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番外編 オックスフォード編
オックスフォード 1
しおりを挟むオックスフォードでの授業は、教師一人に対して、生徒一人――もしくは数人の個人指導が中心で、普通の講義も行われているが、そちらの方は必ずしも出席しなくてもいい。
もちろん、専門によって違いはあるが、個人指導は週に一回から二回で厳格に進み、日本の大学のような一般教育課程はなく、学部の三年間は、専門教育に当てられる。
それだけ聞けば、随分、楽なように聞こえるが、実際には、その週一、二回の個人指導をクリアするために、毎日、ひたすら勉強しなくてはならない、というのが現実だった。
そして、今日も――。
クライスト・チャーチ・コレッジの図書館で、階が個人指導のための自習をしていると、
「よかったら、今度の週末、オペラにでも行かないか?」
と、一人の学生が、階の隣に腰掛けた。が――。
「おい、よせよ――。ローレンス・シアーズの婚約者だぜ」
と、すぐに他の生徒に、引っ張って行かれる。
階は、フゥ、と息をついた。
離れた席では、さっきの学生を含む数人が、下世話な会話を続けている。
「ローレンス・シアーズって、あの銀髪の、だろ?」
「ああ。怒らせると怖いんだから、やめとけって」
「ちょっと待てよ。フェリックスはバートと付き合ってるんじゃないのか?」
「バート?」
「医学部のアルバート・レヴィー・フレイザーだよ。よく一緒にいるじゃないか」
「ああ、アールか。イートンでは、アールって呼ばれてたんだよ」
「じゃあ、週末に迎えに来てるのは誰なんだ? 金髪に碧い瞳の――」
「あれは従兄弟のエリックだよ」
「叔父のアンドルゥじゃないのか?」
「ああ、二人とも同じ髪と瞳の色だな」
「アンドルゥって、あのアンドルゥ・F・グレヴィル?」
「そうだよ。『イートン史上最悪の生徒』のアンドルゥ・F・グレヴィルだ」
「ゲゲっ。ローレンスより怖いじゃないか」
「だけど、週末を一緒に過ごしてるのなら、エリックが本命じゃないのか?」
「誰が本命でも怖いって――。それでも誘う気があるのか?」
「だけど……新入生の中じゃ、一番だろ」
「一番でも、あの可愛い顔でも、誘える奴なんかいるかよ」
とても自習を続けていられる雰囲気ではない。
階は本を片づけて席を立ち、コレッジの図書館を後にした。
このオックスフォードでもやはり、十六夜階という日本名ではなく、フェリックス・G・グレヴィルという英国名の方を名乗っている。ミドルネームのGは、父たるクリストファーと同じ、グラントをもらったものだ。ウォリック伯爵の長子であったクリストファーと、日本の大財閥の総帥であった十六夜司の一人息子として育ったが、今はもう、両親とも死んでしまって、この世にはいない。代わりに、口うるさい保護者代わりなら何人かいるのだが……。
「ああ、いたいた、フェリー。――お昼まだだろ? 一緒に行かないか?」
イートンの頃から、何かと階の世話を焼いてくれるアールが、今日も食堂に誘ってくれる。
「大変なんだろ、医学部? いつも探してくれなくていいのに」
階が言うと、
「君と一緒にいたいから探すんだよ。――それに、勉強はアンディにもみてもらってるから、大丈夫だし」
二人はグレート・ホールへと足を向けた。
オックスフォードにも、中流階級以下の子弟が大分、入学して来るようにはなったが、このクライスト・チャーチ――通称、ザ・ハウスのようなコレッジは、相変わらず貴族的で、上流階級の子弟が占めている。
四〇ものコレッジを持つマンモス大学でも、階級の差は、はっきりしていて、交友関係も自ずから話の合う人間を選ぶため、同じ階級の生徒に限られてしまう。
「アンディに勉強をみてもらう、って言っても、大量の本を送りつけて来るくらいだろ? いつも忙しいし」
「その本が助かるんだ。彼が実際に使ってた本だから、書き込みや補足が一杯あって――。実際、あれ以上に役に立つ本なんて、このコレッジの図書館にだってない」
三年間の基礎医学教育と、三年間の臨床医学教育で、医学部は六年間のカリキュラムが組まれている。まだその長い道のりに、足を踏み入れたばかりなのだ。
「ふーん……。アンディは、ぼくにも医学部に進んで、十六夜を継いで欲しかったのかなァ」
考えるように、階は言った。
「君は十六夜の事業を継ぐ身なんだし――。やっぱり経営経済学部が妥当なんじゃないか」
「そうだけど……」
「卒業したら、ぼくが十六夜に入って、君の側にいるんだから、医学的なことなんて必要ないさ」
二人が話しながら歩いていると、
「おい、アルバート・レヴィ! 指導教官が、提出物が出てない、って怒ってたぞ」
と、同じ医学部の生徒の声が聞こえた。
「あ――、そうだ。後で出しに行くつもりで、忘れてた」
アールはそう言い、申し訳なさそうに、階を見た。
「ぼくはいいから、行って来なよ」
「すぐに戻るから――」
その言葉に、
「俺が代わって相手をしといてやるよ。――どこに行くんだ?」
と、声をかけて来た生徒が、階の肩に手を回した。
「おい――っ!」
アールの言葉は、それだけで終わった。
階のこぶしが、その生徒の横っ面に、見事なまでに決まったのだ。
「あーあ……。イートンから来た奴でもなければ、まさか君が、その顔ですぐに殴るなんて、思わないよな……」
地面にぶっ倒れる生徒を見て、アールは溜息まじりに、言葉を零した。
階は、と言えば、
「じゃあ、先に行ってるから」
と、素知らぬ顔で、歩き出す。
本当に、その愛らしい顔で、口よりも先に手が出るとは、誰ひとりとして思うまい。アールでさえ、イートンで初めて階が上級生と殴り合うのを見た時は、驚いたものだ。まあ、それがいつものこととなると、すぐに慣れてしまったが……。
だが、今の階には、不意打ちでの一発が精一杯だろう。男相手に、女の力がいつまでも通用するものでは、あり得ないのだ。
「やっぱり、一人にしておけないよな……」
アールの心配は尽きそうに、なかった……。
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