ、週末に迎えに来てるのは誰なんだ? 金髪に碧い瞳の――」
「あれは従兄弟のエリックだよ」
「叔父のアンドルゥじゃないのか?」
「ああ、二人とも同じ髪と瞳の色だな」
「アンドルゥって、あのアンドルゥ・F・グレヴィル?」
「そうだよ。『イートン史上最悪の生徒』のアンドルゥ・F・グレヴィルだ」
「ゲゲっ。ローレンスより怖いじゃないか」
「だけど、週末を一緒に過ごしてるのなら、エリックが本命じゃないのか?」
「誰が本命でも怖いって――。それでも誘う気があるのか?」
「だけど……新入生の中じゃ、一番だろ」
「一番でも、あの可愛い顔でも、誘える奴なんかいるかよ」
 とても自習を続けていられる雰囲気ではない。
 階は本を片づけて席を立ち、コレッジの図書館を後にした。
 このオックスフォードでもやはり、十六夜階という日本名ではなく、フェリックス・G・グレヴィルという英国名の方を名乗っている。ミドルネームのGは、父たるクリストファーと同じ、グラントをもらったものだ。ウォリック伯爵の長子であったクリストファーと、日本の大財閥の総帥であった十六夜司の一人息子として育ったが、今はもう、両親とも死んでしまって、この世にはいない。代わりに、口うるさい保護者代わりなら何人かいるのだが……。
「ああ、いたいた、フェリー。――お昼まだだろ? 一緒に行かないか?」
 イートンの頃から、何かと階の世話を焼いてくれるアールが、今日も食堂グレートホールに誘ってくれる。
「大変なんだろ、医学部? いつも探してくれなくていいのに」
 階が言うと、
「君と一緒にいたいから探すんだよ。――それに、勉強はアンディにもみてもらってるから、大丈夫だし」
 二人はグレート・ホールへと足を向けた。
 オックスフォードにも、中流階級以下の子弟が大分、入学して来るようにはなったが、このクライスト・チャーチ――通称、ザ・ハウスのようなコレッジは、相変わらず貴族的で、上流階級の子弟が占めている。
 四〇ものコレッジを持つマンモス大学でも、階級の差は、はっきりしていて、交友関係もおのずから話の合う人間を選ぶため、同じ階級の生徒に限られてしまう。
「アンディに勉強をみてもらう、って言っても、大量の本を送りつけて来るくらいだろ? いつも忙しいし」
「その本が助かるんだ。彼が実際に使ってた本だから、書き込みや補足が一杯あって――。実際、あれ以上に役に立つ本なんて、このコレッジの図書館にだってない」
 三年間の基礎医学教育と、三年間の臨床医学教育で、医学部は六年間のカリキュラムが組まれている。まだその長い道のりに、足を踏み入れたばかりなのだ。
「ふーん……。アンディは、ぼくにも医学部に進んで、十六夜を継いで欲しかったのかなァ」
 考えるように、階は言った。
「君は十六夜の事業を継ぐ身なんだし――。やっぱり経営経済学部が妥当なんじゃないか」
「そうだけど……」
「卒業したら、ぼくが十六夜に入って、君の側にいるんだから、医学的なことなんて必要ないさ」
 二人が話しながら歩いていると、
「おい、アルバート・レヴィ! 指導教官が、提出物が出てない、って怒ってたぞ」
 と、同じ医学部の生徒の声が聞こえた。
「あ――、そうだ。後で出しに行くつもりで、忘れてた」
 アールはそう言い、申し訳なさそうに、階を見た。
「ぼくはいいから、行って来なよ」
「すぐに戻るから――」
 その言葉に、
「俺が代わって相手をしといてやるよ。――どこに行くんだ?」
 と、声をかけて来た生徒が、階の肩に手を回した。
「おい――っ!」
 アールの言葉は、それだけで終わった。
 階のこぶしが、その生徒の横っ面に、見事なまでに決まったのだ。
「あーあ……。イートンから来た奴でもなければ、まさか君が、その顔ですぐに殴るなんて、思わないよな……」
 地面にぶっ倒れる生徒を見て、アールは溜息まじりに、言葉を零した。
 階は、と言えば、
「じゃあ、先に行ってるから」
 と、素知らぬ顔で、歩き出す。
 本当に、その愛らしい顔で、口よりも先に手が出るとは、誰ひとりとして思うまい。アールでさえ、イートンで初めて階が上級生と殴り合うのを見た時は、驚いたものだ。まあ、それがいつものこととなると、すぐに慣れてしまったが……。
 だが、今の階には、不意打ちでの一発が精一杯だろう。男相手に、女の力がいつまでも通用するものでは、あり得ないのだ。
「やっぱり、一人にしておけないよな……」
 アールの心配は尽きそうに、なかった……。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

俺のセフレが義妹になった。そのあと毎日めちゃくちゃシた。

ねんごろ
恋愛
 主人公のセフレがどういうわけか義妹になって家にやってきた。  その日を境に彼らの関係性はより深く親密になっていって……  毎日にエロがある、そんな時間を二人は過ごしていく。 ※他サイトで連載していた作品です

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...